言語文化学科の新入生歓迎会。
疲れた。
今年はいつもより男子学生が多い気がする。
でも、やっぱり固まってるなぁ。
自分から教員側に出てくるのは女子ばっかり。
フレンドリーだ、と言う感想もあったけれど、軽い、落ち着きがない、と言う意見もあった。
わたしも、人の話を聴く姿勢が出来てないなぁ、と言うのが一番強い印象。
今年は、推薦・私費外国人・後期(の一部)と、三種類の面接に顔を出したので、何人か憶えている学生もいるし、向こうは結構憶えていたらしい。
話してると、その時のことも色々思い出すから楽しい。
まぁ、ぼちぼちね。
んで、まぁ挨拶代わりに、最近気になったことばから。
I will be king, or die.
昨年10月の(新国立劇場と、今年3月の彩の国さいたま芸術劇場と、数ヶ月の間に二種類の『ヘンリー六世』を観られたというのは、巡りが良かったと思わずにいられない。もう、こんなことは一生無いでしょう。
その中身についても忘れないうちに書こうと思っているのだけれど、今回は別の話。
若書きとはいえシェクスピア、この芝居の中にも魅力的な台詞が山ほどある。
そのなかで、これ。
いったんはヘンリーの願いを聞き入れたヨーク公が、3人の息子たちの説得にあってもう一度王位のために闘うと決意する時の台詞。(Henry VI Part 3 Act I SCENE II.)
さいたまで観たときは、
「なりたい物になる。さもなくば死だ」
と言うかんじだった気がする。松岡和子訳、河合祥一郎構成の台本。
今、手元に本がないので確認できないんだけれど。
手元にある小田島雄志訳(白水ブックス)では、
「おれは王になるか、死ぬかだ。」
まぁ、直訳。新国立でこうだったんだろうか。記憶では両方“なりたい物”だった気がしているのだけれど……。
敢えて“王”を消したんだとすれば、これ、すごいなぁ、と思ったんだけど、全く記憶違いか、別の箇所と混同してる?
*この件、私の混乱がありました。訂正記事を別に書きました。
前置き長いな。
“なりたい私になる”って、最近よく聞くよな~、と言う話をしたかったんですよ。
通信教育の“なりたい自分”か。
血筋の中である種必然的に“なりたい物”、或いは“なるべき物”がある人は、幸せなのかも知れない(ヘンリーはどうだったのか判らないけれど)。
今は可能性がありすぎて選べない、らしい。
ホントかね。
可能性は、確かに無限にある。
しかし、それはあくまでも、可能“性”でしかない。
この大きな断絶。
どうも、学生達を見ていると、進学でも就職でも、自己評価の中で“可能”なもの、入試で言えば“A判定”か“B判定”くらいの所から選んで満足しているように思える。
無限の“可能性”の中から、“不可能”かも知れない物を“可能”にすることを面白いと思えないのかな。
私の場合、高校入試はともかく、大学・大学院・就職と、その時々の担任(指導教員)から、無茶だと言われ、奇蹟だと言われて今に至っている。
それでも、周りにいる人たちに比べたらずっとおとなしい人生だ。
しかし、大学では勝手が違うし、“世の中”もなんだか違う気がしている。
昨日の面接で、「やりたいことはあるけど言いたくない」と言うような学生がいた。それでは面接にならないので強いて言わせると、拍子抜けするような話(とっさに本音を隠したのかも知れないけれど)で。
一年生になったときに、はっきり“なりたい私”があって、それを表明した人には、それなりのステージを紹介した。
同じ“夢”を持っていても表に出さなければ、そういうサポートは出来ない。
自分でやるから良い、と言うのは、30年前の私と一緒だから、それで良いならかまわんのだけれど、どう見ても、その時の私よりひ弱に見えるんだよね。
今年の一年生はどうだろう。
今日は、推薦の学生と、少し職業の話をした以外、殆ど学問の話をしなかった。
振ってもなんだか興味なさそうで。
たまたまそういう人に当たってしまったんだと思いたいな。
さしあたり、金曜の静岡の文化はどうだろう。
それから、活性化チームに入りたい、と言ってくれる人はいるだろうか。
来てくれれば歓迎、なんだけど、餌を待ってる奴は生きていけないと思っていてください。
決死の覚悟、と言う話でした。
疲れた。
今年はいつもより男子学生が多い気がする。
でも、やっぱり固まってるなぁ。
自分から教員側に出てくるのは女子ばっかり。
フレンドリーだ、と言う感想もあったけれど、軽い、落ち着きがない、と言う意見もあった。
わたしも、人の話を聴く姿勢が出来てないなぁ、と言うのが一番強い印象。
今年は、推薦・私費外国人・後期(の一部)と、三種類の面接に顔を出したので、何人か憶えている学生もいるし、向こうは結構憶えていたらしい。
話してると、その時のことも色々思い出すから楽しい。
まぁ、ぼちぼちね。
んで、まぁ挨拶代わりに、最近気になったことばから。
昨年10月の(新国立劇場と、今年3月の彩の国さいたま芸術劇場と、数ヶ月の間に二種類の『ヘンリー六世』を観られたというのは、巡りが良かったと思わずにいられない。もう、こんなことは一生無いでしょう。
その中身についても忘れないうちに書こうと思っているのだけれど、今回は別の話。
若書きとはいえシェクスピア、この芝居の中にも魅力的な台詞が山ほどある。
そのなかで、これ。
いったんはヘンリーの願いを聞き入れたヨーク公が、3人の息子たちの説得にあってもう一度王位のために闘うと決意する時の台詞。(Henry VI Part 3 Act I SCENE II.)
さいたまで観たときは、
「なりたい物になる。さもなくば死だ」
と言うかんじだった気がする。松岡和子訳、河合祥一郎構成の台本。
今、手元に本がないので確認できないんだけれど。
手元にある小田島雄志訳(白水ブックス)では、
「おれは王になるか、死ぬかだ。」
まぁ、直訳。新国立でこうだったんだろうか。記憶では両方“なりたい物”だった気がしているのだけれど……。
敢えて“王”を消したんだとすれば、これ、すごいなぁ、と思ったんだけど、全く記憶違いか、別の箇所と混同してる?
*この件、私の混乱がありました。訂正記事を別に書きました。
前置き長いな。
“なりたい私になる”って、最近よく聞くよな~、と言う話をしたかったんですよ。
通信教育の“なりたい自分”か。
血筋の中である種必然的に“なりたい物”、或いは“なるべき物”がある人は、幸せなのかも知れない(ヘンリーはどうだったのか判らないけれど)。
今は可能性がありすぎて選べない、らしい。
ホントかね。
可能性は、確かに無限にある。
しかし、それはあくまでも、可能“性”でしかない。
この大きな断絶。
どうも、学生達を見ていると、進学でも就職でも、自己評価の中で“可能”なもの、入試で言えば“A判定”か“B判定”くらいの所から選んで満足しているように思える。
無限の“可能性”の中から、“不可能”かも知れない物を“可能”にすることを面白いと思えないのかな。
私の場合、高校入試はともかく、大学・大学院・就職と、その時々の担任(指導教員)から、無茶だと言われ、奇蹟だと言われて今に至っている。
それでも、周りにいる人たちに比べたらずっとおとなしい人生だ。
しかし、大学では勝手が違うし、“世の中”もなんだか違う気がしている。
昨日の面接で、「やりたいことはあるけど言いたくない」と言うような学生がいた。それでは面接にならないので強いて言わせると、拍子抜けするような話(とっさに本音を隠したのかも知れないけれど)で。
一年生になったときに、はっきり“なりたい私”があって、それを表明した人には、それなりのステージを紹介した。
同じ“夢”を持っていても表に出さなければ、そういうサポートは出来ない。
自分でやるから良い、と言うのは、30年前の私と一緒だから、それで良いならかまわんのだけれど、どう見ても、その時の私よりひ弱に見えるんだよね。
今年の一年生はどうだろう。
今日は、推薦の学生と、少し職業の話をした以外、殆ど学問の話をしなかった。
振ってもなんだか興味なさそうで。
たまたまそういう人に当たってしまったんだと思いたいな。
さしあたり、金曜の静岡の文化はどうだろう。
それから、活性化チームに入りたい、と言ってくれる人はいるだろうか。
来てくれれば歓迎、なんだけど、餌を待ってる奴は生きていけないと思っていてください。
決死の覚悟、と言う話でした。
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