愛知県の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」のうち、「表現の不自由」をテーマにした企画展は、慰安婦を象徴する少女像などの展示をめぐって脅迫電話などが相次ぎ、中止に追い込まれた。
そして、愛知県の国際芸術祭について、文化庁は、「事前の申請内容が不十分」だったとして、予定していたおよそ7800万円の補助金を交付しない方針を固めたという。
この補助金不交付は、全くもって不当なものだ。強く抗議したい。
NHKニュースの伝えるところによれば、文化庁は、「審査」の結果、
「申請者である愛知県は、開催にあたり、来場者を含め、展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず、事実を申告することなく、文化庁から問い合わせを受けるまで事実を申告しなかった」
と指摘しているという。何が「重大な事実」なのか。脅迫の対象になった少女像のことだろう。
愛知県がこの少女蔵が出展されることを知りながら、文化庁に申告しなかったことが、「審査の視点で重要な点である、実現可能な内容になっているか、事業の継続が見込まれるかの2点で、適正な審査を行うことができなかった」として、補助金を交付しないことにしたというのだ。
これは憲法第二十一条で禁じた「検閲」そのものだ。責められ、罰せさられるべきは、脅迫者たちであり、主催者でも芸術家でもない。
「政治的中立」を理由に、「公共施設」が会場の貸し出しや作品の展示を許さないことがしばしば起きている。今後は、戦争や人権をテーマにした「政治的」な集会や展示は、公共施設では許されないということにもつながる。
名古屋市の河村市長は、8月2日、会場を訪れたあと記者団に対し、「どう考えても日本国民の心を踏みにじるものだ。税金を使ってやるべきものではない」と述べ、この企画展の中止を求めた。
菅官房長官も、同日の会見で芸術際への国の補助金について、「事実関係を精査し、交付するかどうか慎重に検討する」という考えを示していた。まさに政府による検閲であり、弾圧そのものである。
まず河村市長は、「有権者」の政治的代理人であるのにすぎない。それなのに、勝手に「国民の心」とやらを僭称することは許されない。自治体の首長なら、自らの対立候補に投票した有権者も含めたすべての市民の代表者のはずである。この企画展の慰安婦像に怒るのも「国民」「市民」だが、この問題から国境や世代や性別を超えて連帯しようとする人たちも「国民」「市民」なのだ。一方の立場だけを代表することは許されない。
そして、河村市庁にも菅官房長官にも、
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」
という憲法九十九条に定める憲法遵守義務があるはずだ。
憲法は検閲の禁止を定めている。愛知県の大村知事は、「憲法違反の疑いが濃厚だ。公権力が『この内容はよくてこれはダメだ』と言うのは、検閲ととられても仕方ない」と河村市長を批判したが、全くそのとおりである。
日本ペンクラブは声明で、菅官房長官の発言について、「行政の要人によるこうした発言は政治的圧力そのものであり、憲法が禁じている『検閲』にもつながるものである」と抗議した。
「表現の不自由展」ばかりが注目を浴びたが、この芸術祭には125人もの国内外のアーティストが参加している(数え間違いもあるかもしれないので確認してほしい)。仮に、「表現の不自由展」に問題があったとしても、たった一つの企画展で、残り124人ものアーティストへの支援を打ち切るということなど、許されるわけがはない。
アーティストの多くは、政府や自治体、企業などの補助がなければ活動が成り立たない。アートだけで食べていける人は、ごく一握りだろう。この補助金不交付は、アーティストに政府と異なる思想や発言を許さないということだ。私はこうした立場の弱いアーティストの表現の自由を妨げるような弾圧や検閲を、絶対に許してはならないと思う。 優れた芸術には、心を穏やかにし、癒やすものもあれば、心を剔り、踏みにじるものもある。どらちらも私たちには必要なのだ。私のいいたいことは、この記事のタイトルに尽きる。
そして、愛知県の国際芸術祭について、文化庁は、「事前の申請内容が不十分」だったとして、予定していたおよそ7800万円の補助金を交付しない方針を固めたという。
この補助金不交付は、全くもって不当なものだ。強く抗議したい。
NHKニュースの伝えるところによれば、文化庁は、「審査」の結果、
「申請者である愛知県は、開催にあたり、来場者を含め、展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず、事実を申告することなく、文化庁から問い合わせを受けるまで事実を申告しなかった」
と指摘しているという。何が「重大な事実」なのか。脅迫の対象になった少女像のことだろう。
愛知県がこの少女蔵が出展されることを知りながら、文化庁に申告しなかったことが、「審査の視点で重要な点である、実現可能な内容になっているか、事業の継続が見込まれるかの2点で、適正な審査を行うことができなかった」として、補助金を交付しないことにしたというのだ。
これは憲法第二十一条で禁じた「検閲」そのものだ。責められ、罰せさられるべきは、脅迫者たちであり、主催者でも芸術家でもない。
「政治的中立」を理由に、「公共施設」が会場の貸し出しや作品の展示を許さないことがしばしば起きている。今後は、戦争や人権をテーマにした「政治的」な集会や展示は、公共施設では許されないということにもつながる。
名古屋市の河村市長は、8月2日、会場を訪れたあと記者団に対し、「どう考えても日本国民の心を踏みにじるものだ。税金を使ってやるべきものではない」と述べ、この企画展の中止を求めた。
菅官房長官も、同日の会見で芸術際への国の補助金について、「事実関係を精査し、交付するかどうか慎重に検討する」という考えを示していた。まさに政府による検閲であり、弾圧そのものである。
まず河村市長は、「有権者」の政治的代理人であるのにすぎない。それなのに、勝手に「国民の心」とやらを僭称することは許されない。自治体の首長なら、自らの対立候補に投票した有権者も含めたすべての市民の代表者のはずである。この企画展の慰安婦像に怒るのも「国民」「市民」だが、この問題から国境や世代や性別を超えて連帯しようとする人たちも「国民」「市民」なのだ。一方の立場だけを代表することは許されない。
そして、河村市庁にも菅官房長官にも、
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」
という憲法九十九条に定める憲法遵守義務があるはずだ。
憲法は検閲の禁止を定めている。愛知県の大村知事は、「憲法違反の疑いが濃厚だ。公権力が『この内容はよくてこれはダメだ』と言うのは、検閲ととられても仕方ない」と河村市長を批判したが、全くそのとおりである。
日本ペンクラブは声明で、菅官房長官の発言について、「行政の要人によるこうした発言は政治的圧力そのものであり、憲法が禁じている『検閲』にもつながるものである」と抗議した。
「表現の不自由展」ばかりが注目を浴びたが、この芸術祭には125人もの国内外のアーティストが参加している(数え間違いもあるかもしれないので確認してほしい)。仮に、「表現の不自由展」に問題があったとしても、たった一つの企画展で、残り124人ものアーティストへの支援を打ち切るということなど、許されるわけがはない。
アーティストの多くは、政府や自治体、企業などの補助がなければ活動が成り立たない。アートだけで食べていける人は、ごく一握りだろう。この補助金不交付は、アーティストに政府と異なる思想や発言を許さないということだ。私はこうした立場の弱いアーティストの表現の自由を妨げるような弾圧や検閲を、絶対に許してはならないと思う。 優れた芸術には、心を穏やかにし、癒やすものもあれば、心を剔り、踏みにじるものもある。どらちらも私たちには必要なのだ。私のいいたいことは、この記事のタイトルに尽きる。