学術的である必要があるのかどうか。
さて。
時間の余裕がないので、あまり多く書く気がない。
走り書きで勘弁。あとで補足するかも。
卒業論文から、学術論文としての作法が消えつつある気がしている。
特に、今年はそう言う印象が強い。
「学術論文としての作法」というのは、勿論、絶対的な基準があるわけではないし、私自身、むしろそう言う制度に対して反抗的であろうとしてきたところもある。
なのだけれど、最近どうかなぁ、と思う。歳か。
作品論を否定する気はない。わたしも、一点だけ、「作品論」風味の論文を書いたことがある(「『盟三五大切』--南北作品論へのアプローチ--」『静大国文』35(91,3))。
でも、それだけ。私の頭では感想を超えられないのが判っているから。
あとは、基本的に、調べて書くもの。最近は調べる時間もないので、抽象的な議論も多くなっているけれど、基礎は調べたことによっているつもり。
調べれば言いたいことは必ず出てくる。その方が楽だ。
徹頭徹尾、作品を読み込んで、そこから生まれてくる何かを、読者に理解してもらえるように書くことは、実はかなりきつい。しかし、実際、今回読んだ卒論の中にはそういうのもあった。たいした力量だと思うし、それは、対象への愛なんだと思う。
揶揄ではなく、ホントに、立派だと思います。
こういう者が増えてくるのは、プロを目指すのでなければ、まぁ時代かな、と言うことですませようとも思う。楽しければいいので。
でもまぁ、発表を聴いても議論する気にはならないです。議論を求めていない。
論文の中の「議論」を抜きに、ある作家や作品について好き嫌いの根拠を語り合って、何になるのだろう。
論文評価の問題は全く別の問題です。
だから、コニ研の発表者は、内容について触れなかった。
内容そのものに触れたら、みんなが好き勝手に対象について語り出して、論文はどこかへ行ってしまうのは明らかだったと思う。
それはそれとして、問題なのは、調べたフリとか、検証できることをしないまま推測したようなやつ。
こういうのはちゃんと糾弾しなければならない。
文学は科学ではない。そのとおり。ただ、文学研究の方法が、近代科学と全く異なるという主張を手放しで容認する気はない。
私の「近代科学」の基本的な考えは、多分小学生のに教わった実験に基づいている。
あの、「塩と砂糖はどっちが溶けやすいか」とか、そういうの。
このとき、最も重要なのは、「他の条件を一にする」ということ。
温度や気圧を変えて比較しても意味がない。
ここから、「他の条件が一致すれば、何度実験をしても同じ結果が生じる」と言う、科学的な因果観を身につけることになる。これは、数字嫌いの理系少年だった私にとって、あまりにも美しい命題だった。
で、文学や歴史学は「他の条件を一にする」ことが不可能なのだから、仮説を検証することは出来ず、従って科学的論文は書けない、と言う、次の命題が必然的に派生する。
ところが、実際には、典拠研究を含む、訓詁註釈の精度を極限まで高めていくことで、作品の読みを、恣意的なレベルから蓋然性の高い、美しい「読み」へと飛翔させることが可能になるのだ。
どうやら、最近気になる論文の多くは、水と油のビーカーを用意しておいて、砂糖と塩の溶けやすさを比較しているようなところがあっていけない。
七個入り100円のビスケットと80gで1ドルのクッキーと、どっちが安いか較べるためにしなければならない作業があるのは当然だ。
松田修・野間光辰・森山重雄といった、私の憧れだった先人たちは、そう言う検証に基づく論文を、実に美しい文体で書いていた。勿論、高田衛。
その伝統が、消えてしまいそうなのが寂しい。自戒を込めて。
とりとめが無くなってきた。感傷的なだけなのかも、とも思えてしまう。
この辺でやめておこう。
ただ、来年度の小二田研は、もう少し、良いな、と思う論文を強制的に読ませてみようかな、と思った、とだけ、言っておく。
さて。
時間の余裕がないので、あまり多く書く気がない。
走り書きで勘弁。あとで補足するかも。
卒業論文から、学術論文としての作法が消えつつある気がしている。
特に、今年はそう言う印象が強い。
「学術論文としての作法」というのは、勿論、絶対的な基準があるわけではないし、私自身、むしろそう言う制度に対して反抗的であろうとしてきたところもある。
なのだけれど、最近どうかなぁ、と思う。歳か。
作品論を否定する気はない。わたしも、一点だけ、「作品論」風味の論文を書いたことがある(「『盟三五大切』--南北作品論へのアプローチ--」『静大国文』35(91,3))。
でも、それだけ。私の頭では感想を超えられないのが判っているから。
あとは、基本的に、調べて書くもの。最近は調べる時間もないので、抽象的な議論も多くなっているけれど、基礎は調べたことによっているつもり。
調べれば言いたいことは必ず出てくる。その方が楽だ。
徹頭徹尾、作品を読み込んで、そこから生まれてくる何かを、読者に理解してもらえるように書くことは、実はかなりきつい。しかし、実際、今回読んだ卒論の中にはそういうのもあった。たいした力量だと思うし、それは、対象への愛なんだと思う。
揶揄ではなく、ホントに、立派だと思います。
こういう者が増えてくるのは、プロを目指すのでなければ、まぁ時代かな、と言うことですませようとも思う。楽しければいいので。
でもまぁ、発表を聴いても議論する気にはならないです。議論を求めていない。
論文の中の「議論」を抜きに、ある作家や作品について好き嫌いの根拠を語り合って、何になるのだろう。
論文評価の問題は全く別の問題です。
だから、コニ研の発表者は、内容について触れなかった。
内容そのものに触れたら、みんなが好き勝手に対象について語り出して、論文はどこかへ行ってしまうのは明らかだったと思う。
それはそれとして、問題なのは、調べたフリとか、検証できることをしないまま推測したようなやつ。
こういうのはちゃんと糾弾しなければならない。
文学は科学ではない。そのとおり。ただ、文学研究の方法が、近代科学と全く異なるという主張を手放しで容認する気はない。
私の「近代科学」の基本的な考えは、多分小学生のに教わった実験に基づいている。
あの、「塩と砂糖はどっちが溶けやすいか」とか、そういうの。
このとき、最も重要なのは、「他の条件を一にする」ということ。
温度や気圧を変えて比較しても意味がない。
ここから、「他の条件が一致すれば、何度実験をしても同じ結果が生じる」と言う、科学的な因果観を身につけることになる。これは、数字嫌いの理系少年だった私にとって、あまりにも美しい命題だった。
で、文学や歴史学は「他の条件を一にする」ことが不可能なのだから、仮説を検証することは出来ず、従って科学的論文は書けない、と言う、次の命題が必然的に派生する。
ところが、実際には、典拠研究を含む、訓詁註釈の精度を極限まで高めていくことで、作品の読みを、恣意的なレベルから蓋然性の高い、美しい「読み」へと飛翔させることが可能になるのだ。
どうやら、最近気になる論文の多くは、水と油のビーカーを用意しておいて、砂糖と塩の溶けやすさを比較しているようなところがあっていけない。
七個入り100円のビスケットと80gで1ドルのクッキーと、どっちが安いか較べるためにしなければならない作業があるのは当然だ。
松田修・野間光辰・森山重雄といった、私の憧れだった先人たちは、そう言う検証に基づく論文を、実に美しい文体で書いていた。勿論、高田衛。
その伝統が、消えてしまいそうなのが寂しい。自戒を込めて。
とりとめが無くなってきた。感傷的なだけなのかも、とも思えてしまう。
この辺でやめておこう。
ただ、来年度の小二田研は、もう少し、良いな、と思う論文を強制的に読ませてみようかな、と思った、とだけ、言っておく。
でもね、私はS井のS本くんに対するコメントのような事を、貴方の口から聞きたかったんです。
卒論発表って、発表者からしてみれば、晴れの舞台でもあります。
でも、やっぱり面倒くさい事だとも思うんです。
それでも発表してくれた人に対する報酬として、コメントがあった方がいいと思うんです。
それが2・3年生のコメントならなお良し。
先生といろいろ話したりさせて貰って思った事は、「正攻法だけが道じゃない」って考えてる先生だという事です。
個性を認めてる感じ。
だから、僕は、貴方からS井先生の様に、発表者の後押しをするような発言が欲しかったんです。
「卒論発表とはみんなこんな固定観念を持っているかも知れないけど、そんなものは捨て去ればいいんだよ」というコメントを。
さらに言えば、恐縮している2・3年生の緊張をほぐすようなコメントを。
だって、小二田ゼミでは、貴方はそういうスタンスでしょ?
そういう優しさをみんなに分けてあげて欲しかった。
コメントを促す事で、発言者への見返りを、ひいてはわざわざ来てくれた聴衆への見返りを提示してあげて欲しかった。
勿論、自分勝手な事を言っているのは分かっています。
でも、僕は貴方の事を信用してるから、敢えてこんな風に言いました。
貴方が学生に対して、親身になっている事を知っているからこそ。