コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

「コヨーテ・ソング」 12/1 楕円堂

2007-12-03 20:21:48 | 
構成・演出:宮城聰
作曲:原田敬子
出演
演奏:加藤訓子(パーカッション、マリンバ)
ダンス:康本雅子
朗読:SPAC
朗読作品:「同行二人」「コヨーテ、妊娠する」「風一陣」
(以上、伊藤比呂美 『コヨーテ・ソング』より)



アフタートークにダンサーが現れず。
消耗しきったのだという。
2日目はどうだったのだろう。

しかしまぁ、さもありなん、と言う舞台でした。


声、言葉、文字。
身体。音楽。


詩人の言葉。
他者が作り出した言葉を、演出家と作曲家が読み解き、移し換える。

それを正確に再現する身体。

異様な緊張感。

「演出」の内でもあったのかもしれないけれど、加藤訓子(出演者の中で唯一、前にも見たことのある人)の表情も何かしら悲壮感があり(というか、実際やつれてませんでした?)。

朗読も演技であること。

演出家は、異化作用の話をしたように思うのだけれど、そこに届いていたかどうか。
詩の言葉の力をどう声にするか、と言う話は、戯曲とはまた異なる。


身体は、朗読と音楽に添う身体は、言語(の意味)を実体化する「演技」をするわけではないし、音楽(あぁ、作曲家が自己の音楽の多義性に関して特権的な発言をしていたのは、気負いも自信もあるのだろうけれど、共演者に対してどうなんだろうなぁ、と思いましたよ)もまたしかり。

しかし、それを、あらかじめ身体に記憶させ、寸分の狂いもなく再現することというのは、自分の身体性との格闘を強いるわけで。

消耗戦。


たとえば、詩だけをあらかじめ役者・踊り手・演奏者に渡しておいて、いきなりぶっつけで上演したらどうなるだろう、と言う方に興味が行った。インタープレイ。

無茶なんだろうけれど、踊り手も、演奏者も、そっちの方が生き生きできたのではないかと思えてしまう。


長いアフタートークで答えのない本質論に持ち込もうとする宮城氏も愉快でした。


それにしても、言葉の力は計り知れず、そこに追いつくのは至難の業。

また改めて、身体と、音と、言葉と、それぞれについて考えさせられた。


しかし逆に言うと、トータルにも、個別にも、「そのもの」が残ってないんだよなぁ。
コヨーテに会えなかった、と言うか。
「良い観客」じゃなかったなぁ。

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