●個人と集団人 ~西欧人と日本人~
最近、ここメルボルンで、2種類の情報に触れることがあった。
そして、日本人の行き先について、とても考えさせられました。
一つは、
オーストラリアの幼児教育ビデオ。
もう一つは、
日本へ英語教師として1年半日本に赴任した、英国生まれのオーストラリア人の投書です。
幼児教育ビデオのシリーズの題名は、「Diversity(多様性)」。
その第一巻が、Individuality(「個性を育む」)。
幼稚園か保育園での幼児の行動がビデオに収録してあり、そのビデオを見ながら、幼児の個性を伸ばすには、どういうアプローチがあるのかについて、幼児教育の専門家(10名位)が議論をしている内容です。
まず、見ていて、日本人の私として、衝撃だったのは、
幼児にとって、危険のない限り(ムリに飛び降りるとか)、
すべて、幼児のセルフ・ヘルプ(自分で何でもやらせる)が
基本になっていることでした。
カウンセラー(ヘルパー)の人は、なんの指示も、手伝いもしないのです。
例えば、トイレ、食べ物、お絵かき、遊びなど、自由にやらせて、それを見守っているのでした。
だから、幼児は、自分で、何でもやらなければならない。
最初は、試行錯誤、時間がかかっても、
最後には、それなりにその行動を完成する。
親は、それも見て、何にも手伝わず、
言葉で「褒める」。
子供は、褒められた後は、その行動を学習する。
西欧の「個人主義」の源泉は、幼児からの教育にあったんだ、と初めて気がつきました。
日本人が海外へ出て、特に、大学留学で周囲の個人主義的生活に親しむのと、
断然、歴史が違う。
集団主義的生活は、他人の視線の中で「気に」しながら、行動をする。
これは、幼児だけでなく、その後ずっと大人になってからも。
もちろん日本人だけでなく、日本にいる西欧人も日本人の視線を気にかける。
以前、アメリカから来ていた若い女性が、こう言っていたことを思い出します。
「いつも見られているから、時々、わざと突飛なこともするのよ」って。
よく、日本は、high context society という表現がなされている。
つまり、状況/他人に左右されやすい世界が、日本なのだ。
そういえば、比較文化学の古典である、ベネディクトの「菊と刀」(1946: 2)にも、
『日本人は、最も高い程度で、双方の行動を取る。アグレッシブ(攻撃的行動を取ったり)だったり大人しかったり、軍国主義的であったり審美的であったり、横柄であったり丁寧であったり、柔軟性がなかったり融通がきいたり、従順であったり小突きまわされると憤慨したり、忠実であったり裏切ったり、勇敢であったりおずおずしたり、保守的であったり進取の気象に富んだり、と。彼ら日本人は、他人が彼らの行動についてどう考えるかについて、驚くほど、気にする。そして、日本人の行動の誤りについて、他人が何も知らないと思ったとき、自責の念にかられて打ちのめされるのです』
他人がどう考えるかを気にするというのは、良く言えば、相手の気持ちを察することが出来る、悪く言えば、人の意見(特に海外の意見)に左右されやすいということでしょうか。
一方、
個人主義的生活は、他人の視線をほとんど「気にしない」。
自分のやりたいようにやる。
キスをしたい時にキスを、抱擁したい時にホウヨウを。
食べたい時には、列車の中でも、歩いている時でも、飲食禁止の図書館の中でも。
大部、日本も、現象的には、近づいているところがあるようですが。
♪♪♪
さて、メルボルンで夕方の退勤時にほとんどの人が読んでいる、フリー・タブロイドのmX(日刊)の6月6日のmX TalkのLetter of the day。
4段抜きの大きな見出しで、
Lessons to learn from polite Japan (礼儀正しい日本から学んだ教訓)とあり、
「最近、私は日本で過ごした1年半の間に、幸せな気持ちになりました。」
ではじまるAlexander, Pakenham(町名)からの投書は、こう続きます。
「日本人については、その美しく、真面目で誠実な性格を、私は保証できますよ。
私は、英国で生まれ、思い切って日の出ずる国に行く前は、スペインとオーストラリアへ住んでいました。
それぞれの国が従っているマナーの範囲や領域を発見しました。
そして、こう結論づけました。
オーストラリアは、マナーや人に対する尊敬が、明らかに欠如していて、それが非常にたやすく分かることです。道路で事故が起きたとき、中指を突き出して侮蔑しているしぐさは頻繁にみられますし、ストアでの失礼で冷たい客への扱いなど。こんなことは、日常でよく見られることです」
そして、日本が登場します。
「日本は、この私を吹き払ってしまいました。
私は、この国が外国人をどのように扱うのか、何の先入観ももっていませんでした。
何故なら、比較のもとになるのは、オーストラリアでしばしば見た人種的偏見からなっていましたので。
.....
そこは、私を、特別な感じにさせてくれて、尊敬されて、啓発された環境だったのです。
日本にいるときを振り返ると、店のスタッフの親しげな挨拶を思い出します。
通りで迷っている外国人への親切な態度、必要なことを喜んで助けてくれるその優しさ、、、、
それらのことを思い出します。
。。。。と続くわけです。
さて、個人主義の国で暮らすことは、集団主義に慣れた日本人としては、
何か、さびしい感じもするし、また逆に、自由な気もしますネ。
大学院での授業中でも、出入りは自由で、教授もそんなことは
全く気にかけない。
日本人が、海外で活躍するには、「自立心」(自分だけの力で物事を行っていこうとする気持ち)と「自律心」(自分で自分の行為を規制すること。外部からの制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること)とが必要だと考える一人ですが、これらの態度・心・生き方は、集団主義的社会からは育まれないものなのでしょうか。
とまあ、いいとこ取りをもくろんでいるわけですが。
つまり、相手を思いやる、察しがよい日本人の美点はそのままにして、相手(特に、海外)からの意見や論議には、正々堂々と主張をする、というようなことです。
これはあたかも、日本の『和をもって尊しとなす(以和為貴)』と西欧の『異をもって尊しとなす』の文化の衝突のようなものでしょうか。
学界で以前議論されていたものの中で、
Convergence vs. Divergence (「一つに収束する」 対 「発散して多様になる」)という議論があります。
西欧の学者先生方が思うように、日本社会だけでなくアジアが、西欧社会にコンバージェンスする必要もないと考えますが、ただ、世界と伍してたたかう(?)には、自立(自律)心の教育が絶対不可欠なのは、言を俟たないことでしょう。
そのためには、どんな処方があるのか、これは、考える価値あることだと思っています。
※ mXの発行部数(Web siteによれば)は、ブリスベン、シドニーとメルボルンで合計288,000部以上とある。
http://www.mxnet.com.au/
【参考文献】
Benedict, Ruth (1946) The chrysanthemum and the sword: Patterns of Japanese culture. Boston, MA: Houghton Mifflin.