
祝・あずまきよひこ『よつばと!』10巻刊行。
まじめっ子のえなに何があったのかは、読んでのお楽しみ。
さて、待望の10巻は、いつものよつばの日常を描きながら、新しいマンガ表現の可能性を感じさせた。
カバーを開いた本扉は、よつばの体がページの端で切れている。この絵が次ページの「もくじ」に続いていて、よつばがおもちゃ箱と積み木セットを抱えて歩いている。
これがさらに巻頭の「よつばとあそぶ」に続いている。遊び心たっぷりのデザイン。
「電子書籍ではページという概念がなくなる」という指摘がある。ページとは紙の本という「制約」にすぎなかった、ともいう。しかしこの導入部は、この「制約」をうまく使っている。
よつばが現れるのは、とーちゃんの仕事部屋。とーちゃんのデスク下にもぐりこむと、「ここ よつばのいえな?」と宣言する(この場面が『それ町』のユキコのようでおもしろい)。
扉絵(積み木の家と、よつばとジュラルミン)の次は、パソコンに向かい作業するとーちゃん。音が聞こえる。
「とんとんとん
とんとんとん」
キーボードを軽快に叩くタイプ音?
しかしそれはデスクの下で、積み木で何やらひとり遊びするよつばの声なのだ。
「それは何か作ってんのか?」
「ばんごはん じょわー」

このさりげないシークエンスがいい。「とんとんとん」というオノマトペが、キーボードの無機的な機械音から、ばんごはんを支度する夢の音に変化する。リアリズムに徹しながら、これもまた、マンガでしか表現できない世界だ。
「とーちゃん
いいにおいしてきたなー っていって」
よつばは、どこでこんなセリフを覚えてきたのだろう?
綾瀬家だろうか? ばーちゃんの家にいた頃に聞き覚えたのか? それともテレビドラマ? すでにとーちゃんも知らない、自分だけの豊かな内面世界を持つようになった、よつばがいる。
「きょうはねー おとうふがやすかったのー」
豆腐が安かったはずなのに、差し出した積み木はコーンスープ、とうもろこし、さんまの三品。そんな所もほほえましい。
「えな ヘリングしよ」
ヘリング? このよつば語が、とーちゃんにはわからない。しかしいつも一緒に遊んでいるえなには、「ヘディング」のことだとわかる。顔にボールが直撃しても、よつばが泣いたりせず、おもしろがる所も。こんなさりげない描写を通じて、よつばの成長が感じ取れる。
この成長は、「よつばとうそ」にも感じられる。あさぎに借りた、ダイエット用の大きな透明ボール。家で遊んでいるうちに、台所の皿やコップを割ってしまう。
よつばはこどもなので、「べんしょう」できない。うそは次第にエスカレーションする。
最初は窓からボールが勝手に飛び込んできたという(ボールは窓より大きいのに?)。
それは手品師がいたからだという(手品師の詳細な描写)。もううそは見抜かれている。
そこで、本当はよつばはよい子なのに、「うそつきむし」が中に入って勝手にうそをつくのだという。
「うそつきむし」を退治してもらうために、とーちゃんはよつばをある場所に連れていく。「4時30分になりました よい子のみなさんは おうちに帰りましょう」というアナウンスが流れる、たそがれ時の街へ。
このカットが秀逸。こどもの頃に誰もが見た闇の恐怖。

うそだけれど、うそじゃない(うそつきむしのせい)。
よつばだけれど、よつばじゃない。
自分の中の他者との出会い。うそをつくとは、空想と現実の境界を知るということでもある。
「よつばとジャンボ」では、あさぎ・えな姉妹と、とらと出かけた気球イベントの写真が届く。
あさぎに抱かれたよつばのスナップは、この作品の予備知識がなく、いきなりこのページを開いたら、母子のように見えてもおかしくない。
これは、撮影したとらビジョンなのだろう。レンズを通して、小悪魔でずぼらながら根はやさしくしっかり者の親友の未来を切りとっているかのようだ。

とーちゃんはこの写真を見て、デジカメを買おうと思う。
「よつばとでんきや」「よつばとかでん」では、ヤマダ電機へ。風香のはじけっぷりがいい。
よつばが、テレビの中の自分に出会うシーンがおもしろい。
テレビのなかのわたしは、わたしの「写し」のはずなのに、鏡とは別人のように見える。鏡の場合は、右手を上げれば、自分と同じ側の手があがる。しかし、ビデオカメラを通したテレビの場合には、反対側の手があがっているように映る。右を見ているはずなのに、左を見ている。あべこべだ。何が起きているのか? これはもう、ふーかにサインしている場合ではないのである。

このみうらちゃんのハワイの写真にも感心した。

いつも大人ぶったみうらちゃんが見せない、天真爛漫な笑顔。両親の目から見た、ごく普通の子供の顔だ。みうらちゃんの母親が初出演する。瓜二つ。「みうら」と呼びかけるシーンに、フルネームが「早坂みうら」だったことを思い出した。
「よつばと!」が連載開始した頃、「脱オタ」「リア充」をキーワードにしたレビューを見かけた(ソースをたどることができない)。
ひとことでいえば、リアリズムへの転身。夏の妖精つくつくほうしの正体はセミであり、とんがり帽子は新聞紙のカブトだし、土手から抜いたひまわりは根っこが泥だらけなのだ。夢オチならぬ現実オチ。
しかし、ダンボーがほんとうはダンボールの着ぐるみにすぎないことを、よつばに教えていいものだろうか。この巻の最終話「よつばとさいかい」より。

このカットは衝撃的である。
ダンボーは死んだのか(ロボットは死なないのに?)。なぜみうらの部屋にいるのか? そこから、えなとみうらによる、ダンボーの死と再生の物語がはじまる。
このエピソードに、谷川俊太郎さんたちの『にほんご』の《うそ》を思いだした。おはなしをつくることと、うそをつくことは、似ているようでちがう。ひとをこまらせるうそ、ひとをかなしませるうそ。ひとをなぐさめるうそ、ひとをたのしませるうそ。これらは全く別のものだ。
ことばをつかう限り、人はうそをつかずに生きていくことはできない。火や刃物の発明のように、うその発明なくして、文明も社会も成り立たなかっただろう。しかしその用い方をあやまれば、自分や他人を傷つけることになる。まだよつばには早すぎる。
よつばとダンボーの会話を、よつばの描いた絵にかぶせる美事さ。

この絵が、ロボットと一緒に公園に遊びにいくという、夢のようなラストへのみごとな扉になっている。
動かないはずの絵、いつか見た夢も動き出す。マンガってこういうものじゃなかったのか。さあ、こどもたちも、かつてこどもだったおとなたちもご一緒に。
おまけ。えなの弁明。

※12月26日に一部加筆修正・タイトルも「夢への扉」から変更しました