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俺達に墓はない

2012年02月29日 | 革命のディスクール・断章
 きょうは忙しい。

 「エンゲルス歿後110年--将軍と酒と女」と題した未発表稿の一部をサルベージ。



 1895年8月5日、フリードリヒ・エンゲルス(1820-1895年)歿。

 エンゲルスに墓はない。エンゲルスの亡くなった頃は、ようやくキリスト教国でも火葬がスタートしていた。エンゲルスは自分の亡骸を火葬として、その灰を海に投じてほしいと遺言した。残されたものたちのあいだで、この遺言どおりにすべきかどうか問題が持ち上がった。ドイツの同志の多数は、墓と立派な記念碑を作ろうという考えを容易に棄てなかったからだ。しかし結局、遺言どおり、イギリス南部のドーバー海峡に面する風光明媚なイーストボーンの沖合いに散骨された。エンゲルスのお気に入りの土地だった。

 1820年、エンゲルスは紡績業で成功を収めたドイツ人資本家の長男として、バルメン・エルバーフェルト(現在のヴッパータール)に生まれた。

 エンゲルス家はライン地方でも相当な地位を占めた、裕福な家だったらしい。カルヴィン教徒を思わせる敬虔な新教徒だった父は、息子が商人になることを望んでいたらしい。1837年、エンゲルスはギムナジウムを中退し、ブレーメンで商人修業にはいる。

 3年間の商店勤務だったが、エンゲルスはこの環境から脱け出ようとした。ハインリッヒ・ハイネやルートヴィヒ・ベルネ、3月革命に影響を与えた自由主義的な文学潮流に感化を受けて、「オスワルド」の変名で19歳で著述家としてスタートする。この最初の諸論文は世評の的になったといわれる。幼年時代をすごした宗教的環境を完膚なきまでに罵倒するものだったという。

 1841年、エンゲルスは20歳でベルリンの近衛砲兵隊に志願兵として入隊する。このとき、ベルリン大学で聴講して、青年ヘーゲル派の団体に加盟した。マルクスは当時、大学教授をめざして研究に没頭していたが、すでに論壇にデビューしていたエンゲルスは、オスワルドの変名でめざましい活躍をした。

 この当時のベルリンには、おおぜいのロシア人も留学していた。そのなかにバクーニンもいた。「破壊願望は創造的欲求でもある」という有名な箴言で結ばれる「ドイツにおける反動」は、1842年、青年ヘーゲル派の『ドイツ年誌』に発表されたものである。後に、マルクス主義の「天敵」とされるバクーニンだが、この両者の対立は、共産主義・無政府主義とたんじゅんに割り切れるものではない。1842年、ヘーゲルの論敵シェリングを攻撃したエンゲルスの小冊子が、長い間、バクーニンの著作だと思われていたというエピソードもある。英雄は熱烈な火のごときジャコバン、歌う歌はマルセーズ、合言葉はギロチン。エンゲルス22歳、「破壊の使徒」バクーニンに負けない極左青年だった。

 このベルリン・ヘーゲル左派は、一昔前のことばでいえばまさしくカウンター・カルチャー世代だった。彼らは「自由恋愛」--保守派の俗物にいわせれば良家の子女をたぶらかし、金銭を貢がせ--に励み、往々にして路上で物乞いをしたともいわれる。マックス・シュティルナー(『唯一者とその所有』)の結婚式には、こんなエピソードが伝わっている。新郎新婦は教会へ出向かず牧師を下宿に呼びつけたが、しかし牧師が着いた頃には全員酩酊状態。結婚指輪の授受の段になって指輪を準備していないことに気づく始末。そこでブルーノ・バウエルが自分がはめている指輪を外して牧師に手渡し、めでたく儀式がすんだのだそうだ。

(2005.8.5)

【参考文献】
『マルクス・エンゲルス傳』 リヤザノフ(南宋書院)
『青年マルクス論』 廣松渉(平凡社)



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