新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

小川国夫の沈黙

2010年07月02日 | 日記
 テレビのテロップ病について書いているうちに、故・小川国夫のインタビュー番組を思い出した。

 まだ関東にいた頃だから、15年以上前か、20年くらい前かもしれない。私と同年代のわが子が小学校で登校拒否になった体験について語っていた。

 その番組を見ようと思って、見たわけでない。たまたまテレビのチャンネルを切り替えていて気が付いたのだ。チャンネルがそこで停まったのは、ひそかに敬愛する作家だったからもある。しかしそれだけではなかった。何だか静まりかえっているのだ。

 インタビュアーの質問に「そう・・・・・・」「ん……」「……」と呟いたきり、100円ライターを握った右手で、人差し指と中指と親指にはさんだたばこのマイルドセブンを、くるくると回し続けた。たばこはいつまでも火が点くことはなかったし、言葉もなかなか出てこなかった。

 今となっては記憶もあいまいだけれど、小川国夫は数分かけて、大体こんなことを答えていたように記憶する。正確な引用ではないので、その点お含み置きを。

 「ぼくは何も手を差し伸べなかった・・・・・差し伸べるべきではない、と・・・・親子であっても・・・・親と子は別個の存在ですから・・・・・・でも親子である以上は・・・・・・親にしかできないこと・・・彼を信じてやること・・・それしかできないのだから・・・それしかやるべきできなかった・・・・でもそれでいいんだと」

 小川家の体験は、たった一言のテロップ風に要約できるものではなさそうで、愛を口にすれば解決するほど簡単なものでもなさそうだった。タバコに火がついたのは、20分か30分か経ってからだった。

 RTの洪水によって、タイムラインの彼方に押しやられていく、ことば。小川国夫の長く美しい指のあいだでくるくると回り続けていたタバコは、波頭の上で漂えども沈まない流木のように、沈黙と忘却に耐える、「小説」や「言葉」の可能性であるように思われてくる。



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