コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

若干補足・2件

2009-07-10 15:16:56 | 
朗読で学ぶ 耳寄り古典』のCDを3枚全部聴いた。

前の記事では
ドラマチックに盛り上げると言うよりは抑制気味の、しかし本当によく通る聞き取りやすい声
とだけ書いたんだけれど、全部聴くと、さすがに絶賛ばかりはしていられない違和感がある。
どんな朗読でも言えることで、それは、解釈の違いだったりする。
特に古文の場合、そのヨミで本当に良いのか、ということもあるし、音便などもばらつきがあってはならないとは思わないながら、だからこそ、そこはなぜそう読むのか、が問われてしまう。
このCDは、聞きやすさ、文法的な、というか、単語・品詞の析出しやすさみたいな物を重視しているのかな、と思わないでもないけれど、一方で、ためらった痕跡もあったりして、全てがこれでOK! と言っていいのか微妙な物が混じっている。

とはいえ、『平家』などは、そこそこ芝居がかっていて聞いていて面白い。

今年は江戸戯作を少し学生に読ませたんだけれど、もっとやりたかったなぁ。
自分でこつこつやってみようかなぁ。

****************


唐十郎の『沼 ふたりの女』1980 漂流堂・京都書院)を購入。
珍しいことだけれど、これで『源氏物語』、謡曲、『近代能楽集』と、全部手元にあることになった。さすが古典。

早速気になるところをチェックしてみた。
……。
宮城氏は、言葉の上では殆ど“原作”をいじってない。

目についたのは、ふたりの女、それぞれの“死”の場面。

(六条)のアパートを訪ねてきたらしいアオイが「あなた、ここよ。」というところ。

  と見上げると、天井のハリにアオイがうずくまっている。

従って、傘が飛ぶことはなく、

  かもいから全体重をかけてとびおりる。
  それが、宙にずんと止まる。首を吊った女の手から鍵がポロリと落ちる。
  音楽。


そして最後、

光一(殺意を込めて)きさまは六条だ、六号室の六条だ。(と首に手をかけながら押したおす)
(逆に上になり)いいえ、ここには六号室もありません。六条さえもおりません。こうしてゆっくり、帰ってゆかねば。
  一にぎりの砂をかける。
  もがきながら、砂をからませ、ひきずりこまれるように、二人とも、砂の中の虫が砂に帰るように見えなくなってゆく。


アオイの死の場面はテントならでは、というべきなのか、どういう仕掛けなのか、かなりショッキングだったと思われる。
逆に宮城演出は野外らしい美しさがあった。

最後の場面は、……、光一、どうなったんだっけ?

壁やドアの扱いは音であらわしているらしい。
鍵は判らず。

演出上のことはやっぱり判らないんだけれど、それにしても、やっぱり三人の描き方は、原作の時点で腑に落ちない。
というか、それまでの流れを変えてしまっているので真面目に取り合わない方が良いのかも知れない。
思いこみで妻になる女(六条)に“悪意”はなく、正妻になるはずのアオイは嫉妬深い。そして、光一は優柔不断。
最後の“女”のセリフをストレートに受け取ってしまった方が解りやすい。

前に書いたように、『オセロー』では浮かばれないデスデモーナを夢幻能によって鎮魂せしめた宮城聡をもってしても、この脚本の女たちを美しく散らせるのには苦労するわけだ。


ところで、今(六条)と括弧に入れて書いたのには理由がある。
本を見て初めて判ったことだけれど、巻頭の登場人物リストでは
六条
光一
アオイ
……
となっているのに、台本では、六条に相当する女はほぼ「女」と指示されている。
「六条」になっているのは三場(サーキット)で、次郎が姉の危急を告げに来た所からの次郎とのやりとりと、そのあとの駐車場係との妙なやりとりのみ、しかも、その合間でも光一と絡むところは「女」になっている。

次郎や駐車場係にとっては「六条」であるところの、不可解な「女」ということ?

やっぱり光一の作り出した妄想の話ではないのか。


ん~。
こうなると、他の戯曲を見なきゃいけなくなるなぁ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 愛でたい無駄。 | トップ | 惜しみなく愛は赦す。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事