「クローゼットで眠っている服をどうしたらいいのか、困ることはありませんか? そんなとき、なぜ処分できないでいるのか、その理由を考えてみると、残すもの、処分するものの見定めがつきますよ」
最近、ミドル世代の女性向けのおしゃれ手帖(レトロな響き)を手に取る機会がありました。
仕事の必要上読んだのですが、クローゼットの服の収納整理の話は、個人的にも興味深く読みました。蔵書整理に通じるものがあったからです。
この本の著者さんの場合、学生時代に必死にバイト代を貯めて買ったビンデージ古着は、今も宝物。現在は子育て中の母親でもあり、着る機会は激減したけれど、80歳になってもビンデージの似合うおばあちゃんになるのが夢。だから、これは絶対残したい。
しかし、会社員時代のスーツは、よく考えたらなつかしさから残していただけ。思い出に執着していただけで、別に手放しても悔いは残らなかった、と。
「なるほどなあ」と思いました。
服も本も、「ゴハンを食べても膨らまないところを少ーし膨らますこと」(蒼樹うめ『ひだまりスケッチ』6巻あとがき)は一緒ですね。
といっても、私の場合、ビンテージの古着にあたるような高価な本、稀覯本といわれるような本はほとんどありません。
しかし源氏物語について書いたときの参考文献・関連文献は、一冊一冊は入手しやすく古書価もつかない本ばかりですが、まとまることで、「量質転化」もあるかもしれません。
この源氏物語の仕事は、私の転機になりました。今は開店休業中とはいえ、ライターを廃業しない限りは、このコレクションは手放すことはないでしょう。
本にするには至っていませんが、10年連載を続けてきた浮世絵論の参考文献も然りです。
積読のビジネス書が、ファッションアドバイザーさんにとってのスーツに当たるのかもしれませんね。経営者の交代後、病気でラインを外れ、私はもう新たなビジネスに関わることはもうありません。これも処分しても後悔は残らないでしょう。
では、左翼本はどうか。若い頃読んだものが3〜400冊としたら、2000年代前半に、『革命のディスクール』を構想したときに収集したものがその3倍から5倍ある感じです。前者は「ビンテージ」ですが、後者は仕事用の「スーツ」です。
しかし、レーニン『ブハーリン著「過渡期経済論」評注』なんて見つけてしまうと、これはもう手放せませんよ。原文を抜き書きして、「素晴らしい!」「こっけいだ!」「このマッハ主義者め!」とメモを入れていく『哲学ノート』のスタイルがなつかしくなり、ついつい買い求めてしまったのです。
しかし、まあ、私のところにあっても宝の持ち腐れです。私より年下のSNSフォロワーさんに、現代古文書マニアの活動家がいるので、この本も含めて、いつか蔵書を譲渡しようかなと思っています。
服と本は、共通点も多いのですが、モノとしてのライフサイクルや使用頻度は異なります。
本は買ってから長い間積読でも、数年後に役立ったなんてこともざらにあります。服では、買って数年後に着るってケースは、あまりないですよね。
私のばあい、与謝野晶子の『源氏物語』がまさにそうでした。
奥付を見ると1993年の版ですが、私が『源氏物語』の仕事に着手した際に、全文目を通したのは2008年秋です。
実に買ってから読むまで、実に15年の歳月が経っています。
これが服なら、クローゼットに入れっぱなしで、15年目に日の目を見たなんてケースは、晴れ着を親から子へ、子から孫へ受け継ぐようなケースを除けば、ありえないのではないかと思います。衣服はモードも変われば体型も変わります。
1993年当時……あのころは町の本屋さんの在庫の回転も今ほど早くなかったので、翌年、または翌々年に入手した可能性もあるわけですが……の私が何を考えて、この本を買ったのか、思い出せません。無名のライターの自分も、「源氏見ざるは」とでも考えたのでしょうか。作家になる夢も捨てきれず、文学に色気や未練が残っていたのでしょう。
フーコーが図書館について語っていたように、背表紙を見せて本棚に居並ぶ、積読の書物たちは、黒鳥のように翼を折りたたんで虚空に羽ばたく日を待っているのでしょう。ただし、その日は、この書物たちが古書市場に還流していく、私の死後かもしれません。