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誉田天皇の元の名前ではないか?  歴史の中の経緯・59

2023年10月30日 | 歴史の中の「経緯」

またも、話がもどってしまうが、

魏志倭人伝の中

簡単に表現すると

ー卑弥呼がおっちんじまったときによ、

どえりゃあ、でかい墓をつくって、100人ほど一緒にうめくさったでよぅー

と、いう内容がある。

この100人ほどというのは、まず、ありえない。

(以前書いたように、秦の始皇帝などの墓の様子他が

おえらいさんは、墓に殉死者・殉葬者を埋めるという風聞を生んだ)

(あるいは、エジプトをでたヘブライ人などの話)

*****

どこかで、秦の始皇帝は出エジプトのユダヤ(ヘブライ人)の血を引いている。

と、いうかなり直系っぽい話が書かれていたことがあったが

日本人の感覚でいうと

自分がえらい目にあっていて、

それとおなじようなことを行うだろうか?  なのである。

(まあ、死んでからなので、周りが勝手にやったのかもしれないがwww)

この辺りからも

ヘブライ人が入ってきたのは事実かもしれないが

ヘブライ人の血をわけた始皇帝という考え方は疑問である。

******

もう一つ、これは、

「ねずさんのひとりごと」からなのだけど、

天皇陵のあの大量の盛土は、

田んぼの整備のためにでてきた、残土である。

と、いうもので、

つまり、墓を作るために墓を作ったのではないということになる。

民の暮らしが立ち行くように

土地を開梱し、余った大量の残土を丘にし、水田の為に

掘をつくり、水を確保する。

ここが、元で、

あとは、たぶん、

ーとは、いえ、あの残土もこまったものじゃないのか?-

と、なった時

皆が汗水流し、集めてきた土なのだから、

ありがたい場所であるし、私が死んだらここで、

この地の繁栄を見守ろう。

と、残土についても、始末?役目ができる。

こう考えたら

全く、殉葬を必要とする墓を作ったわけでない。

なので、卑弥呼の殉葬者100人は有りえない。

墓もへたをすると、

応神天皇の分を誤解したと考えられる。

その応神天皇の名前

誉田天皇なのである。

 

なにか、ややこしく

(ほむだ)は鞆のことであり、と、書かれている。

それは、誉田別皇子の時のはなしで

天皇になってみれば

立派な「田」をつくったので、

(天皇陵の話から)

ほむだ(鞆)別皇子だったが、

天皇になってからは

誉田天皇であった。

ならば、持って生まれた名前の通りであるともいえる。

ほむだ(鞆)別皇子から、

誉田天皇に名前を変えよう(文字を変えよう)という事になったのではなかろうか?

 

あとから、気比神宮のイザサワケとの

「な」の交換を「名」の交換と考えられるようになったのだろうし、

あまりにも、堂々とでているから、みおとしがちであるが

イザサワケ  ワケの名前が入っている処から

天皇後継者と考えられる。

だとすると、

ずばり、誉田天皇の元の名前ではないかとも思える。

 

年代的に考えても、神功皇后の子供が

誉田別皇子であるとは思えない。

200年にうまれて110歳まで生きているし、

仲哀天皇崩御後70年ちかく神功皇后が摂政をにぎっていたのも

奇妙に思う。

この70年の天皇不在の間に、いろいろあっただろう。

 

むしろ、実際にはいなかった神功皇后の子供が

いかにも、いたように見せる演出であったかもしれない。

また、別に誉屋別皇子がいたので、

もしかすると、こちらが、イザサワケで、

誉屋別皇子は

神(気比大神)と名前を変えた=

神の世界の人になった。

(すなわち、死亡?あるいは、存在痕跡消去)

 

このあたりは、

神功皇后が卑弥呼だったと考えたらの処で

書いているので、省く。

(正確には、神功皇后が魏では、卑弥呼と呼ばれたのなら)

 

天皇家の血筋をどうこう、いうつもりではないが、

神功皇后と武内宿祢の子供が応神天皇だという考え方は

うけいれがたい。(個人的にだけどww)

この70年の間に何があったか判らないところだけれど

纏向遺跡などのことを考えると

天皇という地位は確立していたと考える。

 

うっかり、天皇の血筋でないものがはいってくるとは、

考え難い。

武内宿祢も天皇血筋だという話もあるが・・

むしろ、後からの粉飾にも思えて仕方がない。



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