言語文化学科学生の研究発表会
全部で7本。
そのうち前半の4本だけ聴いてきました。
学生がもっと手を挙げて欲しいなぁ、というのはいつものことで。
Iさん:北欧神話における炎の考察
北欧神話をやりたい、と言う話は前から聞いていたのだけれど、どういう切り口なのかは全然聴いてなかったのでまぁ、初。
他の発表もそうだけれど先行研究と自分の立ち位置の関係が今ひとつ明確になってない印象。
もしも、北欧神話がアイスランドと出会うことで炎の表象を獲得した、と言うのが新発見ならとても面白いのだけれど、どうなんでしょう。
「ニーベルンゲンの指輪」との関連について質問した人がいたけれど「ワルキューレ」と言うよりはブリュンヒルデないし、彼女を包み込むローゲのこと、それから「黄昏」の大炎上、ということだろうよね。
ワグナーはヨーロッパの神話を再構築して「人間の夜明け」を描いたって事でいいんでしょ?今のゲーム作ったり漫画やラノベ書く人達にとってはこの辺は基礎教養なんでしょう。「水滸伝」>「八犬伝」みたいなものね。
日本神話だとカグツチとか、ホヲリとか、やっぱり死と再生・豊饒のイメージ? 焼津草薙も、炎か。
キリスト教の炎は何?
Hさん:日本語のとりたて詞に関する一考察-サエの形式と意味-
左右衛門さんがサエとは、さえてるね。
言語学では、例文を自分で作って、文章として成り立つかどうか、と言うような分析方法を使う。生成文法などではとても有効だと思うし、私も文法を教えていた頃は、たとえば条件接続なんかでは、よくオリジナルの例文を使った。
ただ、語用論(なのかな? 語彙論?)では、リアルな例文で分析しないと怖いなぁと思う。特に「サエ」の場合、古語で意味が変遷しているので、「だに」「すら」等と一緒に考える必要があるし、「まで」の、この手の用法の出現というのも面白そう。
検索できる材料はたくさんあるのだから、コーパスっぽいこともやってみたらいいと思うぞ。
Iさん:『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』-「僕」の自我を担う影の存在解釈-
この作品はとにかく卒論出現頻度が高いのだけれど、どこまで深化できているのかは疑問。「自我/自己」「意識/無意識」という問題と、(ユングの用語ではなく)小説内の言葉としての「影」、「僕」など。
H先生が、ユングを使って解釈するならユングの新解釈はするな、と言うようなことを言ったのは、気が利いてました。使えるな。
現代文学作品を研究する怖さというのは、その作品を既成の解釈軸で説明しようとしたとたんに、「作者」の所有する情報の罠に引きずり込まれてしまう、と言うところにある。村上春樹がユングを知らないわけはない(でしょ?)ので、そうなると、正解のある謎解きをしているような、限定された楽しみ方でどうも気にくわないのだよね。馬琴の謎解きの愉しみを否定はしないのだけれど。
神話や、江戸ものをユングで、と言う場合には、作者の仕掛けたことを超えるスリルがある。学部生レベルでこういう研究をする人って、本当に勇気があると思う。
U君:近代日本に於ける中国語教育と日中文化交流
テーマでかすぎて発表のスケールにあわない感じですね。R先生、U先生の意見が面白かった。日本に於ける中国語観というのは、U先生のおっしゃるように、ラテン語やギリシャ語のように漢文を敬い、親しんできた歴史と、白話、現代中国語との落差、と言う問題が大きいのでしょう。そこに、「文化語」「実用語」という形で、現代中国語教育を説明し、そこに、敬意と蔑視の軸をあわせようとするのは、結構アクロバティックな気がする。
とはいえ、明治期のメジャーな教育史の文脈で、そういう現象が実際にあったことが実証的に示せるなら、それに文句はないわけで、かなり手堅い印象。
ただ、やっぱり、江戸時代の白話ブームや通詞のこと、開港したての神戸や横浜にいた中国人たちとの交流など、面白いとこはいっぱいあるよなぁ。と思ってしまう。華字新聞も読めたら楽しいと思うぞ。
すみません。後半戦はパスしました。
自分が大学生の頃、発表の技術ってどうだったかなぁ、と考えてみたり。
何はともあれ、こういう会をやることには意味があると思う。
これ、もっと広く公開した方がいいよね。
ということで、いま、ゼミのMさんが企画調整中。
ここでは、もしかしたら私も四半世紀前にさかのぼって卒論発表をするやもしれぬ。
たのしみでもあるよ。
だから何、と言うことを抜きに、学問の愉しみを伝えていけば、言語文化学科はもっともっと良くなる。
その前に、1年生のためのコース説明会があって、私のサブカル研究批判みたいなのが解りづらかったようなのでちょいと補足。
「サブカルチャー」というラベルが私にはよう解らぬのです。
ただ、そういう言葉でくくって「カルチャー」にしてしまうことに、何となく違和感がある。
学生の中に、「研究する価値」の有無みたいなことを気にして「いいんですか」という態度が見えたりするとうんざりなのだよね。
研究する価値のないものなど、何一つ無いよ。
問題は、その仕方でしょ。
「価値」という軸が頭の中にあった方が学術的に見えるようで、「江戸のノンフィクションを立派に文学として読む」などと言った噴飯ものの議論がそこそこ話題になったり。そういう「評価」そのものが、オリエンタリズム的な視点なのだと言うことに気づけ。
その上で、ヲタクは対象への愛を、客観的に説明せよ、と言っているのですよ。
ユングやプロップやジラールに逃げないで、自分の言葉で自分を切り裂け。
そういう意味で、随分前のヤオイ論は面白かった。
あぁ、思わず色々書き散らかしてしまったなぁ。
それだけ知的刺激があったと言うことでしょう。
良かった良かった。
それにしてもつくづく、自分の立ち位置はひねくれてるんだな、と思うのであるよ。
ジェンダーでもサバルタンでもいいんだけど、見えてさえ居ないようなものたちの方にすり寄って、権威に吠えているばっかり。こんな私に誰がした?
そんなわけで、小二研に来たい人は私の論文を読んでおくれ。
ちゃんと渡り合える人に来て欲しいです。
ゼミ生はゼロでもいいのよ実際。
タイトル、解ってもえらたかしらん。
もっとでかい写真を見たい人はこっちの画像をクリック。
全部で7本。
そのうち前半の4本だけ聴いてきました。
学生がもっと手を挙げて欲しいなぁ、というのはいつものことで。
Iさん:北欧神話における炎の考察
北欧神話をやりたい、と言う話は前から聞いていたのだけれど、どういう切り口なのかは全然聴いてなかったのでまぁ、初。
他の発表もそうだけれど先行研究と自分の立ち位置の関係が今ひとつ明確になってない印象。
もしも、北欧神話がアイスランドと出会うことで炎の表象を獲得した、と言うのが新発見ならとても面白いのだけれど、どうなんでしょう。
「ニーベルンゲンの指輪」との関連について質問した人がいたけれど「ワルキューレ」と言うよりはブリュンヒルデないし、彼女を包み込むローゲのこと、それから「黄昏」の大炎上、ということだろうよね。
ワグナーはヨーロッパの神話を再構築して「人間の夜明け」を描いたって事でいいんでしょ?今のゲーム作ったり漫画やラノベ書く人達にとってはこの辺は基礎教養なんでしょう。「水滸伝」>「八犬伝」みたいなものね。
日本神話だとカグツチとか、ホヲリとか、やっぱり死と再生・豊饒のイメージ? 焼津草薙も、炎か。
キリスト教の炎は何?
Hさん:日本語のとりたて詞に関する一考察-サエの形式と意味-
左右衛門さんがサエとは、さえてるね。
言語学では、例文を自分で作って、文章として成り立つかどうか、と言うような分析方法を使う。生成文法などではとても有効だと思うし、私も文法を教えていた頃は、たとえば条件接続なんかでは、よくオリジナルの例文を使った。
ただ、語用論(なのかな? 語彙論?)では、リアルな例文で分析しないと怖いなぁと思う。特に「サエ」の場合、古語で意味が変遷しているので、「だに」「すら」等と一緒に考える必要があるし、「まで」の、この手の用法の出現というのも面白そう。
検索できる材料はたくさんあるのだから、コーパスっぽいこともやってみたらいいと思うぞ。
Iさん:『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』-「僕」の自我を担う影の存在解釈-
この作品はとにかく卒論出現頻度が高いのだけれど、どこまで深化できているのかは疑問。「自我/自己」「意識/無意識」という問題と、(ユングの用語ではなく)小説内の言葉としての「影」、「僕」など。
H先生が、ユングを使って解釈するならユングの新解釈はするな、と言うようなことを言ったのは、気が利いてました。使えるな。
現代文学作品を研究する怖さというのは、その作品を既成の解釈軸で説明しようとしたとたんに、「作者」の所有する情報の罠に引きずり込まれてしまう、と言うところにある。村上春樹がユングを知らないわけはない(でしょ?)ので、そうなると、正解のある謎解きをしているような、限定された楽しみ方でどうも気にくわないのだよね。馬琴の謎解きの愉しみを否定はしないのだけれど。
神話や、江戸ものをユングで、と言う場合には、作者の仕掛けたことを超えるスリルがある。学部生レベルでこういう研究をする人って、本当に勇気があると思う。
U君:近代日本に於ける中国語教育と日中文化交流
テーマでかすぎて発表のスケールにあわない感じですね。R先生、U先生の意見が面白かった。日本に於ける中国語観というのは、U先生のおっしゃるように、ラテン語やギリシャ語のように漢文を敬い、親しんできた歴史と、白話、現代中国語との落差、と言う問題が大きいのでしょう。そこに、「文化語」「実用語」という形で、現代中国語教育を説明し、そこに、敬意と蔑視の軸をあわせようとするのは、結構アクロバティックな気がする。
とはいえ、明治期のメジャーな教育史の文脈で、そういう現象が実際にあったことが実証的に示せるなら、それに文句はないわけで、かなり手堅い印象。
ただ、やっぱり、江戸時代の白話ブームや通詞のこと、開港したての神戸や横浜にいた中国人たちとの交流など、面白いとこはいっぱいあるよなぁ。と思ってしまう。華字新聞も読めたら楽しいと思うぞ。
すみません。後半戦はパスしました。
自分が大学生の頃、発表の技術ってどうだったかなぁ、と考えてみたり。
何はともあれ、こういう会をやることには意味があると思う。
これ、もっと広く公開した方がいいよね。
ということで、いま、ゼミのMさんが企画調整中。
ここでは、もしかしたら私も四半世紀前にさかのぼって卒論発表をするやもしれぬ。
たのしみでもあるよ。
だから何、と言うことを抜きに、学問の愉しみを伝えていけば、言語文化学科はもっともっと良くなる。
その前に、1年生のためのコース説明会があって、私のサブカル研究批判みたいなのが解りづらかったようなのでちょいと補足。
「サブカルチャー」というラベルが私にはよう解らぬのです。
ただ、そういう言葉でくくって「カルチャー」にしてしまうことに、何となく違和感がある。
学生の中に、「研究する価値」の有無みたいなことを気にして「いいんですか」という態度が見えたりするとうんざりなのだよね。
研究する価値のないものなど、何一つ無いよ。
問題は、その仕方でしょ。
「価値」という軸が頭の中にあった方が学術的に見えるようで、「江戸のノンフィクションを立派に文学として読む」などと言った噴飯ものの議論がそこそこ話題になったり。そういう「評価」そのものが、オリエンタリズム的な視点なのだと言うことに気づけ。
その上で、ヲタクは対象への愛を、客観的に説明せよ、と言っているのですよ。
ユングやプロップやジラールに逃げないで、自分の言葉で自分を切り裂け。
そういう意味で、随分前のヤオイ論は面白かった。
あぁ、思わず色々書き散らかしてしまったなぁ。
それだけ知的刺激があったと言うことでしょう。
良かった良かった。
それにしてもつくづく、自分の立ち位置はひねくれてるんだな、と思うのであるよ。
ジェンダーでもサバルタンでもいいんだけど、見えてさえ居ないようなものたちの方にすり寄って、権威に吠えているばっかり。こんな私に誰がした?
そんなわけで、小二研に来たい人は私の論文を読んでおくれ。
ちゃんと渡り合える人に来て欲しいです。
ゼミ生はゼロでもいいのよ実際。
タイトル、解ってもえらたかしらん。
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ワーグナーの方は、けっこう北欧神話の要素が色々改変されて使われているので、さらったくらいでちゃんと見てないんですが…。というかそれもあって、あの質問の意味をちょっと取り違えていたんですが、そういうことでしたか(汗)
ローゲ=ロキ=炎という繋がりは、多分これの影響で定着してしまったのかな、と思うのですが、北欧神話の研究に限ると、ロキと炎の結びつきは疑問視するひとのほうが多いような感じです。
キリスト教の場合は、炎というと「浄化」「再生」「滅亡」いろいろありますけれど、確か聖霊のシンボルでもあったかな、と。
ただシンボルとかイメージって、一概に「こう」とは断言できないから、危険かな、ともちょっと思っているんですが…。
そうかぁ、ローゲがロキと関係あるか。
アイスランドにはたくさん火山があるみたいだけど、『複合大噴火』で日本でも有名なのが、ラキ山。
なんだか面白いねぇ。
数年前にやったかどうかの記憶もあやふやですが。
四半世紀ぶりの卒論発表!
それってすごい。
私は4年前の卒論すら、もう戻れない視点がありますね。
あの時じゃなきゃ書けなかったものって存在なので、
今あれをどうこうできないと思ってしまいます。
それができるってことが、
先生が学問をずっと続けてこられたってことなんでしすかね。
(私のは当時から学問とは違いましたが。)
現実的な理由は、自己評価のアリバイ作りなんだけど。
まぁ、まじめな1年生のコース選択のヒントくらいにはなってるね。
かなでさんみたいな卒論が、ある意味理想なんだよね。
自己満足の“私”じゃない仕掛けがあったでしょ。
しかも、「あのときじゃなきゃ書けなかったもの」。これってすごいことだと思うよ。
春に、一般公開の卒論発表会みたいなことを仕様、という企画が動いてるみたいでね、私も、自分の卒論の話をすることになるっぽい。
良かったら覗いてみて下され。
今とのつながりかぁ。