雨になったりすると蒸し暑さでムッとします。あぁ・・梅雨に入ったんだなぁと思うと、この次に来る夏が怖いくらいです。
亭主は毎日クー太郎のいない空虚な気持ちを言葉にしますが、家族は誰もそれに対して言う事がありません。娘はひたすらそのことなどは言いません。毎日お水を取り替えてお花を添えクー太郎の好きだった餌をお供えしたりしながら淡々として仕事に行きます。ワタシは毎夜ただ祈ります。天国に行けますように。
でも、こうしてブログに向かうとやっぱり涙が出ます。
あんまり悪い子だった時はゴツンとひっぱたいたりしたくせに、尻尾を踏んでしまった時にクー太郎に叱られたり齧られたりして、あ、ご免ご免と謝ったりした自分で・・・愛おしそうにクー太郎は自分の尻尾を嘗めたりして自分を癒し、暫くは触れませんがそれ以上はワタシを責めませんでした。
毎日撫でて欲しいと亭主の前に姿勢を正して座っておねだりすると、亭主は人に話すようにクー太郎と話すのです、今日はもうこれで三回目だからやらないとか、まだ必要か?とか・・・夕飯を終えるとクー太郎は息子を呼びに来ます。息子に撫でてもらいたいからで、それらは毎日の日課となっていました。なんて我儘で勝手な自己主張をするのだろう、と家族がやいのと言っても我関せずのマイペースで、水が欲しくなるとワタシに必ず水を入れ替えて欲しいと意思表示をする・・毎回新しい水が欲しいのです。
庭に雀が来るとえもいわれぬ優しい声で囁くように鳴きます。我が家には文鳥が居た時期がありました。クー太郎はその文鳥たちにも優しく声かけるのですが、娘が冷たく言うのは「いいが?おめたちを食ってもいいが?」と言ってるんだと家族を笑わせたり怖がらせたりするのでしたっけ・・・
クー太郎が汚した場所の毛だらけの寝床や敷物を捨てる時に此処にもよく居たねぇと思い出します。
丸くなって眠り、時に体を思いっきり伸ばし、手足も伸ばし大口を開けて欠伸をし、床暖に誰もいなくなるとゴロンゴロンと寝ながら転げて嬉しそうにしてり・・たまにドジって高い場所から滑り落ちたりすると、照れ隠しのように手を嘗めたりしながらそ知らぬふりをして周りをごまかすのですが、それが可笑しくてねぇ~・・・猫でも失敗すると何気に恥ずかしいんだなぁとかね・・・笑えてしまうことも一杯ありました。猫のくせになぁ~と思わずこちらも見てはいけないふりをします。
猫には3歳児程度の知能が働くらしいと聞いたことがあります。人なら3歳児はベビーギャングの時代です。
何だか何気に居ないという空虚感を感じながらもその都度色々なことを思い出したりします。
一般的にはペットです。でも我が家には明らかに家族の一員でした。
ブログも、本当はもういつ止めてもいいのですけど、時々思い立った時に書きたいなと思う時にだけ・・・も少し続けようかとも思います。
決めてはいません。
自分もそんなことを思う、そういう年代になったという事です。
そして、昨日は太極拳の我がチームのみで、ある講習を受けました。
正しく歩くこと、姿勢について・・・パシュート選手だった横山さんという先生を迎えて教えていただいたことですが、長年太極拳を続けていますが、それで分かったことや発見が自分の予想と同じだったことも昨日あらためて分かったこと、自分の体の癖についてもどこがオカシイのかも分かったこと・・・これは大きな再確認となりました。そして、それは自分にとっては嬉しいことで大きな意味があった。
「緩むこと」「体に力を入れない」「足裏を常に意識して重心を丹田に」の姿勢は大事。
いつか自分も逝くのですが、それまでは自分の足で歩きたいと、再び思った。外側の筋力よりも内側のマッスルは緩むことでしか解放できない。関節の稼働率を高める為には緩むこと・・・太極拳も整体だと思っていましたが、太極拳にも昨日と同じ要求がある。緩むこと。足裏。力まない。人は実は力の限りに頼って生きているの止めてダラダラと緩むことにしましょう・・・と。
クー太郎の動きも実にそれでした。
今日はそんなことを思ったりしています。
追伸、
コメントをくれた皆様に。
クー太郎を悼んでくれてありがとうございます!
でも、レスを書く気力はまだありません・・・ご容赦くださいませ。感謝しております。本当にありがとう。