コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

「とんちんかんサーカス」 12/8 プーク人形劇場(新宿)

2007-12-12 15:17:48 | 
セカンドジェネレーション企画第4弾「とんちんかんサーカス」 新宿プーク人形劇場 


 「膝栗毛」は、いろんな誤解にまみれた作品だと思う。世の「良識」ある方々が読んだら、発禁にしろと言い出しそうな代物が文学史の教科書に載っている。
 で、内容は、弥次さん喜多さんが旅をしながら滑稽なことをやらかし続ける話だと思われてるんじゃないかと思うのだけれど、どうだろう。


 クラウンYAMAちゃんによるセカンドジェネレーション企画は、今回が第4弾。私は2回目から見ている。第2回はYAMAちゃんの一人舞台(ネットの写真を見ると第1回は2人だったらしい)で、クラウンの日常みたいな寸劇集だった。第3回は「マルチな女」、小暮絹誉が加わって、夫婦漫才のような、抱腹絶倒、見せ場たっぷりの肉弾戦だった。
 そして、今回は、クラウンまどりんが加わって3人になった。「3人の日常 3人のサーカス」「2人の道化師と1人の人がつむぐ温かさ」という惹句。

 あとで少し伺ったことによると、「見せ場」が不足していると言う意見があったそうだ。私も、前の高度な「肉弾戦」や、2回目のジャグラーとしてのYAMAちゃんの美技があまり沢山見られなかったのを残念に思う気持ちはあった。しかし、クラウン師弟と、ひょんなことで出会ってしまった普通の「人」との交流の、愉快な、しかし、しみじみした情感という縦軸ができて一つの舞台として熟していることを認めないわけにいかないとも思った。「はなし」のなかで、クラウンはジャグラーだけれど、見せ場はそこではなくて、彼らにもある、我々にもある、大まじめな滑稽だったりする。そこが道化なんだろう。物まね芸の極み。


 さて、冒頭に「膝栗毛」のことを書いたのには理由がある。
 ついでに言うと、見出し文に「三点確保」という言葉を使ったのにも、もちろん理由がある。

 今回の舞台で最大の手柄は「人」がいたことだと思うのだ。
 一人芝居は、仮想される相手がいるにしても、あるいは何人かの役を一人で演じるにしても、我々は「客」であり続ける。二人芝居になっても、その構図は基本的には変わらない。ただ、2人の登場人物の間に生まれる葛藤によって、我々はボケ・ツッコミやディスコミュニケーションといった、関係性のおもしろさを体感することになる。
 たぶん、「膝栗毛」を読んだことのない人たちは、弥次喜多もそういう話だと思って居るんじゃないかと想像する。ところが、一九が仕掛けたのは、そんなに単純な笑いではない。
 旅をする弥次喜多は、確かに欺し合い、誤解し合い、あるいは勝手に、おかしな事を沢山やらかす。しかし、それ以上に、彼らは観察者である。弥次喜多に寄り添う語り手の視線は、彼らを描写しつつ、実は彼らの視線で、道中の風俗を写している。だから、弥次喜多は、実に多くの場面で、「観客」なのだ。二人の道化が旅をしている。しかし、彼らが出会う道中の、普通の人々も、それぞれに滑稽な人生を送っている。極大雑把に言ってしまえば、従って「膝栗毛」には、三種類の滑稽が用意されている。ひとつは、弥次喜多。もう一つは、弥次喜多が見たもの、そしてもう一つは、弥次喜多と、出会った人たちとの関わりから起こる滑稽。たぶん、作品全体から言うと三番目が一番多いのではないかな。

 語り手でもなく、専有的な演技者でもなく、舞台と客席を自由に往き来するキャラクターとして弥次喜多を設定し得たところに、おそらく「膝栗毛」の成功はあった。いくら狂言の豊かな水脈があったとしても、上方俄の新しい笑いの方法を仕込んであったとしても、その語り方を間違えれば、噺本の域を超えることはない。

 つまりそういうことだ。
 小暮絹誉が演じた「人」は、クラウンを見つめる我々の視線を代表し、ワクワクしながら旅のお供をする。しかし、彼女もまた好奇心に導かれて数々の滑稽をやらかす。それを楽しむクラウンが居る。
 三人目が設定されることで、我々は、クラウンという種族から見た、我々「普通の人々」の暮らしの中の滑稽に、改めて気づかされることになる。


 「三点確保」というのはクライミング用語なのだそうだけれど、私は山田広昭の著書、『三点確保 ロマン主義とナショナリズム』(新曜社)によって知った。彼もまた、野口武彦の著書によって知った用語であると冒頭で説明している。彼は議論に於ける「三項」と言うことについて、以下のような説明をする。

一をベースとするかぎり、思考がある種の神秘主義(何らかの神秘的実体の仮定)にゆきつくことは避けがたい。したがって、神秘主義を首肯しえず、現実のリアルな感触にこだわろうとする者は、必然的に二元論(二項対立)へと導かれる。この思考は矛盾を統一へと解消しようとする代わりに、他の何ものにも還元不可能な原則へと高める。そしてそれは現実が我々に与えるある感触に確かに対応している。しかし、この二項対立にもどうしても違和を感じてしまう者はどうすればよいのか。

 で、第三項を用意することで、事の本質を理解しやすくすると言う話らしい。この本で言えば、国学のナショナリズムとドイツロマン主義を比較して論じるときにフランス象徴主義を提示する、と言う話。

 登山用語としての三点確保は、両手両足の四点の内、三点を確実に固定することで、空いた一点で次に進むと言う基本動作のことらしい(このブログの読者にフリークライミングをされている人がいそうなので、間違ってたら教えてください)。二点では安定しないし、四点が固定されたら上にも下にも動きようが無くなる、というのは、子供の頃岩山登りが好きだった経験があるからよくわかる。
 わかるけれど、なんだかここでの議論には応用法としてあまり「正しい」とは言えない気がする。

 そんなわけで私も誤解の便乗と言うことで、またこの言葉を更に「発展」させて使ってみた。ご寛恕願いたい。

 そういえば、修士論文を書くとき、指導教員だった諏訪春雄に、三角測量のような論文、と言う注文を出された。「実録」という、ある意味前人未踏の山を知るためには、一つ二つの材料を扱ってあれこれ言っても意味がない。相互に隔たりのある三つを取り出して論じることで、その山を描け、ということだった。このやり方は、素晴らしく効果的だったと、今でも感謝している。


 話がそれた。
 今回の舞台の重要な小道具であるコートかけは、「膝栗毛」七編のハシゴを思い出させた。言葉の集積によってスラップスティックな笑いを生み出すのが滑稽本だけれど、「膝栗毛」は、案外無言劇でも可能なのかもしれないと思った。
 こういう笑いは子供にも大受けだ。そんな中で、「まだやってる?」という、大人にしか解らない「ことば」がまた効いていた。

 細かい「見所」はたくさんあったのだけれど、長くなったのでこの辺で。


 さて、第五弾はどうくるのか。今から楽しみです。

 あ、そうして、静岡でも是非!!


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