また、中学や高校で、塾・予備校による補講、と言うのが話題になってる。
今に始まったことではない。
私が博士課程に在学していた頃、河合塾の講師をしていたのだけれど、栃木県の県立高校で講習会をやった記憶がある。
ベテランの高校の先生の謙虚さ、熱心さに参ったのでしたよ。
それでも予備校講師を有り難がる生徒や親って何考えてるんだろう。
さて、問題の本質はどこにあるのでしょう。
もう少し広い視野で眺めてみる。
学校の授業に追いつけない子供たちが行く「補習塾」ではなく、学校の授業では追いつけない子供たちが行く「進学塾」の存在。
ゆとりでも詰め込みでも、結局、「名門」を受験するためには、「学校」ではだめなのね。
なぜか?
極大雑把に言ってしまえば、入試問題に対応する授業をしてるかどうか、ということ。
義務教育は入試対策ではない、総合的な人間形成の場なんだから、目的が違う、と言う議論はその通り。
だとすると問題なのは……。
たとえば入試を課している高校や大学はなにをもとめてるんだろう。
学校で何を学んだか、を問うのではいけないのか。
入試で問うべき「学力」の質が、学校で身につけるべき「学力」と食い違っていることを追認したまま動いている社会そのものをもう一回ちゃんと見直した方がいい。
それは、進学後に必要な「学力」を問う問題を作ると言うことでもある。
再三ここに書いているように、言語文化学科の入試問題は(年々の差異はあるにしても)、試験対策が巧みな人ではなく、よりよく生きている人に向けて発信されている。少なくとも、文科系の地方大学なら、センター試験でそこそこの成績を取っていれば、個別にはこういう試験の方が面白い学生をとれる。
実際、総合問題に変えてからの方が学生の質が上がったと言う声もあるのだ。
「ゆとり」の反省から、子供たちの授業時間を増やすように方針転換を図るらしい。
時間を増やしても意味無いよ。
たぶん、まともな会社は、採用試験で学生の何を見るか、と言うことについてかなりしっかりしたポリシーを持っている。昔ほど、大学名で採ったりはしていないような印象を受ける。そうでなきゃ、ウチのゼミの学生の就職率はもっと悲惨でしょう。
次は大学の番です。
大学が、「本庁」の顔色ばかり見ないで、学生や、採用側の企業(あえて役所とは言いません)としっかり交流しながら、大学で学ぶべき事について、そのために必要な「学力」の問い方について、はっきりした展望を打ち出すことが、高校や受験生を動かしていくんじゃないのか。
そうやって、高校や中学が受験対策をしなくてもよくなってくれば、学問を喜びにするチャンスが増えると思うのだよね。
時間がないので、抽象的な話で今回は終了。
写真も色々あるし、芝居の事やらなにやら、積み残しが多いなぁ。
今に始まったことではない。
私が博士課程に在学していた頃、河合塾の講師をしていたのだけれど、栃木県の県立高校で講習会をやった記憶がある。
ベテランの高校の先生の謙虚さ、熱心さに参ったのでしたよ。
それでも予備校講師を有り難がる生徒や親って何考えてるんだろう。
さて、問題の本質はどこにあるのでしょう。
もう少し広い視野で眺めてみる。
学校の授業に追いつけない子供たちが行く「補習塾」ではなく、学校の授業では追いつけない子供たちが行く「進学塾」の存在。
ゆとりでも詰め込みでも、結局、「名門」を受験するためには、「学校」ではだめなのね。
なぜか?
極大雑把に言ってしまえば、入試問題に対応する授業をしてるかどうか、ということ。
義務教育は入試対策ではない、総合的な人間形成の場なんだから、目的が違う、と言う議論はその通り。
だとすると問題なのは……。
たとえば入試を課している高校や大学はなにをもとめてるんだろう。
学校で何を学んだか、を問うのではいけないのか。
入試で問うべき「学力」の質が、学校で身につけるべき「学力」と食い違っていることを追認したまま動いている社会そのものをもう一回ちゃんと見直した方がいい。
それは、進学後に必要な「学力」を問う問題を作ると言うことでもある。
再三ここに書いているように、言語文化学科の入試問題は(年々の差異はあるにしても)、試験対策が巧みな人ではなく、よりよく生きている人に向けて発信されている。少なくとも、文科系の地方大学なら、センター試験でそこそこの成績を取っていれば、個別にはこういう試験の方が面白い学生をとれる。
実際、総合問題に変えてからの方が学生の質が上がったと言う声もあるのだ。
「ゆとり」の反省から、子供たちの授業時間を増やすように方針転換を図るらしい。
時間を増やしても意味無いよ。
たぶん、まともな会社は、採用試験で学生の何を見るか、と言うことについてかなりしっかりしたポリシーを持っている。昔ほど、大学名で採ったりはしていないような印象を受ける。そうでなきゃ、ウチのゼミの学生の就職率はもっと悲惨でしょう。
次は大学の番です。
大学が、「本庁」の顔色ばかり見ないで、学生や、採用側の企業(あえて役所とは言いません)としっかり交流しながら、大学で学ぶべき事について、そのために必要な「学力」の問い方について、はっきりした展望を打ち出すことが、高校や受験生を動かしていくんじゃないのか。
そうやって、高校や中学が受験対策をしなくてもよくなってくれば、学問を喜びにするチャンスが増えると思うのだよね。
時間がないので、抽象的な話で今回は終了。
写真も色々あるし、芝居の事やらなにやら、積み残しが多いなぁ。
静大 日文3年の いしい じゅんこです。
今回の記事の中で
>>それでも予備校講師を有り難がる生徒や親って何考えてるんだろう。
というところが少し気になりました。
私自身も高校時代に予備校に通ったことがあります(が、わたしの場合は「進学塾」というよりは「補習塾」のつもりで通っていました。数学とか地歴など数字を扱うものがとても苦手だったので…)。
その予備校の中で講師から良く聞いたのは
「高校の先生たちはこんなに大事なことを教えてくれない。」
という台詞だった気がします。
試験対策上大事なことを高校の先生はあまり教えない、という意味だったのでしょうけれども、この手の台詞は予備校での授業中に本当によく聞きました。
耳にするたびに、どうしてここまで高校の先生をけなすのかなぁ…?という悲しい気持ちがわいたものです。
そういう予備校講師の台詞が、予備校が終わった後も生徒やご家族の頭の中に残って、(中学や)高校の先生の授業を信用できない、というのもあるのではないかと思います。
それでは試験対策技術を鍛えて、望みの高校や大学に進学して、どうしたいのか。
ご家族(親)の考えは…よくわかりません。
生徒の場合は、やっぱり高校時代なのですが、何通りかの考えを聞いたことがありました。
・とにかくトップに立ちたい、と、「勉強という名のスポーツ」として勉強をしている。
・良い成績で有名な高レベル校にいけたら、家族や親戚の評判がいいし、そういう学校に行けるようにあおられるから勉強している。
・やりたいことがないし、何をしていいかわからないから勉強しか出来ない上、家族には進学を期待されているからとりあえず勉強している。
1つ目の考え方をしていた友人は、当時の私にとっては全く考えたことのないお話だったのでとても新鮮だったのを覚えています。
2つ目や3つ目の考え方の友人は、「どうせ社会に出たって不祥事だ不正だ、そんなことばかりなのに、勉強して頑張って進学して、就職したところで何が楽しめるというんだ」と、ふたりとも呟いていたのが印象に残っています。
きれいごとばかりでは生きていけないけれど…もうしこし、勉強する中で自分を取り巻いている世界に愛着をもてたら、自分の目標も持ちやすくて、闇雲に予備校万歳!にはならないのかな?と思います。
例えば、基礎→応用→発展 と段階的に勉強するのを繰り返すだけでなくて、
ちょっとでも興味を持ったら多少レベルや勉強科目が変わってしまうようなことでも、気軽に脱線できるとか。
どうせ大学や社会に出たら「レベル」だ「科目」だなんて、ないのですし…。
…あぁ、なんだか長くなってしまいました。
今回はこの辺で失礼します。