感動は命の肥し

曇りなき眼で、物事を見つめるなら必ずや真実を見極めることができる。覚醒の時を生きた記録として。

終戦の8月に想う。

2020-08-01 | 遠い昔の記憶

今日で7月が終わる。7月最後の1日は、雨で始まった。

昨日までのうだる様な暑さが、昨晩からの雨で今朝は湿気もなく、エアコンが必要ない。明日から8月。

百田先生の永遠のゼロを以前読んで、ガダルカナルの海戦の凄まじさに、息をのんだ。

私の会ったことのない、母方の祖父、母の父は、ソロモン海戦で太平洋上で亡くなっている。1943年11月のブーゲンビル島沖海戦での事だと聞いているが、定かではない。

母は、亡くなった父親の事を「おと様、おと様」と呼んでいたらしく、おそらくお父様が、訛りもあってかおと様になったのだろう。そのおと様の戦死の知らせは、母が11歳の時に届けられた。

おと様を最後に見たのは、戦地に向かう姿、どこかの駅での見送りの時、母親と二人で見送りに行ったんだと。おと様は2回戦地に赴いているらしく、1回目は無事に帰ってきたが、2回目で帰らぬ人となった。38歳だったらしい。その時に、私のおばあちゃんのお腹の中には、生まれてくる4番目の子供がいたとの事だ。なので、母の末の妹は父の顔を知らずに育ったので、母はいつもその叔母の事を、可哀そうだ可哀そうだとよく言っていた。

母は、おと様が大好きだったらしい。母の実家の仏間に飾ってある写真から、決して醜くない姿が見て取れる。優しい人だったと言う。4人兄弟の長女だった母は、おと様が帰らぬ人となり、母親を支えて幼いながら一生懸命だったんだと、よく話して聞かせてくれた。しばらくは人に会うのが嫌だったと、そんなことも言っていた。おと様は、男兄弟が多く、長男だったのかな、次男だったのかな?とにかく、その兄弟たちも皆戦争に行ったが、無地に帰ってきている。亡くなったのは、その兄弟の中で唯一子供のいたおと様だけだったと言う事だ。

国からの恩給で、暮らしはそれなりに成り立ったらしい。

 

今、横山秀夫先生の、出口のない海を読み始めたところだ。この本の舞台も、永遠のゼロの内容にダブり、再び、戦争とは何かと、考えるこの頃である。

母は、軍歌が好きだった。麦と兵隊と言う歌がとりわけ気にいっていたらしく、「徐州、徐州と人馬は進む、徐州居よいか住みよいか…」とよく口ずさんでいた。母にとって戦争は、大切な父親を亡くした哀しい出来事だ。でも、どうしてなどとは口にしない。当時の国民なら、誰でもそうしたように、お国の為と言いながら、現実を受けとめるしかなかったはずだ。

過ぎた過去をかえる事はできない。

たくさんの、たくさんの尊い犠牲が、残された家族たちの苦労や哀しみが、時代の中で記憶され、その過去を未来の為に、貴重な歴史として語り継がれることが大切で、戦争を肯定も美化もしないけれど、そこで、人生かけた人達の、最後の一瞬の思いや、胸に残る後悔や、口惜しさを私達は、共感することは無理でも、知ろうとすることが大切だと、終戦の月を前に、思う。

そんな人たちの事を考えると、心が謙虚になる。コロナの不自由をなんだかんだと文句言う気持ちも失せる。今こうして、それでも、日々食べるものに困らず、家族が健康で一緒に過ごせることを、感謝して暮らさねばと思わされる。そうできなかったたくさんの戦没者たちの手前、恥ずかしくなるからだ。

 

さて、NJ州が感染者急増中だ。この先、ちょっと雲行きが怪しくなってきた、困ったもんだ。

 



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