ゾルゲ事件論の(1)はこちら。
1941年10月15日、尾崎秀實逮捕される(ゾルゲ事件)。
「十五日(水)
尾崎は午前六時には朝食を済ませて、朝日の差しこむ書斎にくつろいで読書に耽っていた。それは、中国で命を落としたベテラン報道員が、死の直前の心境を記した感動的な書物だった。
そのとき、廊下を踏み鳴らす騒々しい足音が聞こえた。尾崎にはすぐにぴんときた。もう何日も前から、彼はこの早朝の出頭命令を薄々予感していた。彼は驚くほど落ちついて本を置くと、高橋与助警部率いる特高の刑事たちを迎えた。」(『ゾルゲ 引き裂かれたスパイ』 R.ワイトマン)
尾崎秀實は「楊子は学校へ行ったか」と子供がこの場に居合わせなかったことを確かめている。最後に妻に別れのことばもかわさずに家を出た。
12日の日曜日にすでに予兆はあった。休日に娘の楊子に絵のレッスンに来ることになっていた宮城与徳が、姿を見せなかったのである。この絵のレッスンは、ふたりが秘密活動の打ち合わせを行う、格好のカモフラージュになっていた。尾崎は不審に思ったが、まさか宮城がこの前日に逮捕されて、すべて自白しているとは思いもしなかった。
13日、今度は、満鉄ビル6階のレストラン・アジアで約束していたゾルゲが姿を見せなかった。ゾルゲは約束の日を水曜、つまり尾崎が逮捕されたこの日と勘違いしていたのである。ゾルゲはこの日夕方6時ごろ、自宅を訪ねてきたクラウゼンと〈エンタク〉を拾って、満鉄ビルに向かった。ふたりはしばらく待っていたが、ついに〈オットー〉は現れなかった。
そのころ、尾崎は自宅から遠くない目黒署の取調室にいた。尋問は予想通り、ゾルゲとの関係についてだった。はじめ尾崎は諜報網については何も知らないと言い張った。しかし警察により、諜報網の全貌はすべて明らかにされていることを知る。「すべては終わった」と尾崎は呟いたという。そして真夜中近くに、調書の作成に同意した。
記事の差し止めが解かれて、ゾルゲ事件が〈コミンテルン・スパイ団一斉検挙〉という司法省発表が報道されたのは、翌年の5月17日である。逮捕者に、尾崎に情報をもたらした西園寺公一(きんかず)、犬養健(たける)ら、近衛側近の上層階級の人びとが連座したことは、当時の国民に強い衝撃を与えた。
「西園寺一族のような、社会の最上層部の人間がからんでいたとは許し難い」(群馬県・予備役軍人)。「日本人の知識階級の人士が介在していたとは一層驚いた」(小樽在郷軍人会副会長)。また戦争で夫を亡くした女性はこう発言した。
「あの方たちは、帝国の兵士を背後から撃ったも同じです。あの方たちは、昭和八年からこの種の活動に携わっていたそうですが、身内を奪われた人間の一人として言わせてもらえば、こうしたことを企てた人たちがいたために、夫のいた戦線は敗れて夫も戦死したのです。少しは反省していただきたい」
この女性の夫は、中国の戦線で戦死したのだろう。ゾルゲ・グループの使命は日本の対ソ戦略の解明であり、中国戦線には直接関係はない。しかし、尾崎が中国問題の権威だったことから、こうした非難を受けることになったのだろう。事件が発覚する一年前、『支那社会経済論』の序文に、尾崎はこう書いている。
「支那事変が始まつてからまさに三年に垂んとしてゐる。我々支那問題を仕事の直接対象とするものにとつては、少しく誇張した云ひ方に聞こえるかもしれないが従軍してゐるといつてもよい位のあわたゞしい状態にある。これはある意味従軍記であり、観戦記であると云つてもよからうと思ふのである。その気構へと感覚の上において自ら異なるものをも含んでゐることと信じてゐるのである。」(『支那社会経済論』 1940年6月刊)
そう、尾崎秀實はまさに「従軍」しており、「自ら異なるもの」を含んでいた。日華事変が侵略戦争であることは、当時の知識人には常識に属することであった。しかしこの認識の論理や倫理は、「満州生命線論」の実感的な強さに、有効な対抗戦略を打ち出すほどには強くはなかった。戦争やファシズムへの嫌悪や恐怖は存在したが、天変地異のようにどうすることもできないものとして受けとめられるにすぎなかった。
ゾルゲの最初のモスクワへの主要報告は、二・二六事件に関する研究である。
ゾルゲは二・二六事件における皇道派・統制派の対立ばかりか、忠臣蔵との関連についても正確に理解していた、数少ない欧米人の一人だった。ゾルゲのモスクワへの最初の主要報告は、この蜂起の研究である。新聞記者として書いた論文「東京における陸軍の叛乱」も、筆者がゾルゲであることを知らずに、『プラウダ』紙上で絶賛されるというハプニングもあった。
ゾルゲの情勢分析は次のようなものだった。日本政府は、二・二六事件の余波に対処することができる二つの道があった。政府は、社会改革を導入しながら、同時に陸軍に厳しい規律を課すか、そうでなければ永久膨張の政策をとるかのいずれかであった。
この『永久膨張』という言葉は、ゾルゲの造語だ。トロツキーの『永久革命』という言葉から思いついたと語っているところが注目に値する。
ゾルゲのいう日本の「永久膨張」の方向が中国であるかロシアであるかが、モスクワにとって最も重要な問題であった。日本が選んだのは、ゾルゲの予測したように第二の道=中国侵略戦争であった。
中国侵略はすでに解決不能な局面に来ていた。この戦争は当然、永久戦争になるだろう。尾崎の「大東亜共同体」の構想は、日本帝国主義の永遠膨張の歴史局面にコミットした、その脱構築をはかる永久革命論の試みではなかったろうか。『支那社会経済論』では、ウィットフォーゲルの「この大きな人民は、ヨリ良き未来へ向ふ行進において、よし遅滞することはあらうとも、停止せしめることはできない」ということばを引用して、次のようにいう。
「支那事変がいかなる形をとつて終結するか、その予想は今日何人にとつても困難なものであらう。だがいづれにせよ、それは世界自体の変革期の動乱の圏外に立ち得るものではないといふこと、次に数千年来殆ど変化することなき単調な再生産を繰りかへして来ただが、支那社会は崩壊するであらうか舊き(ふるき)支那社会が確実に解体期に入つてゐるといふ、二つの絶対的な條件下に行はれるであらう。舊支那社会の解体はそれを促進した要因が内にあると外にあるととはず、最後には内部の新らしい力となつて一定の方向に動かうとするものであるといふことを知る必要がある。
東亜における新秩序創設の理想は、事変二年目頃から、事変の重大性に真剣に目ざめた日本人の間に高く掲げられ始めた。東亜協同体の如きやゝ具体的な提案もなされてゐるのである」
ウィットフォーゲルのアジア的生産様式=停滞したアジアというアジア観・歴史観は、今日の視点からは、それ自体、「遅れて」おり「停滞」したものにすぎまい。しかし、帝国主義の侵略イデオロギーを「アジアの解放」に結びつける知識人の自己欺瞞を、尾崎はさらに逆用しようとしていたのではないだろうか? 「支那における資本主義の発達」という章をはじめ、尾崎の中国経済社会論は、今も読むに値する。検閲に配慮してことばは慎重に選ばれているが、当時最高水準のマルクス主義の知性によって初めて可能な情勢分析ではないかと、私には思われる。
〈オットー〉が逮捕された日、ゾルゲはソ連に戻るかドイツに配置換えを希望する手紙を書いている。危険が身辺に迫っていることを感じていたからではない。すでに日本に対ソ参戦の意志がないことが判明した以上、これ以上日本にとどまる意味はないというのが、表向きの理由だった。しかしそれ以前に、すっかり日本での任務に嫌気がさして、精神のバランスを崩していたのだ。
しかし、この電文は、結局モスクワに打電されることはなかった。ゾルゲは無線通信担当のクラウゼンの手元からこの原稿を引きあげたためだ。10月16日に入った近衛内閣退陣のニュースを伝える必要があったからだ。この異動希望書は、ゾルゲの逮捕後の家宅捜索で自宅から発見された。
(2005.10.15)
【参考文献 ゾルゲ事件関連】
『支那社会経済論』 尾崎秀實(生活社)*
『生きているユダ』 尾崎秀樹(角川文庫)
『ゾルゲ 引き裂かれたスパイ』 R.ワイトマン/西木正明訳(新潮文庫)
『ゾルゲ追跡』 F.W.ディーキン+G.R.ストーリィ/河合秀和(岩波現代文庫)
『真空管の伝説』 木村哲人(筑摩書房)
1941年10月15日、尾崎秀實逮捕される(ゾルゲ事件)。
「十五日(水)
尾崎は午前六時には朝食を済ませて、朝日の差しこむ書斎にくつろいで読書に耽っていた。それは、中国で命を落としたベテラン報道員が、死の直前の心境を記した感動的な書物だった。
そのとき、廊下を踏み鳴らす騒々しい足音が聞こえた。尾崎にはすぐにぴんときた。もう何日も前から、彼はこの早朝の出頭命令を薄々予感していた。彼は驚くほど落ちついて本を置くと、高橋与助警部率いる特高の刑事たちを迎えた。」(『ゾルゲ 引き裂かれたスパイ』 R.ワイトマン)
尾崎秀實は「楊子は学校へ行ったか」と子供がこの場に居合わせなかったことを確かめている。最後に妻に別れのことばもかわさずに家を出た。
12日の日曜日にすでに予兆はあった。休日に娘の楊子に絵のレッスンに来ることになっていた宮城与徳が、姿を見せなかったのである。この絵のレッスンは、ふたりが秘密活動の打ち合わせを行う、格好のカモフラージュになっていた。尾崎は不審に思ったが、まさか宮城がこの前日に逮捕されて、すべて自白しているとは思いもしなかった。
13日、今度は、満鉄ビル6階のレストラン・アジアで約束していたゾルゲが姿を見せなかった。ゾルゲは約束の日を水曜、つまり尾崎が逮捕されたこの日と勘違いしていたのである。ゾルゲはこの日夕方6時ごろ、自宅を訪ねてきたクラウゼンと〈エンタク〉を拾って、満鉄ビルに向かった。ふたりはしばらく待っていたが、ついに〈オットー〉は現れなかった。
そのころ、尾崎は自宅から遠くない目黒署の取調室にいた。尋問は予想通り、ゾルゲとの関係についてだった。はじめ尾崎は諜報網については何も知らないと言い張った。しかし警察により、諜報網の全貌はすべて明らかにされていることを知る。「すべては終わった」と尾崎は呟いたという。そして真夜中近くに、調書の作成に同意した。
記事の差し止めが解かれて、ゾルゲ事件が〈コミンテルン・スパイ団一斉検挙〉という司法省発表が報道されたのは、翌年の5月17日である。逮捕者に、尾崎に情報をもたらした西園寺公一(きんかず)、犬養健(たける)ら、近衛側近の上層階級の人びとが連座したことは、当時の国民に強い衝撃を与えた。
「西園寺一族のような、社会の最上層部の人間がからんでいたとは許し難い」(群馬県・予備役軍人)。「日本人の知識階級の人士が介在していたとは一層驚いた」(小樽在郷軍人会副会長)。また戦争で夫を亡くした女性はこう発言した。
「あの方たちは、帝国の兵士を背後から撃ったも同じです。あの方たちは、昭和八年からこの種の活動に携わっていたそうですが、身内を奪われた人間の一人として言わせてもらえば、こうしたことを企てた人たちがいたために、夫のいた戦線は敗れて夫も戦死したのです。少しは反省していただきたい」
この女性の夫は、中国の戦線で戦死したのだろう。ゾルゲ・グループの使命は日本の対ソ戦略の解明であり、中国戦線には直接関係はない。しかし、尾崎が中国問題の権威だったことから、こうした非難を受けることになったのだろう。事件が発覚する一年前、『支那社会経済論』の序文に、尾崎はこう書いている。
「支那事変が始まつてからまさに三年に垂んとしてゐる。我々支那問題を仕事の直接対象とするものにとつては、少しく誇張した云ひ方に聞こえるかもしれないが従軍してゐるといつてもよい位のあわたゞしい状態にある。これはある意味従軍記であり、観戦記であると云つてもよからうと思ふのである。その気構へと感覚の上において自ら異なるものをも含んでゐることと信じてゐるのである。」(『支那社会経済論』 1940年6月刊)
そう、尾崎秀實はまさに「従軍」しており、「自ら異なるもの」を含んでいた。日華事変が侵略戦争であることは、当時の知識人には常識に属することであった。しかしこの認識の論理や倫理は、「満州生命線論」の実感的な強さに、有効な対抗戦略を打ち出すほどには強くはなかった。戦争やファシズムへの嫌悪や恐怖は存在したが、天変地異のようにどうすることもできないものとして受けとめられるにすぎなかった。
ゾルゲの最初のモスクワへの主要報告は、二・二六事件に関する研究である。
ゾルゲは二・二六事件における皇道派・統制派の対立ばかりか、忠臣蔵との関連についても正確に理解していた、数少ない欧米人の一人だった。ゾルゲのモスクワへの最初の主要報告は、この蜂起の研究である。新聞記者として書いた論文「東京における陸軍の叛乱」も、筆者がゾルゲであることを知らずに、『プラウダ』紙上で絶賛されるというハプニングもあった。
ゾルゲの情勢分析は次のようなものだった。日本政府は、二・二六事件の余波に対処することができる二つの道があった。政府は、社会改革を導入しながら、同時に陸軍に厳しい規律を課すか、そうでなければ永久膨張の政策をとるかのいずれかであった。
この『永久膨張』という言葉は、ゾルゲの造語だ。トロツキーの『永久革命』という言葉から思いついたと語っているところが注目に値する。
ゾルゲのいう日本の「永久膨張」の方向が中国であるかロシアであるかが、モスクワにとって最も重要な問題であった。日本が選んだのは、ゾルゲの予測したように第二の道=中国侵略戦争であった。
中国侵略はすでに解決不能な局面に来ていた。この戦争は当然、永久戦争になるだろう。尾崎の「大東亜共同体」の構想は、日本帝国主義の永遠膨張の歴史局面にコミットした、その脱構築をはかる永久革命論の試みではなかったろうか。『支那社会経済論』では、ウィットフォーゲルの「この大きな人民は、ヨリ良き未来へ向ふ行進において、よし遅滞することはあらうとも、停止せしめることはできない」ということばを引用して、次のようにいう。
「支那事変がいかなる形をとつて終結するか、その予想は今日何人にとつても困難なものであらう。だがいづれにせよ、それは世界自体の変革期の動乱の圏外に立ち得るものではないといふこと、次に数千年来殆ど変化することなき単調な再生産を繰りかへして来ただが、支那社会は崩壊するであらうか舊き(ふるき)支那社会が確実に解体期に入つてゐるといふ、二つの絶対的な條件下に行はれるであらう。舊支那社会の解体はそれを促進した要因が内にあると外にあるととはず、最後には内部の新らしい力となつて一定の方向に動かうとするものであるといふことを知る必要がある。
東亜における新秩序創設の理想は、事変二年目頃から、事変の重大性に真剣に目ざめた日本人の間に高く掲げられ始めた。東亜協同体の如きやゝ具体的な提案もなされてゐるのである」
ウィットフォーゲルのアジア的生産様式=停滞したアジアというアジア観・歴史観は、今日の視点からは、それ自体、「遅れて」おり「停滞」したものにすぎまい。しかし、帝国主義の侵略イデオロギーを「アジアの解放」に結びつける知識人の自己欺瞞を、尾崎はさらに逆用しようとしていたのではないだろうか? 「支那における資本主義の発達」という章をはじめ、尾崎の中国経済社会論は、今も読むに値する。検閲に配慮してことばは慎重に選ばれているが、当時最高水準のマルクス主義の知性によって初めて可能な情勢分析ではないかと、私には思われる。
〈オットー〉が逮捕された日、ゾルゲはソ連に戻るかドイツに配置換えを希望する手紙を書いている。危険が身辺に迫っていることを感じていたからではない。すでに日本に対ソ参戦の意志がないことが判明した以上、これ以上日本にとどまる意味はないというのが、表向きの理由だった。しかしそれ以前に、すっかり日本での任務に嫌気がさして、精神のバランスを崩していたのだ。
しかし、この電文は、結局モスクワに打電されることはなかった。ゾルゲは無線通信担当のクラウゼンの手元からこの原稿を引きあげたためだ。10月16日に入った近衛内閣退陣のニュースを伝える必要があったからだ。この異動希望書は、ゾルゲの逮捕後の家宅捜索で自宅から発見された。
(2005.10.15)
【参考文献 ゾルゲ事件関連】
『支那社会経済論』 尾崎秀實(生活社)*
『生きているユダ』 尾崎秀樹(角川文庫)
『ゾルゲ 引き裂かれたスパイ』 R.ワイトマン/西木正明訳(新潮文庫)
『ゾルゲ追跡』 F.W.ディーキン+G.R.ストーリィ/河合秀和(岩波現代文庫)
『真空管の伝説』 木村哲人(筑摩書房)