『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』のテーマは、「永遠」である。しかし、一切がただ永遠に回帰するのだとしたら、あの伝説の『エンドレス・エイト』のように、我慢ならないもの、耐えがたいものになる。後半パートの冒頭で、「毎日が同じことの繰り返し。つまんねえ仕事だ」とベネディクトが語るとおりだ。
バートレット姉妹は、ヴァイオレットと同じことをしている。姉は「淑女見習い」、妹は「郵便配達人見習い」として、ヴァイオレットは二人と同じ制服を着て、「その手伝い」をやっている。一緒にお風呂に入り、同じベッドで寝て、星座の話を聞き、手紙を書き、ヴァイオレットに抱きついている。しかし、姉のときは、「訓練」が修了した別れの日で、妹のときは、「訓練」が明日から始まる出会いの日だった。「ありがとう、ヴァイオレット」とお礼をいうときも、姉とは恋人つなぎで、妹には手を取られ「淑女」としてエスコートされている。「永遠」は「反復」である。しかし、同じことを繰り返しているように見えて、季節が巡るように、新しい出会いといのちの息吹がそこにはある。今まで、ランボーやブランキの名前を挙げてきたけれど、「永遠」といえば、この人も忘れてはなるまい。
「おまえたち、永遠の者たちよ、世界を愛せよ、永遠に、また不断に。痛みに向かっても『去れ、しかし帰ってこい』と言え。すべての悦楽はーー永遠を欲するからだ」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)
「永遠」が、同じことの繰り返しの運命の牢獄しかを意味しないならば、ヴァイオレットと出会う前のエイミーのように、それは自己と世界の否定、ニヒリズム、ルサンチマンしかもたらさないだろう。しかし、「永遠」を自らの意志で欲し、「人生の喜びよ、一切の痛みとともに帰ってこい」というとき、それは人の生きる希望となる。生きる痛みも、別れの悲しみも含めた「生」と「存在」の丸ごとの肯定が、ニーチェの「永遠回帰」の思想である。
そういえば、ニーチェは「超人」を、「ライオンが小児になること」にたとえたが、ライオンがトレードマークのセイバー似のヴァイオレットと、天真爛漫なテイラーのコンビは、そのままである。
ヴァイオレットは、決してテイラーを「子ども」扱いにしていない。それは一人で眠れなくて、部屋を訪ねてきたとき、ドアを開けた彼女は、最初、視線が宙を泳ぎ、自分の肩までの背丈しかないテイラーに気づく。ヴァイオレットのテイラーに接する態度は、のっぽさんが子どもに対して敬意を払い「小さな人」と呼ぶのを思わせる。しかし、テイラーが三つ編みに失敗したときや、プレゼントのキャンディをおすそ分けしてもらったときには、年相応の幼さに、優しく微笑んでいる。シャボン玉に見とれ、危うく車に轢かれかけたときは、小さなテイラーを守り抜く「保護者」の目である。このとき二人は、自動車が跳ねた道路の雨水をかぶっているが、このシーンは、姉がグラスを倒してテーブルに水をこぼすシーンのリフレインであることに気がついた。姉にも妹にも、ヴァイオレットは、まさに「騎士姫」そのままだ。しかし妹のときは、側を離れず、危機一髪で間に合い、自分も一緒に水を浴びている。この映画には、そんな微妙な仕掛けがあちこちに施されていて、何度観ても飽きが来ない。
「二つではほどけてしまいますよ。三つを交差させて編むとほどけないのです」。バートレット姉妹の二人の絆は、ヴァイオレットの存在が交差することで、決してほどけることのない「永遠」になった。特典の小説で、「三つ編みのままの方が可愛らしいです」とヴァイオレットに言われて、照れ隠しに下を向くエイミーがかわいい。