コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

Kiss me, Kate.

2009-06-28 20:26:27 | 
じゃじゃ馬ならし
演出:イヴォ・ヴァン・ホーヴェ
作:シェイクスピア
出演:トネールフループ・アムステルダム

今更ながら教養のなさを曝すようでなんだけれど、ミュージカル"KISS ME, KATE."が、そういう話だ、というのは、SPAC=静大連携講座の鈴木実佳先生のお話を伺うまで識りませんでした。
いやはや。

そして、「じゃじゃ馬ならし」。
原作読んでない。
というか、いくら擁護しようとシェクスピアにはシェクスピアの限界があるのだからどうしようもない。

今時、最後の独白を真に受ける人は居ない。
それを、どう、現代人が納得できるようにするかというのが“演出”。
そういう意味で言えばこういう“反動的”な芝居の方がやりがいがあるのかも知れない。
あぁ、コジ・ファン・トゥッテみたいな感じ。


アフタートークでケイト役の女優さんは、間違いなくこの台詞が最も苦労したと言い、オランダでは客席から怒号が飛んだこともあったとか。
で、彼女はジェンダーとは関係なく普遍的な愛の話として自分を納得させたと言った。

この“証言”にはしかし、やっぱり違和感がある。
演出意図、役者の意志がそうならそれがあの芝居の“正解”なのかもしれないけれども。

比べる何かを持っていないので何とも言えないのだけれど、彼女は目を潤ませ、妙に長い間をおきながら、時にかすれた声で、この長台詞をいう。
そこには、意に反して口をついて出るコトバという、自身に対する暴力が見え隠れしている(ように見える)。
確信を持って“心から”そう思っているのではない身体のゆれ。

それにしても、この演出の猥雑さ加減は半端ではない。
見たくもない物を散々見せられ、いささかげんなり。

全くもってフーリガン発祥の地の“文化”には恐れ入る。

逆に、こういう“過激”な演出によって浮かび上がってくる物は何なんだろう、と言うことを、もう少し考えたいなぁとは思うのだけれど。

途中、客席に向かって語る演出も劇中劇の趣向を辛うじて残している感じで、緩衝材がわりになっていた。


*ちなみにウィキペディアに脚本へのリンクもあります。




ところで。


Kiss me, Kate.

は、全く別の変奏を産んだ。

菜食主義のケイトは、キスはするがセックスを拒み、イアンに力で従属させられる。
しかし、イアンは更に大きな力によって現実に曝される。

『ブラスティッド』のケイトの笑いは、『じゃじゃ馬ならし』への、一つの答えだった、てこと?

女は強いな。




もうちょっと考えて、書き足すかも。
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1 コメント

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補足 (コニタ)
2009-06-29 08:56:43
本文に書き足すと誤解されそうなので。
劇中劇のフレームの話は「知識」としては知ってるのだけれど、ちゃんと読んでないので、あとで書こうと思っています。

古風な演出のこともふくめて。
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