
「私、○×区のX教会からきたものですが、教会に拝みにきません、少しここからは遠いけど来ませんか?」
いきなり路上で見知らぬ小柄だがやや太めの熟年女性に声をかけられた。
私は少し微笑の唇を作って、黙って首を横に降った。
「だめですか、…関心ないー」
以外とあっさり私と彼女は反対方向に歩いて別れた。
第一印象の戸惑いが消えた後、私の思ったことは「なんと芸のない、布教活動だ」ということ。宗教団体の宣教活動はいろいろなやり方をする。「あなたは悩んでいませんか」と言うのが多い。十中八九まったく悩みを抱えていない人はいない。仕事や職場の人間関係、家族のこと、健康のこと、「100年に一度の大不況」が来ようというときである。これは、宗教へ誘う導入としては有効な方法である。
詐欺的なのは、キャッチセールスまがいのもの。アンケートと証して、他人に巧みに近づき、サービス・商品ならぬ宗教団体を売りこむ。
この後考えたことは、自分はなぜあの女性の言葉に従わなかったかを整理することだった。
まず、導入の方法があまりに直接的で唐突であった。何か宣伝パンフレットやのぼりなどを持ち、信条を路上で説法するとかすれば、否、やはり私は拒否反応を起こすだろう。
理由は、まず、宗教の思想と宗教団体を分けて考え、宗教思想を宗教団体より重く考え、さらにより理性と人間性、自由を重く考えるからである。私の宗教思想は宗教団体のそれとは根本的に違うからである。
宗教思想の必要性を私は否定しない。人間理性は限界があり、生きていくために絶対の現実の人も物も存在しない以上、われわれは超越的なものにすがったり、依拠せねばならぬ場合もあろう。占いの隆盛はいつの時代も衰えることはないのがそれを示している。
宗教団体はさらに占いより多くのものを与えてくれる。何よりも、孤立した人、孤独な人たちに「救い」を期待させてくれる。その仲間に入って活動し始めれば、生きがいを感じ始め、仮に団体に入って悩んでも、その悩みも救済の一部、信仰の一部になる。根本的な理性的思考は働かなくなり、宗教団体の活動をすることで、多くの仲間と行動することで充実した生活を得ることが出来る。さらに、信者のコネを使って、仕事を見つけたり仕事にプラスになる情報を得たり、人脈も出来よう。現世の利益も転がり込んでくる。
内容よりも、信ずると言うことが重要で、「鰯の頭も信心」ということである。
宗教団体に入った者の義務はなにか?
理性よりも団体の唱える考えと統制と行動をそれが客観的に理性的であろうとなかろうと、理性的なものとして第一に優先させることである。ある宗教団体の人は聖書を科学的な歴史書であると言っていた。これはその特定の宗教団体の保全発展を無条件に優先させ、排他性を強くする。また、この排他性により、周りから反対を受け、孤立すれば、このことで仲間の団結心が強まるという生きがいを感じ、真理を知ったものがこの世の汚さに抑圧されるのだ、という、上から目線の殉教感にうっとりと浸れる。
また、理性の働きは物の扱いにのみ働くようになり、人間性や社会、人間関係、自分の属している団体の統制には働かなくなる。極端な事例はオウム信者である。オウムの信者は理性を働かせて毒ガスを効果的に扱い、多くの人を殺傷するのに成功したが、また高学歴の幹部も多くいたが、人間性についての理性は麻痺していた。
わたしは宗教が必要なことを先に認めたが、宗教団体もこれをまったく無視することも出来ない。どのように宗教や宗教団体と付き合っていったらいいのだろう?
宗教改革や宗教戦争を経験し、宗教戦争を終わらせ、キリスト教神学より下位にあった哲学を復興させた欧米の人たちの信仰のあり方が参考になろう。彼らの多くはキリスト教団体に属し、牧師や神父の説教を、日本人がお経を聞くよりも多く聴いて、多くは宗派・人種に関係なく社会に貢献するチャリティー活動、ボランティア活動に参加している。彼らの宗教に対する態度は基本的には、人間性と、理性を尊重した近代的な市民哲学、市民意識による。この宗教に関する考えに大きな影響を与えた思想の一つにカントの思想を挙げることが出来る。
「神は存在もし、かつ存在もしない」ということを、理性を働かせ、形式論理学的に徹底的に証明した。その上に立って、キリスト教の諸命題に無条件で従えという。(この思想が発表されると、教会の圧力で彼は大学の職を失いかける)ただ、権威ある人から、団体からいわれて、また、団体活動、一般的な慣習から信じるのと、徹底した理性を経て、理性の要請として信じるのとでは大きな違いがある。このような諸思想、哲学、政治活動の実践によって、宗教的寛容、個人の思想・信条・信仰の自由、政教分離の原則が社会に具現化されたのである。
日本人も、時には、日常の習俗・慣習を離れ、徹底的に理性を働かせて、歴史的にも、じっくりと宗教・宗教団体を考えてみるべきであろう。信仰をどう扱うべきか、特定の宗教団体にどう対応するか、特定の宗教団体に入ること、入ってしまっていること(江戸幕府は、すべての日本人を幕府が認める仏教・神道宗派に加入させたから、理性を働かすことなく、いまでも檀家の形で多くの日本人はどこかの宗教法人に属しているはず!)への態度等を、たまには考えるべきであろう。宗教団体は我々や社会に有形無形の影響を与えているのだから。
いきなり路上で見知らぬ小柄だがやや太めの熟年女性に声をかけられた。
私は少し微笑の唇を作って、黙って首を横に降った。
「だめですか、…関心ないー」
以外とあっさり私と彼女は反対方向に歩いて別れた。
第一印象の戸惑いが消えた後、私の思ったことは「なんと芸のない、布教活動だ」ということ。宗教団体の宣教活動はいろいろなやり方をする。「あなたは悩んでいませんか」と言うのが多い。十中八九まったく悩みを抱えていない人はいない。仕事や職場の人間関係、家族のこと、健康のこと、「100年に一度の大不況」が来ようというときである。これは、宗教へ誘う導入としては有効な方法である。
詐欺的なのは、キャッチセールスまがいのもの。アンケートと証して、他人に巧みに近づき、サービス・商品ならぬ宗教団体を売りこむ。
この後考えたことは、自分はなぜあの女性の言葉に従わなかったかを整理することだった。
まず、導入の方法があまりに直接的で唐突であった。何か宣伝パンフレットやのぼりなどを持ち、信条を路上で説法するとかすれば、否、やはり私は拒否反応を起こすだろう。
理由は、まず、宗教の思想と宗教団体を分けて考え、宗教思想を宗教団体より重く考え、さらにより理性と人間性、自由を重く考えるからである。私の宗教思想は宗教団体のそれとは根本的に違うからである。
宗教思想の必要性を私は否定しない。人間理性は限界があり、生きていくために絶対の現実の人も物も存在しない以上、われわれは超越的なものにすがったり、依拠せねばならぬ場合もあろう。占いの隆盛はいつの時代も衰えることはないのがそれを示している。
宗教団体はさらに占いより多くのものを与えてくれる。何よりも、孤立した人、孤独な人たちに「救い」を期待させてくれる。その仲間に入って活動し始めれば、生きがいを感じ始め、仮に団体に入って悩んでも、その悩みも救済の一部、信仰の一部になる。根本的な理性的思考は働かなくなり、宗教団体の活動をすることで、多くの仲間と行動することで充実した生活を得ることが出来る。さらに、信者のコネを使って、仕事を見つけたり仕事にプラスになる情報を得たり、人脈も出来よう。現世の利益も転がり込んでくる。
内容よりも、信ずると言うことが重要で、「鰯の頭も信心」ということである。
宗教団体に入った者の義務はなにか?
理性よりも団体の唱える考えと統制と行動をそれが客観的に理性的であろうとなかろうと、理性的なものとして第一に優先させることである。ある宗教団体の人は聖書を科学的な歴史書であると言っていた。これはその特定の宗教団体の保全発展を無条件に優先させ、排他性を強くする。また、この排他性により、周りから反対を受け、孤立すれば、このことで仲間の団結心が強まるという生きがいを感じ、真理を知ったものがこの世の汚さに抑圧されるのだ、という、上から目線の殉教感にうっとりと浸れる。
また、理性の働きは物の扱いにのみ働くようになり、人間性や社会、人間関係、自分の属している団体の統制には働かなくなる。極端な事例はオウム信者である。オウムの信者は理性を働かせて毒ガスを効果的に扱い、多くの人を殺傷するのに成功したが、また高学歴の幹部も多くいたが、人間性についての理性は麻痺していた。
わたしは宗教が必要なことを先に認めたが、宗教団体もこれをまったく無視することも出来ない。どのように宗教や宗教団体と付き合っていったらいいのだろう?
宗教改革や宗教戦争を経験し、宗教戦争を終わらせ、キリスト教神学より下位にあった哲学を復興させた欧米の人たちの信仰のあり方が参考になろう。彼らの多くはキリスト教団体に属し、牧師や神父の説教を、日本人がお経を聞くよりも多く聴いて、多くは宗派・人種に関係なく社会に貢献するチャリティー活動、ボランティア活動に参加している。彼らの宗教に対する態度は基本的には、人間性と、理性を尊重した近代的な市民哲学、市民意識による。この宗教に関する考えに大きな影響を与えた思想の一つにカントの思想を挙げることが出来る。
「神は存在もし、かつ存在もしない」ということを、理性を働かせ、形式論理学的に徹底的に証明した。その上に立って、キリスト教の諸命題に無条件で従えという。(この思想が発表されると、教会の圧力で彼は大学の職を失いかける)ただ、権威ある人から、団体からいわれて、また、団体活動、一般的な慣習から信じるのと、徹底した理性を経て、理性の要請として信じるのとでは大きな違いがある。このような諸思想、哲学、政治活動の実践によって、宗教的寛容、個人の思想・信条・信仰の自由、政教分離の原則が社会に具現化されたのである。
日本人も、時には、日常の習俗・慣習を離れ、徹底的に理性を働かせて、歴史的にも、じっくりと宗教・宗教団体を考えてみるべきであろう。信仰をどう扱うべきか、特定の宗教団体にどう対応するか、特定の宗教団体に入ること、入ってしまっていること(江戸幕府は、すべての日本人を幕府が認める仏教・神道宗派に加入させたから、理性を働かすことなく、いまでも檀家の形で多くの日本人はどこかの宗教法人に属しているはず!)への態度等を、たまには考えるべきであろう。宗教団体は我々や社会に有形無形の影響を与えているのだから。