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夏の日。毎年花見に行く公園で、れんちゃん。人間ドックに行く途中だった。この日の検査で精密検査を言い渡され、がんが見つかった。
今日のテーマは公園のはなし。でも、例のごとく、前置きが長い。
いまは、松阪生まれのある先生の新刊について、れんちゃんがレポートをまとめているところ。本居宣長から小津安二郎までの松阪の知の系譜について論究した本。
さて、勉強熱心な愛娘と異なり、父はグータラで、松阪のことなど知らない。
そんな父も、中上健次が松阪を訪ねていたことを思い出した。紀州半島の中上がいう「路地」を訪ねたルポルタージュ『紀州』中の一章である。本をひさしぶりにサルベージした。
この本を読んだころ、まだ東京にいた。新左翼セクトの一員だったから、狭山闘争を通じて、部落問題に関する通り一遍の知識はあったが、それは知識だけのものにすぎなかった。『紀州』を読んだおれは、文字を持たない民の世界から突如出現した中上のルーツにふれて、魂が震えるような感動をおぼえたのをおぼえている。
そんなおれも、大阪に移って三十年になる。「中上文学」にかつてのように感動することはなくなっている。部落について理解が深まったわけではないが、ひとつわかったことは、中上も書いていたように、被差別民は世界中どこに行っても似ているということだ。おれは何人の「中上」に出会い、どつきあい、罵りあい、笑いあい、酒を飲み交わしてきただろう。
松阪を訪ねた中上健次は、市役所の人間にたくさん資料を渡されたらしい。夜、ホテルで資料を読んだ中上は、松阪をどう発音するか、マツサカ、マッサカ、マツザカのどれが正しいのかという論争があることを知って、「玩物喪志」と評している。
おれが「玩物喪志」ということばを知ったのは、澁澤龍彦のエッセイだった。出典は『書経』の「旅獒」(りょごう)だそうだが、中上もそんなレベルではなかったか。澁澤の「玩物喪志」には、当時勃興しつつあった「おたく」というルビを振るのがふさわしい。せいぜい、コレクター気質といったほどの意味であろう。
「玩物喪志」は、中上にとって、松阪ゆかりの本居宣長、本居宣長記念館建設に尽力した「前松阪市長」梅川文男批判のキーワードになる。
中上健次は、松阪市制三十周年記念出版『都市部落』に梅川が寄せた序文を引用しながら、「治者の論理」「玩物喪志」であると批判する。
『紀州』を取り上げた、とある学者の論文を読んだ。蓮實某の説話論的構造とかなんとか、くだらぬ論文だったが、Webにあげるなら、関係者やおれのようなヤクザものの目にも留まることは留意したほうがいい。本書の松阪のくだりは、いいがかりにすぎない中上のことばをそのまま引き写すのではなく、批判対象の梅川がどんな人物であるかくらい最低限の調査は必要ではなかったか。調査というほどではない。2013年の論文だから、尾崎康充『近代解放運動史研究 梅川文男とプロレタリア文学』はすでに刊行されていたし、Webで尾崎氏の論文も読める。
プロレタリア詩人・梅川文男(堀坂山行)とその時代 : 松阪事件に至るまで
中上は、坂口安吾「教祖の文学」を引用しながら、本居宣長をいっちょうまえに批判してみせる。なぜここで安吾の小林秀雄批判が出てくるかといえば、当時、小林の『本居宣長』がお歳暮やパチンコの景品になるほど売れていたからだろう。
中上は、「志」とは生きることだ、たたかうことだと、うそぶいているが、おまえなんか、酒を飲んでゴールデン街で暴れて、家庭ではDVを振るっていただけだろう。それが「たたかい」か? それに、おまえ本居宣長も小林秀雄も読んでないだろう?
おれにわからないのは、中上の「宣長が秋成の出自の闇に触れたとき」というフレーズである。秋成は、いわゆる「父知らず」だったが、それが被差別を意味したのか。この論争において、宣長は、秋成のプライベートなことに言及したのだろうか。入門書のふたりの論争の概説を読む限り、宣長にそんな素振りはない。おれは宣長が差別者でなかったと擁護したいわけでない。むしろ逆だ。宣長だって伊勢市にある反革命森林浴施設の神人組織に関する史料くらい目を通しているだろう。神とやらの神性を守る汚れ仕事を誰が引き受けてきたと思っているのだ。宣長のごときは、差別の構造のうえに学者ヅラしてえらそうにあぐらをかいていたにすぎない。差別者に死を。もう死んでいるか。中上も作家なら本くらい読め。
梅川は、『都市部落』の序文にこう書いている。
「私が市長として、時経て松阪市の歴史の上で回想されるのは、この二冊(『都市部落』『農村部落』:注)の書籍の出版によってであろうかとさえ苦笑しながら思ってる」
梅川のこの「苦笑」は、この迷惑きわまりない中上の戯言を予想していたかのようだ。
光と闇を同時に視ることが可能な神人=作家を自負する中上であるが、その目はたんなる節穴ではなかったか。
中上は水平社の創設者のひとり、上田音市に会いながら、梅川が労働組合・農民組合・水平社の「三角同盟」の最先頭でたたかい、3・15反革命で下獄した過去など知らなかったのだろう。
もっとも中上が出会ったころの上田は、部落解放同盟から離反し、1975年から「国民融合」をめざす日共系の部落問題全国会議代表の一員となっていた。
梅川が存命だったら、どんな立場をとっただろう。日共中央と「和解」して、「国民融合」運動に賛同していただろうか。病床にあって、三派全学連のエンタープライズ闘争に共感を示し、日共中央を批判した人だから、それは考えにくい。もちろん実際どうかはわからない。
おれが残念なのは、安吾と同年生まれで、同じく代用教員だった梅川がたたかいに飛び込んだきっかけが、被差別部落の生徒に出会ったことだったことを、中上が知らなかったことだ。
安吾が代用教員時代を振り返った「風と光と二十の私と」は、安吾ののこした作品のなかでも最も美しい作品のひとつである。特高警察の資料とはなるけれど、「風と光と二十歳の私」時代の梅川に関する記録を引用してみよう。
「三重県立宇治山田中学校卒業後松阪市尋常小学校代用教員を奉職したるが(中略)所謂改善地区の児童多数ありて、是等の児童の困難なる日常生活の状態を目撃し、或は其の父兄と直接接触して部落民の実情を知るに及び、痛く其の境遇に同情し、一面社会的に何等の救済施設無きは、全く現社会の欠陥なりと憤慨し、教職に在り乍ら大正十四年頃より水平運動、農民運動等に従事しつゝありしが、其間社会主義的書籍を繙読して、共産主義思想に感染し(以下略)」
(『特攻月報』内務省警保局保安課、一九四二年八月、一六八~一六九頁/尾崎康充『近代解放運動史研究 梅川文男とプロレタリア文学』和泉書院)
梅川は「路地に出会った安吾」なのだ。梅川はこの「出会い」をきっかけに、人間解放のたたかいに立ちあがり、生涯を捧げた。
梅川文男は、故郷の偉人である宣長の記念館建設に尽力したというだけのインテリ政治家、中上のいうたんなる「治者」「玩物喪志」の人ではなかった。
獄中で同志朝倉菊雄=島木健作に出会い、非転向のまま大阪刑務所を出獄した後は、『詩精神』の同人となり、「酒」「メッセーヂを託す──水平社の同志におくる──」「部落民文学について」などを発表したプロレタリア文学者であった。戦時下でも反戦闘争を継続し、日米開戦では戦争非協力者として再び投獄された。戦後は日共の分派闘争のなかで除名された後も共産主義を貫いた。三重県議・松阪市長のかたわら、新日本文学会三重県支部長としても活躍した。遺稿集『やっぱり風は吹くほうがいい』(盛田書店)の刊行にあたっては、同じく日共を除名された新日本文学会の中野重治が「先輩であり同僚」ということばを寄せている。
古い日共のことばを借りれば「真の愛国者」の名に恥じない、民族派共産主義者(これはおれの造語)であった梅川にとって、宣長記念館の建設ならびに宣長国学への傾倒は、戦没無名兵士の書簡集の刊行と同じく、封建制の綻びから生まれた革命的ブルジョア国学者であった宣長の魂を日本帝国主義の超国家主義から救済することであったにちがいない。
1965年、地方自治体の市長6人から成る「日本地方自治友好団」の団長として、梅川は文化大革命直前の中国視察旅行に出かけている。神戸生まれ・育ちの通訳の女性には、「『松阪の一夜』の松阪の市長さんですか」と話しかけられたという。これは懐かしさからのようだが(梅川は「年がバレるぞ」とからかっている)、中国の指導部にも、本居宣長が日本軍国主義イデオロギーの旗印だったことは、周知の事実だったらしい。北京放送局に招かれたときは、アジア部長なる人との面談で、松阪の市長であることを念押しされたうえで、「本居宣長は、今、日本でどのように評価されていますか」と真正面からの質問を受けている。
「私は、たぢろかず、誇りを持って、中国から来た、徳川期の哲学であり御用学問であった儒学、それに国学を対置した宣長の偉大さをたたえ、宣長研究が盛んであることを伝え、竹西寛子さんの労作『往還の記』や『新潮』連載の小林秀雄氏の論述を紹介した。相手はいくつかの質問を提起したが、素直にきいてくれた」
(『途方もない国』御茶の水書房)
宣長学は若い晩年のライフワークだったようだ。病床にあっても、「今日も“本居宣長”を読みつづける。宣長論理の矛盾や独断や行きづまりを宣長自身の論理で語らせようとするものだからむずかしい本になっている」(『病床日記』三月十九日)と鋭い批判を書きとめている。
こうした経歴を知ったうえで、梅川を批判しているなら、中上にも見どころがあるのだが、たんに知らなかっただけだろう。
しかし、中上のエッセイも、思わぬところで役立った。
「俺はしばらくの間、その城址をゆっくりと歩き廻った。公園に遊びに来ている人が、俺の顔を怪訝そうに眺めて通る。
どの顔も、どの顔も、幸せそう、悩みなんぞついぞ知らない。そんな顔が、俺を怪訝そうに眺め、汚れてなるものかとでも言う顔で子供の手を引っ張り逃れるように遠ざかる」
松阪生まれの先生の兄上の書いた「A LION AT BAY」という遺作の一節である。松阪城址の公園を訪ねた男の散文詩風の作品である。
このBAYは「湾」ではなく「猟犬の一斉の吠え声」のことで、「追い詰められたライオン」といった意味になる。明治のむかし、この英語を「湾頭に吠えるライオン」と訳して、のちにその誤訳を指摘されて、恥辱のあまり自殺した人がいたのだという。これは先生に兄上が語ったことで、ほんとうかうそかはわからない。
先生は、「陰気な檻の中に薄汚れたライオンが一匹、蹲って俺を見ている」という一文を引いて、「じっさいにいた月の輪熊をライオンに置き換えて、旅に疲れた男と、同じ鬱屈を抱える獅子との夢幻の交感を描く」と、別の著作でこの作品を紹介されている。城址公園には長生きした月の輪熊がいたようだ。主人公がこの世にさよならを告げて、睡眠薬を飲んだところで、「おい、どうしたのだ。俺の声が聞こえるか」と檻のなかのライオンが語りかけてくる。
しかし、中上健次の『紀州』によれば、松阪城址公園には月の輪熊のほかにもライオンもいたようなのである。ただし、いたのは雌ライオンだった。雌なのに、一人称は「俺」? まあ、女性の一人称が「俺」だって、おれはかまわないと思うけれどね(うちにもいるね)。
作品としての評価に、ライオンが実在したかどうかは、大した問題ではない。しかし地元ローカル紙に連載されたこのエッセイは、郷土史の資料としての価値も持つ。
『紀州』は『朝日ジャーナル』1977年7月1号から1978年1月20日号に掲載された。「松阪」は連載25回中の第15回。順当にいけば9月下旬発行の10月7日号だが、盆には合併号もあったろうし、休載の号もあったかもしれない。週刊誌の発行日は、実際の発行日より前だから、9月下旬から10月上旬に発行されたのだろう。逆算すると、中上が松阪を訪ねたのは、8月下旬から9月中旬だったであろうと考えられる。
ヒントになるのは、こんな文章だ。
「台風の影響の為、夜になると町中は急に温度が下がり、肌寒い。突風が吹く」
この台風は、8月18日に発生し、8月25日に消滅した台風7号ではなかったか。1977年の8月には、松阪公園には、ライオンはたしかにいたのである。
「松山城址のさまざまな光景を織り込んだ次兄の小説は、梶井基次郎の『城のある町にて』(一九二五)を多少意識して書かれたものに違いない」と書かれておられる。梅川文男が、代用教員として就職したのが、梶井の実姉、宮田冨士のいた松阪第二尋常小学校であった。
兄上は、意外に中上の『紀州』を読んだこともあるかもしれないと、おれは思った。
公園のライオンも、最初からメス一頭だったとは考えにくい。ライオンの寿命は15年から20年だという。それ以前にはつがいだった時期もあるだろう。この雌ライオンがいつ生まれて、いつ松阪に来たのかはわからない。仮に15歳としても、1963年夏には、1944年生まれの先生も、2歳年上の兄上も、高校を卒業して、松阪を離れておられる。
兄上や姉上たちの結婚式で、先生は城址公園にあった市民文化会館を訪ねておられる。長生きしたらしい月の輪熊も見る機会はあったのだろう。しかしライオンを見た記憶がない。
兄上のほうは、松阪に帰省のさいに、公園にお子さんを連れて行って、70年代には実在したライオンを見ていた可能性はある。先生にはお子さんはいらっしゃらない。おとなになると、特に男性は、こどもでもいないと、動物園に行く機会は激減する。しかし、弟先生同様、ライオンなど見ていなかった、すなわち中上の「ルポルタージュ」に触発された、あくまでも空想の産物だったという可能性も捨てきれない。
こんなふうに考えるのは、この作品には、『十九歳の地図』ならぬ『七十歳の地図』といったおもむきもあるからだ。もっとも、十九歳の若者には、地図にバッテンマークをつける楽しみがあったが、七十歳にはもうそんな元気は残っていない。
中上というより、中上が傾倒した吉本隆明? 『情況』によく似た文章があったぞと、思い出した。
「いい年をして〈公園〉のベンチに腰かけて、とりとめもないことを考えているときの心理は、平日の午前に映画館にはいったときの心理によくにている。……〈公園〉のベンチに腰かけて子供の遊びを見守りながらひなたぼっこや編みものなどをしている若い主婦たちをみて、彼女たちの貌に平安のかげをみたことがないように思う。のんびりしているようにみえるのはうわべだけで、なにかしら焦慮をおしかくしている。彼女たちからみると、わたしのほうがもっとひどい貌つきをしているにちがいない」(「修景の論理」)
ふむ。母子連れが出てくるところが共通しているだけで、そんなに似ていなかったね。ただ、『転位のための十篇』の「たとえ無数のひとが眼をこらしても/おれの惨劇は視えないのだ/おれが手をふり上げて訴えても/たれも聴えない」(「恋唄」)というアウトサイダーのおらびごえは通底している。
吉本は詩人としてはよい仕事もした。公園の母子へのまなざしは、アマチュア作家のそれより深く鋭い。
ただ、時代のちがいは大きい。『情況』が刊行されたのは1969年、『LION AT BAY』が発表されたのは2012年。40年以上の歳月が経っている。いまやスーツ姿であったとしても、公園でボーッとし座っているだけで、不審者として通報されておかしくない時代だ。現在の人生の敗北者は、公園にも映画館にも逃げ場所がない。公園の描写には、超監視社会の時代に古希を迎えた男のやりどころのない憤りのように感じる。後期吉本の書くものには、こうした「現在」に対する怒りや焦慮や緊張感など、とうに失われていた。
吉本はともかく、1976年に芥川賞を受賞した中上は、当時注目No.1.の作家であり、最後の「文学者」だった。あの中上がふるさとの松阪を訪ねたと聞いて、掲載号なり単行本を手にした可能性はあるのではないか。ただまあ、先生とは気が合い、本や映画の趣味も似ていたようだから、中上健次や吉本隆明の影響を受けたとは考えにくい。「ライオン」「公園」がキーワードになり、いまは省みることもなくなっていた、かれらのテクストを思い出させただけだ。
中上は宣長記念館を訪ねたあと、「松阪のもうひとつのウシ」に会うために食肉処理工場に「現場を見せてほしい」とアポなしで取材している。しかし工場はもう昼飯どきで、その日の仕事は終わっていた。
食肉工場の仕事が午前に終わるのを知らなかったのは仕方ない。アポ無しが自分のスタイルというのならそれもいいだろう。だったら、下調べくらいしていくべきではないのか。こんなものは、「ルポルタージュ」とはいえまい。
「もう一つのウシ」と中上はいった。松阪は二つのウシでもつという。ひとつは、「鈴屋の大人(うし)」本居宣長、いまひとつは松阪牛である。
鈴屋は鈴のコレクターだった宣長の書斎のこと。大人(うし)とは、なんだろう。古代にはウシは領主、支配者を意味し、そこから人の尊称になった。ただ早くに廃れ、復活したのは18世紀後半らしい。宣長ら国学の徒の手によってであろう。
『古事記伝』の宣長は一字一句に厳密な注釈を加えたが、この「ウシ」の語源や由来がわからない。岩波古語辞典で調べた。ウは「得(る)」、シは「お方」くらいの意味だということにしておく。シは古代には風のことだった。直訳すれば「風を手に入れしもの」。なんかかっこいいね。シは「風」から「方角」という意味が生じた。「ヒムガシ」(日に向かう方角)、「ニシ」「さらに古くはイニシ。去る方角)といったようにである。古代には。いまいまだって、人を直接名指すのではなく、「北の方」など。その人のいる方角で表すことはよくあっただろう。そこで、「得たお方」というわけである。古代には領地や人民を、近世には学問の奥義を。
これだけ調べるだけで一日つぶれ、パソコンが潰れてデータが消え、書き直したら今度はブログが不調で、たったこれだけで何日も寄り道してしまった。
最近……といっても2016年のはなしらしいが、松阪城址公園にライオンが復活したという。ただし、松阪発祥の三越から寄贈されたライオン像である。兄上を追うように亡くなった先生の姪御さんは、おれと同年代らしい。1970年代、松阪城址公園でライオンを見たかもしれないひとのブログかネット記事を探したのに、このライオンの銅像のはなししかヒットしない。とんだネット汚染である。この姪御さんは叔父先生に、大好物の土筆をおくるのが春の年中行事だったらしい。いまは土筆摘みがわが家の春の行事になっている。