コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

現地報告とエスノグラフィー

2011-03-01 23:57:35 | 
ちょっと前に簡単に触れた、ベントレ定例会アフリカ、ストリートチルドレンと過ごして~ルワンダ協力隊員の報告~(内藤久美子 ふしみやビル)に関連して。


私はJICAや、それに属するボランティアの協力隊に関して、十分な知識を持ち合わせていない。
大変なところに行って、大変な仕事をしている殊勝な心がけの人々だとも思っている。事件に巻き込まれるニュースをよく聞くし。

それから、ルワンダという国についても、全くと言っていいほど知識がない。
『ホテル・ルワンダ』はTVで観たし、対立している部族の名前は、ずっと前に、ブルンジのニュースで知った(東京にいた頃、世田谷美術館で“ドラマーズ・オブ・ブルンジ”の野外ライブに行ったので、この国の名前を覚えていたんだけれど、ブルンジで虐殺があったのはもっと前だ)。去年は“ベンダ・ビリリ”の映画を観、ライブにも行ったので、コンゴと言うややこしい隣国のことも少しだけ知ることになった。今回の話を聴きながら、ダイアン・フォッシーが殺された国だ、と言うのに思い当たった。

こういうバラバラの“知識”は、実は繋がっている。

今回の企画は、部族対立や大量虐殺に関するモノではなく、ストリートチルドレンの支援報告だった。
本人の話にあるように、ルワンダのストリートチルドレンは虐殺前からあったし、現在表面上は平和で安全な国に見えると。


その上で内藤氏は、施設の子供達を、あるいは関係する大人達を、どう教育し、改めさせたか、と言う話をした。
現地情報として、興味深い物であったこと、知らないことが多く“勉強”になったことは確かで、その意味では有意義だったと思う。

ただ、いくつか腑に落ちないことがあったので、その場でも質問した。

一つは、“要請内容”として引き受けた仕事が、現地の実情にあわないために取りやめになった、と言うことの詳細。
そもそも誰が“要請”するのかも判らなかったから質問したのだけれど、答えは意外なモノだった。
JICAの現地スタッフがリサーチして、必要な仕事をまとめて“要請”するのだけれど、実際にボランティアスタッフが行く頃には状況も担当者も変わるために実情とあわなくなる、と言う話。
しかし、例に挙げられた“要請”はそう言うレベルでなく、普通に考えて無茶だろう、と思うような物に見えた。謎。

もうひとつは、“郷に入って郷に従った”ケースはないのか、ということ。
内藤氏の話の殆どは、“問題解決譚”だった。「これこれこういう問題があるからやめさせた」「こういうアイデアを提案して実現させた」という類。
いくつかの慣習について好意的評価で“認めた”事はあっても、自らの非を認めて改めた、と言うケースは思い浮かばないと言うことらしい。

で、帰国してみると“逆カルチャーショック”に見舞われて日本の行き過ぎた文明を批判。


こういう文脈は、内藤氏個人の資質の問題として片付けられない深い根があるように思う(問題だと思わない人が沢山いるだろうな、とも感じているけれど)。

ルワンダの人たちは、なぜ「平気で嘘をつく」んだろう。何故、体罰を行うんだろう。なぜ、シェアする文化を、年長者を敬う文化を持って居るんだろう。そして、なぜ、部族間で殺し合うんだろう。

“嘘”とは何か、“暴力”とは、“財産”とは、“正義”とは? そして“国家”とは?

そう言う“文化”への考察無しに(報告を聞く限り、そのような痕跡はない)対症療法的に“正義”を実現することは、誰の利益になるのだろう。

一方で、JICAのシステム的な欠陥については、苦笑いでスルーしてしまう。
改めなければならないのは、我々かも知れない、と言う想像力は、国際活動の邪魔になるのだろうか。


主催者であり、講師の友人でもあるコージさんによると、
今回の講演会を行うにあたり、講師と打ち合わせした段階で『あるべきすがたを語らない』ようにして個人で考えてもらう構成にしていました。

安易な解答は、大局を見誤ることもあるし、当事者にしかわからない事情を押し付けるのも良くないのではないか? ということもあったので、見て体験した事実をコトバで伝えてもらいました。

ということだったらしい。

確かに“あるべきすがた”や“解答”は出てこなかった。しかし、「見て体験した事実」を「コトバ」にしていたかどうか。
私の文章表現の授業を受けたことのある人は、やっと何の話か判ってきましたかね。
「見て体験した事実」を「コトバ」にするには、認識と表現の訓練が必要だ。
そして、そう言うことは、なかなか学ぶ機会がないから、“ありのまま”“客観的事実”を述べたつもりで、恐ろしく一元的な評価の軸で物を見、伝えていても気づかない。
で、今回はどうも、“開発”“援助”“支援”“指導”といった、JICA的文明観が見え隠れしている。


さて、前段が長くなりすぎた。
ここからが本題。
強烈なバイアスのかかった認識で「未開」を指導し、帰国して先進文明を批判する論調はとても解りやすい。文明国たる日本の国民としても受け容れやすい世界認識だと思う。
しかし、我々が“未開的”だと思うシステムは、本当に、改められるべき誤りなんだろうか。
私には、鯨を殺して食べる野蛮な国の船に乗り込んでやめさせるのが正義だと言う人たちと、根っこのところでは変わらないように見える。

現に苦しんでいる人たちが居るのだから、助けるのは当たり前だ。
制度を改善するのは別の組織がすることだ。

そのとおり。
“援助”の行為そのものを否定する気は全くない。
しかし、それにしても、前提となる認識まで、これで良いとは言えない。

こうした認識のステレオタイプをどう打破するか、というのは、政府やボランティアスタッフの仕事ではない。
それは、人類学・社会学・歴史学・文学と言った、学問が扱うべき大きな課題だ。
現に、コロニアリズム批判、オリエンタリズム批判は遙か前からある。
植民地支配と資本主義経済が、部族社会に何をもたらしたのか。
いま、グローバル化と“文明化”が、何をもたらそうとしているのか。
現地の人たちにとっての幸せの基準はどこにあるのか。
誰かの価値観による幸福の強要は、体罰以上に深刻な文化に対する暴力ではないのか。


上に書いたような表現の分野で言えば歴史記述に関する研究、ジャーナリズムに関する研究、そして、エスノグラフィーに関する豊かな成果が存在する。
歴史家も、ジャーナリストも、民俗学者も、それぞれの現場で、ありのままを伝えるとはどういう事か、を模索してきた。


現地で頑張っている人たちは、目の前で人が苦しんでるのに呑気に学問なんてやってられるか、と思っているかも知れない。
しかし、状況を根本的に解決しようと思ったら、そして、それを、正確に伝えたいなら、ちゃんと学問を修める必要がある。
マウンテンゴリラが重要な観光資源であると言うことを知っているなら、ダイアン・フォッシーが何をしたのか、何故殺されたのかも考えるべきだ。

学生を見ていても、世の中の人たちを見ていても、どうも、学問は学問、現実は現実、と言うような分離した認識、というか、学問の活かし方を知らないままで居るような気がしてもどかしい。


大学で学ぶことは、社会でちゃんと役に立ちます。
文学も、ちゃんと世界の平和に貢献できるのだよ。


もちろん、それが伝わっていないのは、アカデミズムの側の伝達能力の問題でもあるし、実際、学問のための学問に終始している人がいないわけでもないので、お互いに学びあい、伝えあう不断の努力が必要であること、言うまでもない。



色々考える機会を得たことには感謝しています。
異論、事実誤認の指摘など、コメント歓迎。

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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
広大な問題ですね (杉山)
2011-03-02 11:18:01
講演をコーディネートさせていただいた杉山です。

ついつい、現場での活動ばかりに目がいきがちでしたが、彼らの活動の背景となる部分について、論じていただいてありがとうございます。

クリエイティブの仕事をしていても、常に思うのは、学問的なアプローチの欠如です。社会や現状が、恐ろしいスピードで通り過ぎようとしている中、場当たり的な方法で省略し、それを戦術として満足してしまうことが多いですね。
このことは、現場で働く側の意識的な課題でもあり、現場を統括する組織の問題になりそうな気がしています。

とかく人は、楽をしたがります。
組織の大儀や指導者の言葉などなど、自分で考え・至るようなプロセスは、できるだけ遠ざけたいし、目の前の問題を解決することの方が、達成感もあるし時間的に早い。

でも、現場であるからこそ、根本的な問題を見つけ出し、改善していくための思考を絶やさないことの意義を感じました。これは、グローバルな話でも、一地方の小さな仕事でも同じくでしょう。

しかし、意識するだけでは、大きく複雑な問題は変わらない。大きく複雑な問題を解決するためには、現状の整理、基礎となる論理、改善のための施策、現場での改善活動といったアプローチに至らなければならないはずです。

今回は、現状(の情報)をシェアすることを目的としました。もし、また同じ内容で定例会をするならば、基礎となる論理について話し合ってみたい気もします。そうすることで、参加する人それぞれで、支援ということの背景にある大きな問題に気づき、取り組むきっかけになると思いますから。

もちろん、このブログの内容も、その一つなのだと思います。ありがとうございました。
返信する
早速 (コニタ)
2011-03-02 11:39:56
有難うございます。
不躾な書き方で失礼いたしました。


最後の方に書きましたが、歩み寄る、と言うか、手の内を見せ合いながら進む必要があると思うのです。

コピーライターズクラブと大学の関係も、こちらが現場の感覚を教わるだけでなく、江戸時代の広告やデザインについて一緒に勉強したら面白いですよね。
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一緒に勉強 (杉山)
2011-03-02 12:05:03
>江戸時代の広告やデザイン

汐留のアドミュージアム東京に見に行ったことがありました。しかし、静岡では見る機会も語る機会もほとんどないんです。
実現したら面白いでしょうし、産業的なことでなく、知で連携するというのもいいですね。
返信する
文化人類学の (宇田)
2011-03-03 00:03:36
私は1年生の時、文化人類学の授業を2つ取ったのですが、どちらにも文化相対主義の話が出てきました。
自分の考えがいかに’先進国’のものであるか気付き、自己嫌悪しました。

しかしながら、纏足も去勢もサティーも外国の文化として積極的に認めるとこはできません。(今あげたものはどれも廃止になったものですが)
「それは個性・文化だから」と黙って見ているのは、とんでもない責任放棄のようにも考えられるのです。

ルワンダの紛争は文化の差異が生んだものではありませんが、たとえば中東戦争のように宗教要素が含まれる戦争を真っ向から否定しきれないのはとてもつらいことです。両方が正義です。
正義を信じて殺しあう戦争をなくすにはどうしたらよいか。経済活性のために行う恥知らずの戦争はともかくとしてです。ルワンダは私の平和ボケした脳を引きずり出す存在です。


話がとびすぎましたが、このような「文化の優先順位」について考えながら、私は講演を聞きました。結論は出ないです。
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難しいです。 (コニタ)
2011-03-03 08:17:25
学問の現場で考えることと現実の問題。
「とはいっても」と言うことはよくありますね。

中途半端な知識で誤解しているかも知れませんが、アフリカで起こっていることは、植民地政策と、独立後“国家”を作らざるを得なかった部族社会のジレンマから生まれてるんですよね。ツチ/フツはその典型例でしょう。中東や東アジアでの紛争も、後ろには“列強”の経済事情があるわけだし。

それによって相対的に“豊か”になったと言えるのかも知れないけれど、私有財産や官僚制の仕組みが平和な共同体社会に格差や貧困を持ち込んだんじゃないか。
今の“先進国”の政治や経済の仕組みを世界中で採用することがベストなのかどうか。

何処までを“因習”として排除するかと言う線引きはとんでもなく難しい問題だと思うのだけれど、ベースには、その土地でうまく回ってきたやり方を尊重できないものか、と思うのです。
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勉強会 (コニタ)
2011-03-03 08:18:53
ボタニカ使って何かやりたいな~と思っております。

江戸関係も良いけれど、固まった認識を壊す練習も出来ますよ。
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拙い講演でした。 (内藤)
2011-03-07 18:09:59
内藤です。
ご批判、ありがとうございます。

帰国後初の講演で十分に構成できずに話してしまったこともあり、私の話したことが皆さんに誤解を与えてしまったんだな、と反省しています。

私は、「教育し、改めさせた(させよう)」という想いでいたことは2年間で一瞬たりともないし、もちろん、今だってそう思ってません。
そして、「対症療法的に“正義”を実現」したつもりもないです。

そして、「日本の行き過ぎた文明を批判」したつもりでもない・・・のですが。

私の話し方が悪かったのでしょうが、彼らのニーズを探りながら、ぶつかりながらも文化を尊重しながら活動してきたつもりです。
それが伝わらない話し方をしてしまった、説明不足だったのは、私の責任だと思います。

「改めなければならないのは、我々かも知れない、と言う想像力は、国際活動の邪魔になるのだろうか。」
そんなことはないし、むしろそれは必須です。多くのボランティアがそのことを考えるだろうし、苦しみ悩みながらも活動しています。

「現地の人たちにとっての幸せの基準」というのもやはり大切なポイントで、私は日本の価値観や現状をルワンダに与えたとして、ルワンダ人が幸せになれるとは思っていません。
ルワンダにはルワンダの幸せのかたちがあって、それは尊重されなければいけないともちろん思っています。

ブログに書いていただいて、
正しく伝えられなかったことが分かりました。
正直、ショックもありましたが、今後に生かしていきたいと思います。
ありがとうございました。

返信する
頑張ってください。 (小二田)
2011-03-07 18:33:08
内藤様。
コメントありがとうございます。


「伝えようとしたこと」と「伝わってしまったこと」では、常に後者の方が重い。

全く背景を共有しない人たちに誤解無く伝えるためには、伝えること自体を常に意識している必要があります。
解り合っている仲間内では見落としてしまうことが沢山あります。

録音していたかどうか判りませんが、当日聴講していた人たちにも、(内容ではなく)話し方のニュアンスなどについて訊ねてみたら如何でしょうか。


JICAのような、私たちの日常垣間見ることのない場所で努力されている方たちににとって、“報告会”はとても重要な窓です。私たちは、そこで語られることでしか、識ることは出来ない。だから、個々の隊員たちも、組織を代表するつもりで、表現を大切にして欲しいなとおもっています。
報告の仕方、の様な研修はないのでしょうか。


と。
これは、大学の報告会でも起こっていることで、
http://blog.goo.ne.jp/koneeta/e/86c0a445253a7dbc80e403774e69e47c
本当に難しい。

私自身の「真意」が伝わるかどうかも、誰か、ちゃんとモニターしてくれる人がいないと見えてこないし。

このブログも、そういう意味で修行の場です。
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