このブログは、gooのサービスなので、手っ取り早く言うと、「教えて! goo」みたいなやつ。Yahoo!なら「知恵袋」とか。
誰かが質問を書くと、他の誰かが答えを書く。お互いに評価もしあって、そのポイントを貯めるといいことがあったり。
「教えて」が出てきた時に、面白そうだなぁ、と思って暫く覗いて、ものすごい違和感があったのだけれど、これって結構繁盛してるように見える。どうなんだろなぁ。
以下、暮らしの知恵とか人生相談とかは除外して、ある種の「学習」の領域の話です。
それにしても、回答は玉石混淆、問題なしとは言えないけど。
どういうことかというとですね……。
例えば、「教えて」で、「文学」というカテゴリーを覗いてみましょう。
「○○は何処に出ていましたっけ」「○×の感想文のコツは」「□△の大意と表現技法は」……。
卒業論文やレポート、宿題の肩代わりをして貰っているとしか思えないような「質問」の山。
「明日宿題を提出しなければならないのですが、選挙の俳句と防犯の俳句が終わってないのですが何かいい俳句はないでしょうか??」
は許されるのか? この回答がまた旧作みたいで、皮肉のつもりかも知れないんだけれど、質問者はありがたがってるみたい。なかなか珍妙なやりとり。
おそらく、質問者の殆どは、この行為を「調べる」ことだと思っている。
気に入った答えがあれば、それでなにがしかの成果物を作成して、「ネットで調べた結果」だという。
ウィキペディアからの引用の是非というのが問題視されてたことがあったように思うけれど、まぁ、レファレンスブックの信用度と使い方さえ間違えなければそれだけを悪にするのもどうかと思うのだ。
mixiの、各コミュニティのトピックを見ても似たような「質問」を目にすることが多い。
少なくとも、google検索くらいはしてみてよ、と思うようなやつ。
代行を問題にした読売記事のマクラで、コピペレポートについて触れていたけれど、実は、やってる学生たちはそれが悪いことだとは思っていない。
「教えて」にしても、立派に調べてるんだから問題なし。
教える側は、ちゃんと調べなさい、と諭してる場合もあるんだけれど、やっぱり自分の知識を示したいと言う欲もあるからついつい答えちゃう。他の人がれれれ、と言う答えを書いてた日には、黙ってられないし(美術館で隣のグループが崩し字読んでるとつい口出ししたくなるのと一緒だ)。
ここには殆どお金は絡んでない(ポイントはあるけど)ので、ある意味健全な情報交換でいいんだけれども、問題は、もっとずっと本質的な、つまり、「学力」という物の認識というか、文化が変わってしまったんじゃないか、と言うところまで行き着いてしまうんじゃないかと思っている。
考える力、探究する力、もっと言えば、問題に気づく力。
それが「教養」だったし、生きる力その物だった。
だからこそ、学問は楽しかった。
ネット時代になる前から、答えだけを知りたがる子供はいた。
過程の楽しみを奪ってきたのは誰なんだろう。
私の周りには、活動的な学生たちがそこそこ居る。
頼もしいな、と思う反面、彼等にしても、自分で見つけて自分で動くと言う力は、本当にやせ細ってしまっていると思う。
私の過保護を反省しつつ、しかしそのことに、まず気づかせなければ、と言うジレンマ。
誰かが質問を書くと、他の誰かが答えを書く。お互いに評価もしあって、そのポイントを貯めるといいことがあったり。
「教えて」が出てきた時に、面白そうだなぁ、と思って暫く覗いて、ものすごい違和感があったのだけれど、これって結構繁盛してるように見える。どうなんだろなぁ。
以下、暮らしの知恵とか人生相談とかは除外して、ある種の「学習」の領域の話です。
それにしても、回答は玉石混淆、問題なしとは言えないけど。
どういうことかというとですね……。
例えば、「教えて」で、「文学」というカテゴリーを覗いてみましょう。
「○○は何処に出ていましたっけ」「○×の感想文のコツは」「□△の大意と表現技法は」……。
卒業論文やレポート、宿題の肩代わりをして貰っているとしか思えないような「質問」の山。
「明日宿題を提出しなければならないのですが、選挙の俳句と防犯の俳句が終わってないのですが何かいい俳句はないでしょうか??」
は許されるのか? この回答がまた旧作みたいで、皮肉のつもりかも知れないんだけれど、質問者はありがたがってるみたい。なかなか珍妙なやりとり。
おそらく、質問者の殆どは、この行為を「調べる」ことだと思っている。
気に入った答えがあれば、それでなにがしかの成果物を作成して、「ネットで調べた結果」だという。
ウィキペディアからの引用の是非というのが問題視されてたことがあったように思うけれど、まぁ、レファレンスブックの信用度と使い方さえ間違えなければそれだけを悪にするのもどうかと思うのだ。
mixiの、各コミュニティのトピックを見ても似たような「質問」を目にすることが多い。
少なくとも、google検索くらいはしてみてよ、と思うようなやつ。
代行を問題にした読売記事のマクラで、コピペレポートについて触れていたけれど、実は、やってる学生たちはそれが悪いことだとは思っていない。
「教えて」にしても、立派に調べてるんだから問題なし。
教える側は、ちゃんと調べなさい、と諭してる場合もあるんだけれど、やっぱり自分の知識を示したいと言う欲もあるからついつい答えちゃう。他の人がれれれ、と言う答えを書いてた日には、黙ってられないし(美術館で隣のグループが崩し字読んでるとつい口出ししたくなるのと一緒だ)。
ここには殆どお金は絡んでない(ポイントはあるけど)ので、ある意味健全な情報交換でいいんだけれども、問題は、もっとずっと本質的な、つまり、「学力」という物の認識というか、文化が変わってしまったんじゃないか、と言うところまで行き着いてしまうんじゃないかと思っている。
考える力、探究する力、もっと言えば、問題に気づく力。
それが「教養」だったし、生きる力その物だった。
だからこそ、学問は楽しかった。
ネット時代になる前から、答えだけを知りたがる子供はいた。
過程の楽しみを奪ってきたのは誰なんだろう。
私の周りには、活動的な学生たちがそこそこ居る。
頼もしいな、と思う反面、彼等にしても、自分で見つけて自分で動くと言う力は、本当にやせ細ってしまっていると思う。
私の過保護を反省しつつ、しかしそのことに、まず気づかせなければ、と言うジレンマ。
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