広重の『名所江戸百景』は貴重な初摺が海外にほとんど流出し、国内には質の悪い追摺りしか残っていません。このため、海外の浮世絵研究者の本作に対する評価は高いのですが、国内の評価は低いです。
だから、私のような素人でも、先達が見落としてきた新発見がゴロゴロ転がるワイルドフロンティアです。北斎に関する著作のある、さる名誉教授の先生にも「書籍化を望む」と太鼓判をいただいています。まあ、無名で専門外の私の本を出そうという物好きな出版社はないでしょうから、せめて自費出版できたらいいなあと思っています。
先日、入稿直前のギリギリのタイミングで文章を書き改めるに当たって、取り出した参考文献は、この仕事のきっかけを作ってくれた論文でした。
久しぶりに取り出すと、その論文には、赤線が引かれ、ゴリゴリ熱心に読まれた形跡があります。蔵書は、死後、市場に還流することを考えると、あまり手荒な扱いはできませんが、PDFのプリントアウトなので、気軽にアンダーラインやメモを書き込んでいたようです。
引いたアンダーラインはガタガタして、あっち行ったり、こっち行ったりです。揺れる電車のなかで熱心に読んでいたことを思い出しました。
すると、記憶が芋づる式に蘇っていきます。座っていたのはクロスシート。ということは、私鉄ではなくJR。行く先は神戸か、京都か、丹波か。車窓の風景は、福知山線の渓谷。
そう、4年前の12月、労組の丹波支部の忘年会に向かう列車のなかでした。連載開始は3年前の12月でしたが、一年前には準備に着手していたようです。
あの夜は、その年二度にわたり入院した私の快気祝いも兼ねて、三次会まで行ったものです。翌朝は重度の二日酔い。しかし、福知山から京都丹後鉄道で、大江駅まで行き、駅の2階にある『真下飛泉資料室』で資料を見て、森繁久弥の『戦友』を聴き、駅前の鬼瓦公園を見て、ミニバスに乗り、大江山の「日本の鬼の交流博物館」に立ち寄り、帰りに鬼そばを食べ、鬼まんじゅうや特産品のマッチ、パンフレットなどを土産に買って帰りました。
周囲の風景や状況、音やにおい、温度や湿度も一緒に体感できるのが、紙の本のいいところです。
しかし、重度障がい者初の芥川賞作家の市川沙央さんが、「紙の本を憎んできた」と語っているのを聞いて、それはいわゆる健常者の思い上がりも甚だしいと改めて気づかされたものです。
さて、真下飛泉(ましも-ひせん 1878-1926)は、大江町(現在 福知山市大江町)に生まれた、明治-大正時代の歌人・詩人です。以下、福知山市のホームページより。
明治11年10月15日生まれ。小学校訓導,校長をつとめ,のち京都市会議員となる。初期明星派の歌人。軍歌「戦友」の作詞者。大正15年10月25日死去。49歳。京都出身。京都師範卒。本名は滝吉。筆名は別に滝郎。著作に「叙事唱歌集」「童謡の研究」。
真下飛泉、本名 瀧吉、文筆名を飛泉・滝郎・たきろう、飛泉郎などと号した。明治11年10月10日大江町字河守小字新町に生まれた。男四人兄弟の次男である。
小学校卒業後一時奉公に出たが、師小墻近太郎(おがきちかたろう)のすすめで京都師範に入り、明治32年卒、以後京都市で小学校教員生活30年を送る。
若くして文芸に傾倒し学生時代に小説・詩歌を発表、就職とともに浪漫主義文学を提唱した与謝野鉄幹に師事して短歌の指導を乞い、明星派の影響を強く受けた。
飛泉の文名を一世に高くしたものに叙情的叙事詩「戦友」がある。この歌は日露の役のさ中、明治38年9月に発表されたもので、彼の十二篇に及ぶ叙事唱歌の第三作である。三善和気の作曲を得て金二銭で五車桜から発表されると、忽ち爆発的な流行を見、全国を風靡して今日に至る。
このころ盛行した文語調定型詩の殻を破り、平易な俗語で自然の感情を流露させたところに近代文芸史上に即した彼の功績があるといえよう。
飛泉の作品(歌・詩・文を含めて)の基底を流れるものに一脈の人間愛をいうべき思いやりの心がある。その教育述作-児童本位・家庭教育・児童文庫・私立小学校創設概集等々-で推知すれば、情操や創造性を重視した人格主義と約言できようか。自由の中での自発、教育環境の整備などはその最も意を用いた処であった。
大正14年、教壇を去った京都市会議員となったが、宿痾のため、大正15年10月25日府立病院で没した。享年48(満)歳、知恩院山内に葬られた。
私は真下飛泉の名を知りませんでしたが、森繁久彌が歌った『戦友』は知っていました。
ここは御国を何百里
離れて遠き満州の
赤い夕日に照らされて
戦友は野末の石の下
今日亡くなった母方の祖父が、マンドリンを弾きながら、この曲を歌っていたものでした。
京都丹後鉄道の終点の舞鶴は、帝国海軍の船員として祖父が敗戦を迎えた地でした。
私もそれを思い出して、訪ねたことがあります。新潟の母方の伯母たちも、祖父の思いでの場所である舞鶴に行きたがっていたのですが……
長女は施設に入所、二女はすでに死去。三女の伯母は元気ですが、元気すぎて忙しく、なかなか予定が合いません。四女の私の母は、早く死去しています。
早起きして、クルマで回れば、大江山、舞鶴、天橋立、そして私たちの農園まで一日で回れる……かな?
大江山は、結構ヘビーかも。山頂と麓の往復に車で2時間、鬼の文化交流館もちゃんと見れば2時間、ウルトラマンをデザインした成田亨が手掛けた、山の上にある鬼の像を見に行くにも往復1時間はかかりますからね。二日酔いで、鹿の糞だらけの階段を登るのは苦行でした。
もう二日プラスして、大江山から天橋立と舞鶴、伊根の舟屋、城崎温泉や竹田城、生野銀山を回ってもらえたらうれしいなと思います。まあ、私も伊根の舟屋と竹田城と生野銀山は行ったことがありませんが。
あの日、私が大江山を訪ねたのも、いま広重論を連載している小冊子に、労組支部がある、すなわち弊社の事業拠点のある丹波のPRのために、探訪記を書こうと思ったからです。
大江駅の売店には、新潟の国上寺の所蔵する大江山縁起を収録した、先代和尚の著作が販売されていました。思わぬところで故郷との再会でした。
大江山の酒吞童子には、越後出身説があります。良寛が五合庵を結んだことでも知られる、国上寺の稚児・外道丸だったというのです。外道丸は絶世の美少年で、女たちからの懸想がやまず、いやになって恋文を燃やしたら、その煙を浴びて悪鬼と化してしまったのだとか。
その後コロナ禍の影響が深刻になるなか、コストダウンのためページ削減で、大江山探訪記は企画そのものを見送らざるをえませんでした。
しかし、あの日撮ったこのまま写真フォルダに眠らせておくのも、もったいないですね。いつかブログの記事に仕立てたいものです。タイトル画像は、福知山市のホームページより、大江山の雲海。