久しぶりに青空が広がり、窓から山がくっきりと見えましたので、卯辰山の展望台に行ってみました。卯辰山は、金沢城から見て東(卯辰の方角)に位置することから名づけられ、市民の間では「むかいやま」とも呼ばれており、市内のどこからでも車で10分もあれば行ける、桜や紅葉はじめ四季折々に楽しめる市民憩いの山です。この日は思った通り、白山を主峰とする山々が雪をかぶって素晴らしく輝いており、海側に目を転じれば、金沢城も、文字通り手の届くくらいにすぐ近くにはっきりと見えていました。
この卯辰山は、江戸の安政期、飢饉に見舞われ食べるものにも窮した農民たちが、金沢城に向かって米の開放を求めて声を合わせて叫んだという安政の泣き一揆(あんせいのなきいっき)の舞台でもあったそうです。ここから皆で声を合わせれば、確かに城に届きそうだなーと石川門や五十間長屋などの金沢城の遺構を眺めながら、思いました。事件は小学校くらいで習いましたが、こうやって現場から城を眺めていると、日本一の大藩加賀藩でもそんな騒動が起きていたんだなーとあらためて歴史の時間を思い出しましたが、一揆としては、ちょっと迫力にかける情けないような感じも受けてしまいました。
わが加賀の国では、室町時代・応仁の乱が終わったころに真宗門徒によって一向一揆が起こされましたが、織田信長に制圧されるまでの約百年間、「百姓の持ちたる国」といわれるほどに民衆の支配するダイナミックな歴史がありました。その後、前田利家、そうですあのNHK大河ドラマ「利家とまつ」の主人公の利家を祖とする加賀百万石の城下町・金沢は、平穏に江戸時代を過ごし、あまりにのんびりしすぎたせいなのか、日本一の大藩でありながら、明治維新には右往左往するだけで全く存在感が示されませんでした。薩長政府からの嫌がらせで、金沢県にしてもらえなく、石川県になったといわれています。ともかく、石川県人はおっとり、いやぼんやりしすぎると、お隣の富山県人などと比較されていまだに陰口をたたかれ、まるで「ボーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られているかのような塩梅です。
でもまあ、この一揆では藩からコメの供出はされたそうですが、首謀者7人が死罪になったとかで、詳細はもっと激しい事件であったのだろうとは思います。
ともかく、百万石の加賀藩は幕府に気を使いつつ260年過ごし、明治維新を経て今に至っているわけですが、加賀藩のあり方のおかげもあって工芸大国となり、近年は新幹線効果も重なり、国内はもとより海外からも大勢の人に来ていただいているということですから、まー良しとすべきですかね。
なんてことを、石川県人らしく、のんびりと考えながら素晴らしい光景をカメラに収めてきました。
ちなみに3枚目の写真は、金沢の奥山・医王山(標高939m)で、その山懐、右端中央近くの山あいにちょびっと写っている茶色っぽい建物の一帯が、25年前に金沢城を明け渡した金沢大学の現在の位置です。