自己愛が強いことを認めよう。
他人に言うことと自分に求めることのギャップ。
考えすぎ。
求めすぎ。
そのくせ怠惰。
そうやって悩んでる自分が結構好きだったり。
自己嫌悪ってのは、結局の所、自己愛なんだねぇ。
こうやって、人の目につく所に自分の内面を曝すのは、そういう「やーな自分」を、「イヤ、そうはいっても良いヤツじゃん」に変換して貰う装置で、ここで叩かれたら立ち直れないと思うけど、そういう人なんか現れるわけないじゃん、と言う、根拠のない自信(つまり世界に対する甘え)に寄りかかってるだけ。
ずるいあぁ。
でも、まぁいいや。
大事なことは、自分の手の届く範囲の人と一緒に居心地の良い場所を作っていくことで。
それが少しずつ、自然に拡がるイメージさえ持っていれば、きっと結果はついてくる。
やっぱり一人で考え込むんじゃなくて、話をするのは大事だな。
目の前にあるのに見えてないことが多すぎ。
うん、ありがとう。
あしたから連休。
筍狩りやら呑み会やら、そこそこ予定もあり。
今日は「表現論」ゼミの日です。ちょっと、「虎狩」を読んでみたいな、とも思ってるんだが、ふっと、「山月記」を見てしまって、例の、一番有名な場所が、めちゃめちゃ気になってきた。
何故こんな運命になつたか判らぬと、先刻は言つたが、しかし、考へやうに依れば、思ひ當ることが全然ないでもない。人間であつた時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといつた。實は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかつた。勿論、曾ての郷黨の秀才だつた自分に、自尊心が無かつたとは云はない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいふべきものであつた。己(をれ)は詩によつて名を成さうと思ひながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交つて切磋琢磨に努めたりすることをしなかつた。かといつて、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかつた。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所爲である。己(をのれ)の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨かうともせず、又、己(おのれ)の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出來なかつた。己(おれ)は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚(ざんい)とによつて益己の内なる臆病な自尊心を飼ひふとらせる結果になつた。人間は誰でも猛獸使であり、その猛獸に當るのが、各人の性情だといふ。己(おれ)の場合、この尊大な羞恥心が猛獸だつた。虎だつたのだ。之が己を損ひ、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形を斯くの如く、内心にふさはしいものに變へて了つたのだ。今思へば、全く、己(おれ)は、己の有(も)つてゐた僅かばかりの才能を空費して了つた譯だ。人生は何事をも爲さぬには餘りに長いが、何事かを爲すには餘りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事實は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭ふ怠惰とが己の凡てだつたのだ。己よりも遙かに乏しい才能でありながら、それを專一に磨いたがために、堂々たる詩家となつた者が幾らでもゐるのだ。虎と成り果てた今、己は漸くそれに氣が付いた。それを思ふと、己は今も胸を灼かれるやうな悔を感じる、己には最早人間としての生活は出來ない。たとへ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作つたにした所で、どういふ手段で發表できよう。まして、己(おれ)の頭は日毎に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪らなくなる。さういふ時、己は、向うの山の頂の巖に上り、空谷に向つて吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴へたいのだ。己は昨夕も、彼處で月に向つて咆えた。誰かに此の苦しみが分つて貰へないかと。しかし、獸どもは己の聲を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂つて、哮(たけ)つてゐるとしか考へない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の氣持を分つて呉れる者はない。恰度、人間だつた頃、己の傷つき易い内心を誰も理解して呉れなかつたやうに。己の毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。
山月記 中島敦 青空文庫
結局の所、「作品」というのは、誰に為にあるんだろう。
見せたいのか、褒められたいのか。
他人に言うことと自分に求めることのギャップ。
考えすぎ。
求めすぎ。
そのくせ怠惰。
そうやって悩んでる自分が結構好きだったり。
自己嫌悪ってのは、結局の所、自己愛なんだねぇ。
こうやって、人の目につく所に自分の内面を曝すのは、そういう「やーな自分」を、「イヤ、そうはいっても良いヤツじゃん」に変換して貰う装置で、ここで叩かれたら立ち直れないと思うけど、そういう人なんか現れるわけないじゃん、と言う、根拠のない自信(つまり世界に対する甘え)に寄りかかってるだけ。
ずるいあぁ。
でも、まぁいいや。
大事なことは、自分の手の届く範囲の人と一緒に居心地の良い場所を作っていくことで。
それが少しずつ、自然に拡がるイメージさえ持っていれば、きっと結果はついてくる。
やっぱり一人で考え込むんじゃなくて、話をするのは大事だな。
目の前にあるのに見えてないことが多すぎ。
うん、ありがとう。
あしたから連休。
筍狩りやら呑み会やら、そこそこ予定もあり。
今日は「表現論」ゼミの日です。ちょっと、「虎狩」を読んでみたいな、とも思ってるんだが、ふっと、「山月記」を見てしまって、例の、一番有名な場所が、めちゃめちゃ気になってきた。
何故こんな運命になつたか判らぬと、先刻は言つたが、しかし、考へやうに依れば、思ひ當ることが全然ないでもない。人間であつた時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといつた。實は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかつた。勿論、曾ての郷黨の秀才だつた自分に、自尊心が無かつたとは云はない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいふべきものであつた。己(をれ)は詩によつて名を成さうと思ひながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交つて切磋琢磨に努めたりすることをしなかつた。かといつて、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかつた。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所爲である。己(をのれ)の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨かうともせず、又、己(おのれ)の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出來なかつた。己(おれ)は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚(ざんい)とによつて益己の内なる臆病な自尊心を飼ひふとらせる結果になつた。人間は誰でも猛獸使であり、その猛獸に當るのが、各人の性情だといふ。己(おれ)の場合、この尊大な羞恥心が猛獸だつた。虎だつたのだ。之が己を損ひ、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形を斯くの如く、内心にふさはしいものに變へて了つたのだ。今思へば、全く、己(おれ)は、己の有(も)つてゐた僅かばかりの才能を空費して了つた譯だ。人生は何事をも爲さぬには餘りに長いが、何事かを爲すには餘りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事實は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭ふ怠惰とが己の凡てだつたのだ。己よりも遙かに乏しい才能でありながら、それを專一に磨いたがために、堂々たる詩家となつた者が幾らでもゐるのだ。虎と成り果てた今、己は漸くそれに氣が付いた。それを思ふと、己は今も胸を灼かれるやうな悔を感じる、己には最早人間としての生活は出來ない。たとへ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作つたにした所で、どういふ手段で發表できよう。まして、己(おれ)の頭は日毎に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪らなくなる。さういふ時、己は、向うの山の頂の巖に上り、空谷に向つて吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴へたいのだ。己は昨夕も、彼處で月に向つて咆えた。誰かに此の苦しみが分つて貰へないかと。しかし、獸どもは己の聲を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂つて、哮(たけ)つてゐるとしか考へない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の氣持を分つて呉れる者はない。恰度、人間だつた頃、己の傷つき易い内心を誰も理解して呉れなかつたやうに。己の毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。
山月記 中島敦 青空文庫
結局の所、「作品」というのは、誰に為にあるんだろう。
見せたいのか、褒められたいのか。
「作品」は見せたいものですね。
ひっそりとでもこっそりとでも。
もちろん褒められるのはうれしい。
でもそれは見せてから始まること。
じゃないかな~。
山月記の長文の自己語りもそれかもしれない。
出過ぎでも認められるものもあれば、「何だよ、コンテクストむちゃくちゃじゃん」ってのもある。むちゃくちゃでも認められるものもある。
人間と同じかも。
その相手が特定でも不特定でも。
消費されることによって会話しているのではないでしょうか。