今日は、朝早くから、テレビ等で『阪神淡路大震災』から『30年』と報じられているが・・
被災された方々には、あらためてご冥福をお祈りし、元の生活に戻れることを、祈るばかりである。
そして・・『はや30年・・』ではなく、『まだ30年・・』との思いであるが、『記憶』の世界からは、だんだん・・遠のいていってしまう・・のも事実である。・・
*+*+
あの朝・・・
早起きし、食卓で、上司の、正月挨拶周りのための顧客情報を作成していた時・・いきなり大きな揺れが・・・『ワープロ』が、テーブルの上を走った。
背中の食器棚からは、扉が開き、何枚か、お皿が飛び出始めたが・・慌てて、抑え込んだ。
揺れが収まり、家人と子供を確認。南北に揺れたせいか、子供の部屋の、東西方向の吊戸棚の中の物は、すべて飛び出していたが、幸いに直撃は免れていた・・・
電気は通じていたので、急いでテレビを点けると・・『丹後地方で・・』『名古屋方面で・・』などと、『震源』が『推定』され始めていたが・・・まさか『神戸』『阪神間』が『震央』で、大きな『被災地』となっている事は、知る由が無かった・・・
そして、玄関を開けてみると・・お隣の方が『ガスが着かない・・』との事で、『説明書』を探し、『ガスメーター』の『強震スイッチ』が、切れた様で・・安全を確認し『復帰』させたが・・この間も、『近隣』では、あのような『大災害』とは、確認が出来ず・・
とりあえず『多田』の『実家』へも電話を入れ・・『無事』は確認できたが、父より、『室内は相当な被害』・・『大切にしていた『九谷焼』の大皿も割れた』との連絡を受けたが・・まずは一安心・・この時は、電話は繋がった
会社の『被災状況』が判らないので、『淀屋橋』の『本社』へ出かける事に・・6時30分頃のバスで『千中へ・・』。何事もなかったように、バスは運行されていたが・・『千中』で『北急被災』『運転中止』を知る・・・
まだ『携帯』も無い時代なので、状況が判らず、自宅へ戻る事に・・・この時もバスは動いていた・・が、帰宅したとたん、また強い揺れが・・・7時か7時半であった・・
自宅で、改めて『テレビ報道』を見て見ると・・『阪神高速転倒』や『火災』の『映像』が流れ始め、初めて、その『被害』に驚かされ・・しばらくして『阪急伊丹駅・挫滅』や『倒壊家屋』の悲惨な報道が流れ始めた・・
この後・・会社へ連絡を入れようとしたが、繋がらず・・『東京本社』へは繋がったので、東京経由で転送を要請したが・・何と、事務所には『大阪市内』や『枚方』からの方は、何もなかったかのように『出勤』。この方々から『自宅待機』の指示があった・・そして、しばらくして、レポートを『新大阪』で渡す予定だった『上司』とも連絡が取れ・・『もう少し・・発災の時間が遅ければ、岡山への新幹線に乗っていたかも・・』との言葉が・・忘れられない。
・・・・ こんな、特別な、強い揺れを感じてからの、数時間の『記憶』は・・今でも忘れられないが・・
家族や、友人を亡くした方・・大切な思い出の地を失った方は・・もっと、鮮明に『記憶』は刻まれているであろう。
この翌日、会社からの『出勤命令』があり、『阪急・北千里』から、『淀屋橋』へ。
すぐに『物流対策会議』があり、『発災直後』に立てられた『迂回ルート』を活かすため、『情報収集』と共に、『中継地移管』する『商品リスト』や、配送先の『顧客名簿』。さらには『納期確認』などを急いだが・・時間が経つにつれ、大阪市内でも『倉庫被災』が判明し、『ラック倉庫』が『レール破損』でダウンし、高所へよじ登り、手でしか出せなくなったとの報告を受け・・・『激震』に驚かされ・・
この次の日、工場を確認に出かけたが・・『研究所』でも、大型の『引張試験機』が倒れたり、『ガスクロ』が床へ『落下』したり、『大被災』で・・・この時『人がいなくてよかった・・』との感が残り、近隣の倉庫へ繋がる道も、大きく『路面・陥没』で『入構不可』となり、この先の、『淀川・堤防』も『崩壊寸前』となっていた・・
この後・・時間軸は、正しく思い出さないが・・、『阪神間・交通』が途絶えたため、『南港』から『迂回路』として、『湾内・遊覧船』を使った『海上タクシー』が運行され始め、初めて海側にある『倉庫』へ、『保管品・検品』に出かけたが・・棚から、『輸入品』の『 フレコンバック』が落下し・・『内容物』が床一面に広がっていたのを思い出したが・・・何も手段がなく、『片付け』すら出来ず、何時間かの『上陸』で、帰ってきたが・・
出かける前に、この『倉庫』の方から連絡があり、大阪市内で買い求め、持って行った『アンパン』は、少しでもお役に立てたのだろうか・・
この後も、『東西』が回復せず、・・明石の先のにある、『委託先』へ出向ける事が出来たのはいつだったか・・思い出せないが、山一つ向こうの『神戸』とは、大違いであった事の『記憶』は・・よみがえった。
震災後に、岡山の『関連工場』で製造した商品が、使用先の四国の『製紙工場』で『異物クレーム』を引き起こし、この『原因究明』や『製品交換』のため、何度か行き来したが・・・『臨時便』の『伊丹⇒高松』や、これがダメな時は、『新幹線』で『東京』へ。ここから『羽田⇒岡山』へ飛んだり・・ 今では、考えられないない『移動手段』も。
岡山の工場からの帰阪ルートが無く、『出向』の方の車に、同乗させていただき、戻った事もあるが、『児島』から『宝塚』まで、『中国道』が『大渋滞』で、15時間近くかかり、『宝塚』から、歩いて自宅まで・・も、あった。
この前年、不埒な事から『アキレスけん断裂』で、年末までの約3か月間『自宅待機』となっていたが・・ もし、この時、歩けないままで、もっと『震源』が近く『自宅・被災』していれば・・と思うと、『幸い』だったのかもしれない。
ただ、この怪我で『入院』をしたが、この前日、『関空開港』の前の日、『伊丹空港』は、ものすごい『雷』を伴う『大豪雨』となり、『水没』したが・・この『異常気象』は、『阪神淡路大震災』と何か関連があったのでは・・ と、今でも思い出す。西の方から、一直線に『雷』が近づき、住んでいる『マンション』にも『落雷』したが・・かってこんな経験はない・・・
こんな『30年前』の『記憶』が戻ってきたが・・
『天災は忘れた頃にやってくる』ではないが・・
『危機』を『危機』として感じるためには・・
時々『記憶』の引き出しの『棚卸』が必要そうである。
残していた、この『冊子』が、まだ本棚のどこかに残っているはずである
今一度、思い出してみたい。『あの日の朝』を・・
被災された方々には、あらためてご冥福をお祈りし、元の生活に戻れることを、祈るばかりである。
そして・・『はや30年・・』ではなく、『まだ30年・・』との思いであるが、『記憶』の世界からは、だんだん・・遠のいていってしまう・・のも事実である。・・
*+*+
あの朝・・・
早起きし、食卓で、上司の、正月挨拶周りのための顧客情報を作成していた時・・いきなり大きな揺れが・・・『ワープロ』が、テーブルの上を走った。
背中の食器棚からは、扉が開き、何枚か、お皿が飛び出始めたが・・慌てて、抑え込んだ。
揺れが収まり、家人と子供を確認。南北に揺れたせいか、子供の部屋の、東西方向の吊戸棚の中の物は、すべて飛び出していたが、幸いに直撃は免れていた・・・
電気は通じていたので、急いでテレビを点けると・・『丹後地方で・・』『名古屋方面で・・』などと、『震源』が『推定』され始めていたが・・・まさか『神戸』『阪神間』が『震央』で、大きな『被災地』となっている事は、知る由が無かった・・・
そして、玄関を開けてみると・・お隣の方が『ガスが着かない・・』との事で、『説明書』を探し、『ガスメーター』の『強震スイッチ』が、切れた様で・・安全を確認し『復帰』させたが・・この間も、『近隣』では、あのような『大災害』とは、確認が出来ず・・
とりあえず『多田』の『実家』へも電話を入れ・・『無事』は確認できたが、父より、『室内は相当な被害』・・『大切にしていた『九谷焼』の大皿も割れた』との連絡を受けたが・・まずは一安心・・この時は、電話は繋がった
会社の『被災状況』が判らないので、『淀屋橋』の『本社』へ出かける事に・・6時30分頃のバスで『千中へ・・』。何事もなかったように、バスは運行されていたが・・『千中』で『北急被災』『運転中止』を知る・・・
まだ『携帯』も無い時代なので、状況が判らず、自宅へ戻る事に・・・この時もバスは動いていた・・が、帰宅したとたん、また強い揺れが・・・7時か7時半であった・・
自宅で、改めて『テレビ報道』を見て見ると・・『阪神高速転倒』や『火災』の『映像』が流れ始め、初めて、その『被害』に驚かされ・・しばらくして『阪急伊丹駅・挫滅』や『倒壊家屋』の悲惨な報道が流れ始めた・・
この後・・会社へ連絡を入れようとしたが、繋がらず・・『東京本社』へは繋がったので、東京経由で転送を要請したが・・何と、事務所には『大阪市内』や『枚方』からの方は、何もなかったかのように『出勤』。この方々から『自宅待機』の指示があった・・そして、しばらくして、レポートを『新大阪』で渡す予定だった『上司』とも連絡が取れ・・『もう少し・・発災の時間が遅ければ、岡山への新幹線に乗っていたかも・・』との言葉が・・忘れられない。
・・・・ こんな、特別な、強い揺れを感じてからの、数時間の『記憶』は・・今でも忘れられないが・・
家族や、友人を亡くした方・・大切な思い出の地を失った方は・・もっと、鮮明に『記憶』は刻まれているであろう。
この翌日、会社からの『出勤命令』があり、『阪急・北千里』から、『淀屋橋』へ。
すぐに『物流対策会議』があり、『発災直後』に立てられた『迂回ルート』を活かすため、『情報収集』と共に、『中継地移管』する『商品リスト』や、配送先の『顧客名簿』。さらには『納期確認』などを急いだが・・時間が経つにつれ、大阪市内でも『倉庫被災』が判明し、『ラック倉庫』が『レール破損』でダウンし、高所へよじ登り、手でしか出せなくなったとの報告を受け・・・『激震』に驚かされ・・
この次の日、工場を確認に出かけたが・・『研究所』でも、大型の『引張試験機』が倒れたり、『ガスクロ』が床へ『落下』したり、『大被災』で・・・この時『人がいなくてよかった・・』との感が残り、近隣の倉庫へ繋がる道も、大きく『路面・陥没』で『入構不可』となり、この先の、『淀川・堤防』も『崩壊寸前』となっていた・・
この後・・時間軸は、正しく思い出さないが・・、『阪神間・交通』が途絶えたため、『南港』から『迂回路』として、『湾内・遊覧船』を使った『海上タクシー』が運行され始め、初めて海側にある『倉庫』へ、『保管品・検品』に出かけたが・・棚から、『輸入品』の『 フレコンバック』が落下し・・『内容物』が床一面に広がっていたのを思い出したが・・・何も手段がなく、『片付け』すら出来ず、何時間かの『上陸』で、帰ってきたが・・
出かける前に、この『倉庫』の方から連絡があり、大阪市内で買い求め、持って行った『アンパン』は、少しでもお役に立てたのだろうか・・
この後も、『東西』が回復せず、・・明石の先のにある、『委託先』へ出向ける事が出来たのはいつだったか・・思い出せないが、山一つ向こうの『神戸』とは、大違いであった事の『記憶』は・・よみがえった。
震災後に、岡山の『関連工場』で製造した商品が、使用先の四国の『製紙工場』で『異物クレーム』を引き起こし、この『原因究明』や『製品交換』のため、何度か行き来したが・・・『臨時便』の『伊丹⇒高松』や、これがダメな時は、『新幹線』で『東京』へ。ここから『羽田⇒岡山』へ飛んだり・・ 今では、考えられないない『移動手段』も。
岡山の工場からの帰阪ルートが無く、『出向』の方の車に、同乗させていただき、戻った事もあるが、『児島』から『宝塚』まで、『中国道』が『大渋滞』で、15時間近くかかり、『宝塚』から、歩いて自宅まで・・も、あった。
この前年、不埒な事から『アキレスけん断裂』で、年末までの約3か月間『自宅待機』となっていたが・・ もし、この時、歩けないままで、もっと『震源』が近く『自宅・被災』していれば・・と思うと、『幸い』だったのかもしれない。
ただ、この怪我で『入院』をしたが、この前日、『関空開港』の前の日、『伊丹空港』は、ものすごい『雷』を伴う『大豪雨』となり、『水没』したが・・この『異常気象』は、『阪神淡路大震災』と何か関連があったのでは・・ と、今でも思い出す。西の方から、一直線に『雷』が近づき、住んでいる『マンション』にも『落雷』したが・・かってこんな経験はない・・・
こんな『30年前』の『記憶』が戻ってきたが・・
『天災は忘れた頃にやってくる』ではないが・・
『危機』を『危機』として感じるためには・・
時々『記憶』の引き出しの『棚卸』が必要そうである。
残していた、この『冊子』が、まだ本棚のどこかに残っているはずである
今一度、思い出してみたい。『あの日の朝』を・・