日々是好日

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お正月のあとの主計町茶屋街

2020年01月22日 | 日記

 雪こそありませんでしたが、金沢の2020お正月はずっと雨でした。太平洋側の、初詣のものすごい人出のニュースなど見ていますと、金沢のお宮さんやお寺さんには歯がゆい思いがあるのではと思います。
 そんななかで、6日は本年初めてお日様がでて、風もほとんどないお天気に恵まれました。今年は7日に仕事始めと決めておりましたので、さーどこへ出かけようかと散々迷い、結局主計町(かずえまち)散策としゃれこみました。金沢としてはメジャーな観光地で、我ながら安易な選択ですが、写真撮影を楽しむということでいい散歩だったと思います。
 主計町茶屋街は、かつて旦那衆が人目を避けて茶屋街に通ったとされる、昼間でも薄暗い石段が続く「暗がり坂」や、2008年に地元住民から依頼を受けて作家・五木寛之氏が命名した「あかり坂」は、趣のある風景に出会える場所として多くの観光客が訪れます。夕暮れ時になると、芸妓が奏でる三味線と太鼓の音が聞こえてきて情緒溢れる雰囲気に包まれます。夜の街灯の明かりと、格子戸から漏れる光に浮かぶ街並みはどこか魅惑的。地元の文豪・泉鏡花作品に登場する観光地としても有名です。(金沢市観光公式サイト:金沢旅物語から)
 お正月休みは5日までの方が大半でしたので、6日は、普段はすぐ近くに東茶屋街という金沢定番の観光地から流れてくる観光客の姿も多いのに、閑散としておりました。お正月休みの喧騒を終えて一息といった趣でしょうかね。


 主計町より浅野川の少し上流にかかる天神橋から浅野川べりにおりて、梅の橋から浅野川大橋、主計町、乙剣宮、百万石通りの一つ北側の泉鏡花記念館のある通りを歩きました。梅の橋辺りの浅野川左岸には、私の幼少期から青年期まで、ここらには映画館などがあり結構通ったものですが、今はマンションが立ち並んでいてそんな面影はありません。マンションに住んでおらるのは、もともとの金沢育ちの方々ではないのではと私は何の根拠もなく考えています。なんか土着の金沢に今までなかった雰囲気があるんですよね。都会的雰囲気とでもいうのですかね。
 対岸の浅野川右岸は東茶屋街に続くという左岸とは全く様相の異なる一角です。私はどちらの雰囲気も好きで、少し遠いのですが、たまには散歩してます。
 主計町には娘のイチオシのお料理屋さんがあります。一月毎に変わる献立、手の込んだお料理、なかなか予約が取りにくいお店ということです。もちろん私はいったことがない。実は、娘もいったことがない我が家には幻のお店なんです。半年先なんて言う単位ではとても予約が取れないんですが、娘のすごく食通の友人が、あそこは本当に美味しい。すべてがいいというらしいのです。めったに褒めない人ですから、本当に味わってみたい。浅野川を望んで美味しいお料理に舌鼓をうつ。何でもおいしいと私は思っている金沢なんですが、そのなかでも本当にイチオシだということです。至福の時を想像しながら、今からお茶漬けでもかきこみますかね。


 主計町茶屋街の対岸にはウミネコがずらっと並んでいました。海岸から10kmくらいはあるのに、何故ウミネコが乱舞しているのですかね。あれはウミネコではないのですかね


 梅の橋:花街に寄り添う趣のある木造風の架け橋。橋の周辺は地元の文豪・泉鏡花の出世作『義血侠血(ぎけつきょうけつ)』の舞台になっていて、ヒロイン・瀧の白糸像と瀧の白糸碑が建てられています。(金沢市観光公式サイト:金沢旅物語から)

 鏡花記念館は、幼少時代に過ごした生家跡に建てられています。
泉鏡花の幻想的なお話はたまに読みますが、コミック化されているものもあり、波津彬子さんの作品など結構見ます。イラストに透明感があり、物語世界が視覚化されているわけですから、夢幻的世界がイメージしやすいです。鏡花のファンは世界的規模で多いと聞いていますが、あの、物語世界の広がりはさもありなんですね。郷土の誇りです。

天徳院の紅葉

2019年12月01日 | 日記


 テレビのニュースで天徳院の紅葉が見ごろを迎えたといってましたので、早速見てきました。

 天徳院は、加賀藩前田家三代目利常の正室すなわち徳川二代将軍秀忠と浅井長政三女お江の方の娘、豊臣秀頼の正室・千姫の妹にもあたるというかの有名な(金沢では郷土の歴史の時間に必ず習います)珠姫の菩提寺です。加賀前田家のみならず、秀吉も家康も信長も関係してくる戦国の時代そのものを感じる事のできるお寺なのです。そのお寺が、我が家のすぐ近く、歩いて3分くらいのところにあります。でも、11/23は車を飛ばしました。何しろカメラが重いので。
 有名な割にいつもは閑散としているお寺に、人がいっぱいで、駐車場も満杯で、なんとか潜り込みましたがテレビの威力はやはり絶大です。インターネット等のIT関連に押されて将来はどうなんやろとか言われておりますが、時代の波になかなか馴染めない我々団塊の世代が元気なうちはまだまだTVも大丈夫だなと感じました。 


 このお寺は、私の小学校時代の通学路に当たっていましたので毎日境内をなんの感慨もなく普通に通っていましたが、来年は、孫がこの小学校に入学しますので、孫が毎日ここを通ります。通学実地体験で天徳院の横を歩いてきたとかいう保育園の行事を聞くにつけ、時の移ろいを実感します。ああ本当に歳をとってしまったのだと、感慨もひとしおといったところです。

 
 個人的な思い出は色々ありますが、そんなに読んでいただくほどの事でもありませんし。でも、そんなことを言ってると、このブログ自体の存在意味がないのではと思ったりしますが、とにかく今はここでは触れません。それ以上に、ぜひとも聞いていただきたいのは、実は、この天徳院には、今の山門のもう一つ外側に、立派な二層の総門が、私の小学校時代には存在していたということなのです。中学校時代の台風で倒壊して今は跡形もないのですが、本当に惜しいです。この総門が今も存在していたなら、いずれも2層の総門・山門が並び、奥には御霊堂?と続き、しかも山門には金剛力士像(仁王様)が左右に鎮座されてそれはそれは立派で、TVにでもとり上げられない限りは閑散としているといった現状はなかったのではと思います。ひいては、門前町ともいえるわが町にはお土産物屋さんなんかがひしめき、商店街に閑古鳥が鳴くなんてことはなかったんじゃないでしょうか。 


 天徳院では、毎日、からくり人形「珠姫・天徳院物語」が上演されております。春は桜、秋は紅葉、仁王様に回廊とこの人形からくり芝居となかなかに見ごたえがあると思います。金沢は兼六園に金沢城、東茶屋街、近江町市場だけではないですよ。


 わたしが訪れた11/23は、確かに紅葉はなかなかにきれいでした。

金沢城散策

2019年09月20日 | 日記


 夏も過ぎ、紅葉には少し早い9/19久しぶりに金沢城に行ってきました。
 風が少しきつかったのですが、それが強い日差しからくる暑さをやわらげ、心地よい散歩になりました。光があふれる、写真撮影には絶好な環境で、未熟な技術を補ってくれて結構自分では見ごたえのある写真が撮れたように思います。新しいカメラの性能を引き出すべく、いろいろな機能を試すこともできました。

 金沢城には外国人観光客の姿が目立ちましたが、北陸新幹線開業から5年たった今でも内外の観光客数は一向に減少の気配がなく、そのためのホテルも開業ラッシュといっていいくらいの空恐ろしくなるくらいの勢いです。こんなに多くのホテルが金沢に必要なのかと思いますが、5年後には、さてどれくらいの数のホテルが残っているのでしょうか。本日発表の地価公示も20何年振りかで上昇に転じたといってましたが、あの建築ラッシュを見ると納得できます。

 まあ、私が住んでいる街には関係ないことで、ホテルなんて一つもなく、いくつかあった旅館はすべてなくなり、一般の商店もどんどん閉店して、住みづらくなっています。免許証返納を考えなければならない年代もすぐそこに迫っている身なのですが、この調子でご近所のお店が減っていくと、車のない生活は考えにくく、さあどうしたものか、まだ少し先のことだからその時になったら考えようと、そこで思考をいつも停止しています。あとそんなに猶予はないんですけど。

 金沢城は、以前このブログで何度か触れていますが、戦後(もちろん応仁の乱ではなく、アジア太平洋戦争・第2次世界大戦ですよ)ずっと金沢大学が存在していました。世界にもまれなお城の中の大学として、出身者ではない私なんかも、市民の一人として誇りに思っていたのですが、みずから(なのかどうか、政治家が暗躍したとのうわさがありますが)お城を去り、ずっと郊外の山の中に身を引いていきました。その山の中の建物はすごいですよ、立派ですよ、でも、マムシに注意なんて看板を見ると、どうなんでしょう。金沢の市街地から隔離されたような大学で、いったん登校すると下校するまでそこから出られない、町の生活とはかけ離れた環境で過ごす学生さんが可哀そうになるのは私だけなんでしょうかね。勉強に集中するには、絶好な環境とは言えますかね。出身が街中の大学のせい(?)で、勉強に集中できなかった私なんかが心配することは、きっと余計なお世話なんでしょうね


 その金沢城は現在、鼠多門(ネズミタモン : 金沢城の西側の郭(くるわ)である玉泉院丸に位置し、水堀をまたぐ木橋(鼠多門橋)により接続される金谷出丸(現在の尾山神社境内)からの出入り口として機能していた二階建ての櫓門です。)とその周辺が再建中で、2020年中には完成とのことです。金沢大学が出て行った後のお城はどんどん再建整備が進み、お城ファンの私は、そこはすごく楽しみではあります。

犀川遊歩道

2019年05月22日 | 日記

 先日カメラを譲っていただきました。
 本日のブログ記事中の画像はその新しいカメラで撮影したものです。今までの愛機に比べて解像度が倍以上ありますので、なんかクッキリスッキリした画像に見えます。「画素数」が多いほど画質が綺麗だとは限らないようですが、やはり綺麗に見えます。
 今まで使ってきたカメラはちょうど10年前に娘たちからプレゼントしてもらったもので、この10年、常に私の傍らにありました。トルコ旅行はじめ国内各地への旅行、登山、四季の折々の自然の移ろい、孫たちの誕生から成長、そのほとんどを記録してきました。何かをカメラに収めたいがだけに、どこかに出かけるということもありました。
 十分に感謝しつつ満足しつつ愛機を使ってきましたが、さすがに最近では、最新のカメラのいろんな新機能を味わってみたいという思いが強くなってきており、愛機にすこし古さを感じていたところでした。そんな折も折、望んでいた機能のいろいろ備わったカメラをいただきました。本当に有り難く、早速あちこち撮影に出かけています。


 
 金沢市内を流れる代表的な二つの川の一つが犀川です。「ふるさとは遠きにありて想うもの・・・」という詩で有名な文豪・室生犀星の犀星はこの川からとったペンネームと聞いています。繁華街に近い犀川大橋のすぐ近くにある雨宝院(うほういん)は、犀星が幼少期から青年期までを過ごしたお寺で、私も小学校入学まですぐ近くに住んでいましたので思い入れがあります。ここに載せました画像は、新しいカメラで、その犀川の川べりに整理された散策路から寺町台地を望んで撮ったものです。
 
 一つは金沢でも超有名な料亭の川側に面した姿を収めたもので、各界のVIPが訪れているという江戸半ばの創業の歴史ある料亭です。寺町台地という高台にありますから、明るい時間の町の眺めも格別と思いますが、夜はまた、座敷から素晴らしいお月見が出来るということで、吉田茂元首相などはその夜景をことのほか愛でておられたと聞いています。私はと言いますと、今までのところ、どこからもお声がかかっておらず、まだ行ったことがありません。自分で行けよという話なんですが、そうは簡単にいかない、私にとっては敷居が高く感じるところでありますよ。あの方角なら、さぞや美しいお月様が堪能できるだろうなと思いながら写した1枚です。お料理も素晴らしいらしいですよ。
 

 もう一枚は、前田家家老旧横山家迎賓館の犀川側のものです。家康から前田家2代目の利長が難癖をつけられた際の弁明のための使者・横山長知(よこやま ながちか:歴史好きには知る人ぞ知るお話)の流れをくむ家の別邸だったお屋敷で、大正初期の建築です。最近結婚式場として生まれ変わりました。もちろんまだ私にはお声がかかっておらず、行ったことはありません。こうして散歩の折に、あそこだなーと眺めるだけで、やはりお月見にも最適なんだろうなと思います。当分、結婚式に関係しそうな親戚縁者・知人は私の近辺には見当たりませんので、しばらく縁がありそうにないのが残念なところです。

 犀川べりの遊歩道は、川上の自然あふれる景観から、街中の繁華街に近い区域を通って、そうとうな下流域までいろいろと楽しみながら歩ける市民憩いの空間です。

卯辰山からのお城

2019年02月12日 | 日記


 久しぶりに青空が広がり、窓から山がくっきりと見えましたので、卯辰山の展望台に行ってみました。卯辰山は、金沢城から見て東(卯辰の方角)に位置することから名づけられ、市民の間では「むかいやま」とも呼ばれており、市内のどこからでも車で10分もあれば行ける、桜や紅葉はじめ四季折々に楽しめる市民憩いの山です。この日は思った通り、白山を主峰とする山々が雪をかぶって素晴らしく輝いており、海側に目を転じれば、金沢城も、文字通り手の届くくらいにすぐ近くにはっきりと見えていました。

 この卯辰山は、江戸の安政期、飢饉に見舞われ食べるものにも窮した農民たちが、金沢城に向かって米の開放を求めて声を合わせて叫んだという安政の泣き一揆(あんせいのなきいっき)の舞台でもあったそうです。ここから皆で声を合わせれば、確かに城に届きそうだなーと石川門や五十間長屋などの金沢城の遺構を眺めながら、思いました。事件は小学校くらいで習いましたが、こうやって現場から城を眺めていると、日本一の大藩加賀藩でもそんな騒動が起きていたんだなーとあらためて歴史の時間を思い出しましたが、一揆としては、ちょっと迫力にかける情けないような感じも受けてしまいました。

 わが加賀の国では、室町時代・応仁の乱が終わったころに真宗門徒によって一向一揆が起こされましたが、織田信長に制圧されるまでの約百年間、「百姓の持ちたる国」といわれるほどに民衆の支配するダイナミックな歴史がありました。その後、前田利家、そうですあのNHK大河ドラマ「利家とまつ」の主人公の利家を祖とする加賀百万石の城下町・金沢は、平穏に江戸時代を過ごし、あまりにのんびりしすぎたせいなのか、日本一の大藩でありながら、明治維新には右往左往するだけで全く存在感が示されませんでした。薩長政府からの嫌がらせで、金沢県にしてもらえなく、石川県になったといわれています。ともかく、石川県人はおっとり、いやぼんやりしすぎると、お隣の富山県人などと比較されていまだに陰口をたたかれ、まるで「ボーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られているかのような塩梅です。

 
 でもまあ、この一揆では藩からコメの供出はされたそうですが、首謀者7人が死罪になったとかで、詳細はもっと激しい事件であったのだろうとは思います。
 ともかく、百万石の加賀藩は幕府に気を使いつつ260年過ごし、明治維新を経て今に至っているわけですが、加賀藩のあり方のおかげもあって工芸大国となり、近年は新幹線効果も重なり、国内はもとより海外からも大勢の人に来ていただいているということですから、まー良しとすべきですかね。
 なんてことを、石川県人らしく、のんびりと考えながら素晴らしい光景をカメラに収めてきました。

 ちなみに3枚目の写真は、金沢の奥山・医王山(標高939m)で、その山懐、右端中央近くの山あいにちょびっと写っている茶色っぽい建物の一帯が、25年前に金沢城を明け渡した金沢大学の現在の位置です。