『黒死館殺人事件』の話を少しした。今にして思えば、初見の衝撃は、あの変態ルビの叛乱による眩暈の効果が半分以上だった。いや、氾濫か。
振り仮名は何でも日本語に仕立てる味の素のようなもの。EPUB3では縦書きもルビもサポートされた。まずはめでたかった。しかし、ITメディアの側に、本当はそんなローカルな機能はいらないよ、という意見もある。それが仕様なんだと。
その言い分もわかる。しかし顔文字だって「こう読んでね」という振り仮名の一種ではないのか。(棒)とか(笑)というのもそうですね。わが日本語症候群患者は、振り仮名があることで、真名と仮名、外的自己と内的自己に引き裂かれ、メビウスの輪のように錯綜したアイデンティティクライシスを軽減しているのであった。振り仮名には、そうした薬用成分もある。
縦書きもあえて眼球の運動と反対にすることで、思考の速度と言葉の速度を同期させてきた(ソースはたぶん三浦つとむ『弁証法とはどういう科学か』)。これは日本語で仕事していくのなら忘れてはならないこと。
(でも活版好きだよ活版)
振り仮名は何でも日本語に仕立てる味の素のようなもの。EPUB3では縦書きもルビもサポートされた。まずはめでたかった。しかし、ITメディアの側に、本当はそんなローカルな機能はいらないよ、という意見もある。それが仕様なんだと。
その言い分もわかる。しかし顔文字だって「こう読んでね」という振り仮名の一種ではないのか。(棒)とか(笑)というのもそうですね。わが日本語症候群患者は、振り仮名があることで、真名と仮名、外的自己と内的自己に引き裂かれ、メビウスの輪のように錯綜したアイデンティティクライシスを軽減しているのであった。振り仮名には、そうした薬用成分もある。
縦書きもあえて眼球の運動と反対にすることで、思考の速度と言葉の速度を同期させてきた(ソースはたぶん三浦つとむ『弁証法とはどういう科学か』)。これは日本語で仕事していくのなら忘れてはならないこと。
(でも活版好きだよ活版)
はい。それは確かにあったと思います。小林秀雄訳ランボオ「地獄の季節」を読んだときもそう思いました。
いまちょっと心配なのは文体です。またもや日本は西洋中心主義に陥っているような気がします。
支配的なのは「新書」文体。ついで「ハウツー本」文体。両者には重なるところが多分にあるのでは?しかも危険な。
「文体を改善すること──これは思想を改善するということであって、およそそれ以上のものではない」(ニーチェ「漂泊者とその影・一三一」)
「『小さな欠陥』などは考慮のうちに入らない」(「生成の無垢・下・八一」)
>活版
いいですねえ。
「反乱」ならまだしも、「叛乱」が先かー。氾濫のつもりだったけど、ま、いいことにしよう。
>支配的なのは「新書」文体。ついで「ハウツー本」文体。両者には重なるところが多分にあるのでは?しかも危険な。
自己啓発や勉強ブームもそうですね。不安解消ビジネス。まさしく現代の宗教=阿片。マルクス・エンゲルスの時代の産業病は結核でしたが、ITの時代の産業病は精神疾患だというのと通じると思います。ブログ拝見して、たしかに90年代が転機でした。
Facebookなんか見ていると、不幸な気持ちになるんだそうですよ。他人はみんな笑顔で、仕事も順調、家族は笑顔、オフも充実と。新訳も出たネグリとガタリの共著『自由の新たな空間』のことばですが、他人の真実には無関心なのにそれでも対人関係に苦しみ続けるという絶望の個人化。あと、映像メディアはテレビや映画だけだったのが、PCにゲーム、携帯端末と増殖しましたね。透過光メディアが脳に与える疲労やストレスも相当なものだと感じています。