人を好きになるのは、簡単だ。
嫌いになるより、多分、ずっと簡単だ。
でも、その気持ちを伝えるのは難しい。
だいたい、自分が、どんなに(どの程度・どのように)その人を好きなのか、自分で解らないし。
それでも、自分の気持ちだけ相手にぶつけるのなら、「感情にまかせて」振る舞えばいいのかも知れない。相手にどう思われようと構わないで。
でも、たぶん、わたしは、ん、たいていの人は、その人にその気持ちを伝えれば満足、と言うわけではなく、相手も自分のことを好きになって欲しいと思ってるはず。
恋愛の話じゃなくても、ね。OK?
文学・言語文化を研究している事になっている。
文章表現を教えている。
どこかにこんな事を書いた。
文章表現は、外国語同様、授業を受けたり本を読んだりしただけで上達する物ではありません。技術は公式のように憶えることができる一方で、書くのが苦手なのは、技術力よりも想像力や表現への自覚の不足が原因であることが多いのも確かです。あなたは、何を、誰に、どう伝えたいのか、その時、言葉に何ができ何ができないのか、普段意識していますか。この講義は、皆さんが、文章を注意深く書く気になるようにしむけるのが目標です。
或いはこんな事も
“文学”こそが、“対話”の根幹を担うものだということは、疑いようがない。世の中には様々な学問がある。私達の生活を便利で快適なものにし、目に見える富をもたらす、解りやすい学問もある。人文系の基礎的な学問は、そうした実用性の高い具体的な学問に対して補助的な位置づけをされがちだ。それはそれであながち間違った評価だとは言い切れないだろう。空気のように絶対的に不可欠のものである、と言う意味で。そして、それは、いまや自然に身に付くものではない。だからこそ、その重要性をしっかり認識して欲しい。誰かの“幸福”は、誰かの“不幸”かも知れない。正義も、真実も、そういう天秤の両端、薄い紙の裏表かも知れない。文学とは、つまりそういうことに思いをはせる技術なのだと、私は考えている。必要なのは、「魚は僕らを待っている」という独善に疑問を差し挟み、大漁の海を見て魚たちの弔いを想像する力である。
個々の“文学”作品は、ことさらに“平和”とか、“正義”とかについて語るものではないにしても、読書体験・表現体験を通して、様々な発想と出会うことが出来る。それらが、なぜそうあるのか、そして、自分は、それになぜ感動し、或いは感動し得ないのか、そしてその思いを、誰に、どう伝えるのか。ストレートで誤解しようのない表現がすべてなのか、そもそもそういう表現があり得るのか、譬喩や修辞は何を伝えているのか。文学は、人間の想像力を磨くための大きな力を持っている。
人を好きになった時、自分の内面を整理し、相手を想像し、自分の思いを伝えるために最も相応しい表現(言葉だけではない、場所・時間・服装・BGM・贈り物・……、これら、意味のある全てが言語文化である)を探すだろう。相手の反応を誤解なく解釈するのも難しい。これは、恋愛だけの問題ではない。解りやすく、誤解のない唯一絶対の表現など、異文化が触れ合う世界には永遠に存在しない。そのことをまず想像する必要がある。テロリズムを解決する唯一の方法が暴力でしかないと考える前に、考えることがあるはず。
こんな事言ってるやつが、実際、どうなのよ。
てか、そんなこと考えてばっかいるから、本当に伝えたいことを伝えられないんじゃないのか?
あぁ、じれったいなぁ。
脳みそ同士プラグで繋いだら解り合えるの?
でも、ちがうんだよな。わかってるよ。
わかんないから考えるし、わかんないから好きになるんだ。
解ったら嫌いになるよ。
明日っから「日本語文章構成法」(英和)の授業が始まります。
大変だけど(/だから)楽しい。
嫌いになるより、多分、ずっと簡単だ。
でも、その気持ちを伝えるのは難しい。
だいたい、自分が、どんなに(どの程度・どのように)その人を好きなのか、自分で解らないし。
それでも、自分の気持ちだけ相手にぶつけるのなら、「感情にまかせて」振る舞えばいいのかも知れない。相手にどう思われようと構わないで。
でも、たぶん、わたしは、ん、たいていの人は、その人にその気持ちを伝えれば満足、と言うわけではなく、相手も自分のことを好きになって欲しいと思ってるはず。
恋愛の話じゃなくても、ね。OK?
文学・言語文化を研究している事になっている。
文章表現を教えている。
どこかにこんな事を書いた。
文章表現は、外国語同様、授業を受けたり本を読んだりしただけで上達する物ではありません。技術は公式のように憶えることができる一方で、書くのが苦手なのは、技術力よりも想像力や表現への自覚の不足が原因であることが多いのも確かです。あなたは、何を、誰に、どう伝えたいのか、その時、言葉に何ができ何ができないのか、普段意識していますか。この講義は、皆さんが、文章を注意深く書く気になるようにしむけるのが目標です。
或いはこんな事も
“文学”こそが、“対話”の根幹を担うものだということは、疑いようがない。世の中には様々な学問がある。私達の生活を便利で快適なものにし、目に見える富をもたらす、解りやすい学問もある。人文系の基礎的な学問は、そうした実用性の高い具体的な学問に対して補助的な位置づけをされがちだ。それはそれであながち間違った評価だとは言い切れないだろう。空気のように絶対的に不可欠のものである、と言う意味で。そして、それは、いまや自然に身に付くものではない。だからこそ、その重要性をしっかり認識して欲しい。誰かの“幸福”は、誰かの“不幸”かも知れない。正義も、真実も、そういう天秤の両端、薄い紙の裏表かも知れない。文学とは、つまりそういうことに思いをはせる技術なのだと、私は考えている。必要なのは、「魚は僕らを待っている」という独善に疑問を差し挟み、大漁の海を見て魚たちの弔いを想像する力である。
個々の“文学”作品は、ことさらに“平和”とか、“正義”とかについて語るものではないにしても、読書体験・表現体験を通して、様々な発想と出会うことが出来る。それらが、なぜそうあるのか、そして、自分は、それになぜ感動し、或いは感動し得ないのか、そしてその思いを、誰に、どう伝えるのか。ストレートで誤解しようのない表現がすべてなのか、そもそもそういう表現があり得るのか、譬喩や修辞は何を伝えているのか。文学は、人間の想像力を磨くための大きな力を持っている。
人を好きになった時、自分の内面を整理し、相手を想像し、自分の思いを伝えるために最も相応しい表現(言葉だけではない、場所・時間・服装・BGM・贈り物・……、これら、意味のある全てが言語文化である)を探すだろう。相手の反応を誤解なく解釈するのも難しい。これは、恋愛だけの問題ではない。解りやすく、誤解のない唯一絶対の表現など、異文化が触れ合う世界には永遠に存在しない。そのことをまず想像する必要がある。テロリズムを解決する唯一の方法が暴力でしかないと考える前に、考えることがあるはず。
こんな事言ってるやつが、実際、どうなのよ。
てか、そんなこと考えてばっかいるから、本当に伝えたいことを伝えられないんじゃないのか?
あぁ、じれったいなぁ。
脳みそ同士プラグで繋いだら解り合えるの?
でも、ちがうんだよな。わかってるよ。
わかんないから考えるし、わかんないから好きになるんだ。
解ったら嫌いになるよ。
明日っから「日本語文章構成法」(英和)の授業が始まります。
大変だけど(/だから)楽しい。
でも「相思相愛」だらけなら、自分の進歩もないかも。
ふとそんなことを思いました。
支えられてます。
就職活動だって、上司と部下も、教師と学生だって、みんな、相思相愛でありたい。
でも、なかなか。
逃げまくるコミュニケーションはそろそろやめたいな、って思ってます。
きついし、もしかしたら逃げられてしまうかも知れないけど、伝えたいことがあるなら伝える努力をしたい。
自分の脳味噌と、相手の脳味噌、それぞれ蓄積の方向が違うし、感じ方も人それぞれ。
先日、プレゼン後に教授と助教授の議論をきいていて感じました。助教授は根本が「人間は決して他者とは100%理解し合えない」ということを原理主義のように奉じていて、だから定義とか表現にやたら厳しい。研究の意図、目的にもかなり厳しい。
聞いていて、段々中島敦的な感覚に陥り、気がおかしくなりそうになりました(笑)