広島に引越ししてきて 14年ぐらいたった
8月6日はとてもつらい日です。
広島に引っ越してきて、
働きはじめた頃には まだ原爆にあったお年寄りのかたに会うことがあった
みなさん どこか体調が悪くて
だれかに 付き添われてこられる人も多かった
もう みなさん高齢で なくなられた方も多い
20代の頃
ある方から頼まれて フラワーフェスティバルの福祉の広場のテーマソングをつくり
そこで 3日間そこにいて 歌ったり いろいろな企画に参加したりしていました。
なくなられた村下孝蔵さんとお話させてもらったり とても懐かしい思い出です。
そして私は常時そこにいて 舞台の上で 歌っていた
その時に ずっと そこで 受付の手伝いをしていた人がいた
たぶん スタッフとしてではなく 途中から勝手に手伝っていたんじゃないかと思う
なぜか最後までそこにいて手伝っていた
なんて タフな人なんだと、私は その時感心してみていた
そのイベントが終わった後 彼はよく電話をかけてきた
話しているうちに 彼はお母さんのおなかの中にいたとき被爆した事を話してくれた
彼のお姉さんは 原爆乙女の1人として
アメリカに渡ったらしい
彼と二人、原爆資料館に行った事があった
そばで いろいろ説明してくれたのに
私はその時若かったから ・・
彼が思っているほど その話を受けとめてなかった。
でも彼は真剣に 真剣に話してくれていた
悪かったな・・・
今も元気だろうか・・・
元気にしていてくれたらいいな
まさかその広島にこんなに長く住む事になるとは思ってもいなかった。
でも 転勤できた頃より 新聞もテレビも原爆の特集の時間が少なくなった
忘れてはいけないけれど
その事を語れる人達がどんどん少なくなってきているからかもしれない
戦争を知らないで育った私も 今日は静かに祈ります。
8月6日はとてもつらい日です。
広島に引っ越してきて、
働きはじめた頃には まだ原爆にあったお年寄りのかたに会うことがあった
みなさん どこか体調が悪くて
だれかに 付き添われてこられる人も多かった
もう みなさん高齢で なくなられた方も多い
20代の頃
ある方から頼まれて フラワーフェスティバルの福祉の広場のテーマソングをつくり
そこで 3日間そこにいて 歌ったり いろいろな企画に参加したりしていました。
なくなられた村下孝蔵さんとお話させてもらったり とても懐かしい思い出です。
そして私は常時そこにいて 舞台の上で 歌っていた
その時に ずっと そこで 受付の手伝いをしていた人がいた
たぶん スタッフとしてではなく 途中から勝手に手伝っていたんじゃないかと思う
なぜか最後までそこにいて手伝っていた
なんて タフな人なんだと、私は その時感心してみていた
そのイベントが終わった後 彼はよく電話をかけてきた
話しているうちに 彼はお母さんのおなかの中にいたとき被爆した事を話してくれた
彼のお姉さんは 原爆乙女の1人として
アメリカに渡ったらしい
彼と二人、原爆資料館に行った事があった
そばで いろいろ説明してくれたのに
私はその時若かったから ・・
彼が思っているほど その話を受けとめてなかった。
でも彼は真剣に 真剣に話してくれていた
悪かったな・・・
今も元気だろうか・・・
元気にしていてくれたらいいな
まさかその広島にこんなに長く住む事になるとは思ってもいなかった。
でも 転勤できた頃より 新聞もテレビも原爆の特集の時間が少なくなった
忘れてはいけないけれど
その事を語れる人達がどんどん少なくなってきているからかもしれない
戦争を知らないで育った私も 今日は静かに祈ります。