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八百万の神の二面性が育てたもの  歴史の中の経緯・22

2023年10月23日 | 歴史の中の「経緯」

ねずさんのひとりごとを読んでいると、

不思議と高橋の言葉にたどり着いてしまいます。

********

古事記には、有名なイザナキ、イザナミの神話があります。
ご存知の方は、そのラストシーンで、半狂乱になって黄泉の国から追いかけてきたイザナミが、千引岩を挟んで夫のイザナキと対峙したときの対話です。

ミ「愛しき我が夫の命(みこと)よ、お前がこのようなことをなさるなら、私は汝の国の人草を一日に千人絞(くび)り殺しましょう」

キ「愛しき我が妻よ、おまえがそうするなら私は一日に千五百の産屋(うぶや)を建てよう」

女性が半狂乱になって追いかけてくるシーンばかりが強調されているようですが、この会話が重要です。
イザナミは「毎日千人殺す」と言っています。
そう言われたら、普通はどうするでしょうか。

たとえばISがが「日本でこれから毎日千人殺す」と言ってきたら、どうするでしょうか。
そういう設問なのです。
普通なら、「おい、やめてくれ!」と懇願するか、怒鳴るか、千引岩を開けて黄泉の国へ攻め込むか、つまり相手に軍事的制裁を加えるか。
そんな選択しかないと思います。

けれど古事記は、「ならば私はこれから毎日1500の産屋を建てるよ」と答えているのです。
相手の主張に対して、怒るわけでもなければ、拒否するわけでもない。叱るわけでもない。受け入れ協調するわけでもない。相手の言いなりになるわけでもない。
まったく第三の選択として、もっと多くの子を生むよ、と答えています。

これが日本的和の精神の神髄です。
協調でもなければ、迎合でもない。
対立でもなければ闘争でもない。
相手を受け入れ、それ以上の良い結果を見出しています。

これが古事記に書かれた日本人の知恵です。
こういうことを、1300年前の古事記が書いているのです。

*******

日本にキリスト教が入り込んでくる。

これに対してキリスト教を弾圧するわけですが、

その根本的な考えは

あがめたてる相手は一人だけであるべき。

つまり、時の権力者を「絶対」にしなければいけない。

と、いう一神教のような考え方なのですが、

古来の日本は

日本には八百万の神が居ます。

と、いう考え方なのです。

*********

で、高橋流にいうと、

「キリスト?ああ、どうぞどうぞ、うちは、すでに八百万の神がいるのですから、

どうぞ、お仲間に入ってください」

「そのかわりといっては、なんですが、

出雲の国では11月に神様サミットがありますので、ここに出席してくださいね」

********

単純明快ですが、それだけなのではないかと思うのです。

そのあたりが、一神教と八百万教?との大きな違いですね。

ところが、時の権力者に弾圧されると、

神様(この場合、キリスト教)と、心中するわけです。

踏み絵で、キリストやマリアの絵を踏めと言われると

踏めず、処刑されてしまう。

一神教の恐ろしい処はそこでしょうね。

信仰は己のうちにある。と、いうことが判らない。

いっぱい、ほかにも神様がいると言う事が判らない。

そして、それを信じる自分有ってこその信仰だと言う事が判らない。

信じるなとか、いうわけでなく、

「キリちゃんよ。いまは、ふんづけておくけどよ。

あとで、それに見合うだけのことで、お返しするぜ。

おいらが死んじゃ元も子もない」

たぶん、江戸っ子なら、すっぱりきりわけてしまうwwww

*******

こう、切り分けられる裏側もある。

一神教というのは、ある意味、絶対である。

絶対なので、正しいなら、とことん、正しい。

いわゆる、二面性がない。

その点を言えば、八百万の神というのは、

元はと言えば、自然信仰である。

例えば、太陽が元であり、

それを神格化したのが、天照大神。

と、いうふうに考えて頂くと、

太陽は日光をくれるけど、

その日光の恩恵と裏腹の日照り・干ばつもくれる。

こういう二面性があり、

そこを、片一方は正しく・片一方は悪い

正しいほうだけ、受け入れます。

と、いうわけにはいかない。

 

これを拡大解釈していけば

あの神様はいらない。こっちの神様はいる。

などいってられないわけで、

何もかもを、受け入れますよ。

と、いうのが、日本なのだと思う。

*********

そして、代理が思う処の

素戔嗚も大国主命も惨殺されただろうという考え方も

誤解を招いていると思う。

古代の日本以外の国の歴史をみれば、

敵をとことん殺してしまう事がほとんどだったろう。

*********「ねずさんのひとりごと」より*****

これは古事記における神武東征の物語から学ぶことができます。
神武天皇は、ナガスネヒコの一味と戦うに際して、心配した高天原から神の太刀を授かります。
その太刀は、手にしているだけで、敵はホロホロと崩れて気を失ってしまうという、たいへんな霊力を持った太刀です。
いまの時代なら、さしづめ核ミサイルに相当する兵器かもしれません。

ところが高天原は、それだけの兵器を神武天皇に渡していながら、熊野をまわって仲間を集めろと言います。
つまり、どれだけ強い兵器を持っていたとしても、戦うときは、まずは「仲間を集めろ」と古事記は書いています。

その意味で、先の大戦において米国は、連合国を組成しました。
日本が単独で戦ったのに対し、米国は世界を仲間につけました。
ちゃんと神話で、どんなに強い武器を持っていたとしても、戦うときには、まずは仲間を集めよと、日本の建国神話にちゃんと書かれているのに、日本は単独で戦い、対する米国は、神話がないのに仲間を集めて戦ったわけです。
結果は、みなさまご存知の通りです。

***********

確かに仲間は必要であるが、

その仲間はけして、運命共同体ではない。

語弊のある言い方だが、

日本の戦い方は、

大将の首をとったら「勝ち」になる。

大将の首を取られても

まだ、なんとかするぞと、ゲリラになったり

テロをおこしたりしない。

負けが確定すると、

仲間は平気でwww勝ち組のほうにいってしまう。

これも、あるいは、八百万の神の効能かもしれない。

日光をくれるからとそこだけやみくもにしんじてしまうわけにもいかない。

単純にしんじていると、

干ばつになったら、神をうらむしかなくなる。

それでは、「うけいれた」ということにはならない。

では、どうするかとなれば、

今度は水の神様にお願いする。

「雨をふらせてちょーよ」と。

で、あるのなら、

このさきの生き死にに関わってくる大将・負け組にいるよりも

勝ち組に、お願いしに行く。

「仲間になりますんで、そこは、どうぞ4649」と。

・・・・・・・・・

と、いうことを考えれば

素戔嗚にしろ、大国主命にしろ

おそらく、その首取ったれば

それで、万事うまくおさまったのではないか?

これが、なにやら、代理の書き方では

殺戮集団のようにおもわせてしまったのではないだろうか?

とも思う。

つまり、ここに気が付いた事代主は

国を譲った方が良い。

どのみち、国を取られるなら(情勢的に)

他に道連れを作らず、あなた一人の首を差し出せばよい。

その言葉を聞いて、なるほどと思う。

そういう「和」の心、あるいは「忍ぶ心」を

大国主命は持っていたのだろう。

 

そのあたりは、古事記や日本書紀ではかかれていないし

(仮定論でしかないが・・正論だとしても記紀がかくわけにはいかないだろう)

場合によると

大国主命という存在さえ、現在は懐疑的になっている。

実際、大国主命というのは、

あだ名というか・・・

今でいえば、

東京都知事(多くの地区がある)も大国主命ということになるので

その大国主命って、本名なに?という風になってくる。

素戔嗚の伝説からいくと

素戔嗚も大国主命になってくる。

ま、このあたりは、いずれ・・・

**********

むろん、ねずさんと論点が違う事は重々承知していますが・・

******

古事記は、海彦山彦の物語で、山彦は、兄の海彦から、太平洋に落とした針一本を探しだして持ってくるように言われました。
これはできない相談です。
はじめから不可能なことです。
しかも相手は、兄、です。
無視することはできない。

つまり古事記の海彦山彦の物語は、実は、無視することのできない相手から、誰がどう考えても理不尽としか言いようのない難題を突きつけられたときに、どのように対処したら良いかを教えてくれています。

この答えは、海の大神が明確に出してくれています。
1 相手に謝る必要はない。
2 相手に経済的制裁を加えよ
3 経済制裁で困った相手が攻めてきたら、まえもって準備万端整えておいて完膚なきまでにやっつけよ
4 相手が詫びを入れてきたら、赦してあげよ。

このことは、日韓関係にまるごと当てはまります。
そもそも「従軍慰安婦」など存在しません。
「従軍」というのは、軍に所属していることを意味します。
ですから「従軍牧師」といえば、軍から給料をもらっている牧師さんです。
「従軍慰安婦」というのは、軍から給料をもらっていたのでしょうか。

要するに韓国は、はじめからありもしないことを、「あった」と決めつけて、無茶な金銭の要求をしてきているのです。
そのようなものに対しては、「一切詫びる必要はない」と明確に古事記は書いています。
それどころか、経済制裁を加えよ、と古事記は書いています。

*******

ちょっと、意見がちがうところもありますが、

髙橋も同じようなことを言いますね。

どれほど、日本が経済的支援をしているか。

何故、それをはっきりいわないのだ。と。

ーこれは、相手に対しても、日本国民に対してもー

その言わない、言えない?真意がどこにあるかは判らないのですが

どうも、日本人は元々、

おくゆかしいというか

おんきせがましいのが嫌いというか

おかげという考え方といっていいか・・

ー私のおかげで・・とはいわないー

これは、いったいどこからでてきたのだろうか?

と、思うのですね。

これも、そもそもが自然信仰・八百万の神のおかげ?(の、せい?www)

神様がすることなので

お日様が程よく出ていれば

神様のおかげで・・となるし

日照りが続けば

なにか、私が良からぬ思い・行いをした?

私のせいかもしれない。

もっと、言及すると、

天変地異がおきたのは、人間が奢っていたからだ。とか

神様が怒っているのだ、とか

今でもそういう風にいう。

 

何故だろう?

それは、天を意識しているか、していないかだろう。

某国民は、平気でうそをつくし

嘘をついたという良心の呵責もない。

それは、大国に虐げられ、自分の身をまもるためには

当たり前の生き延び方だったからでもあろう。

つまり、某国も某大国も「天」を意識していない。

 

日本人は、今でもいう。

天知る・地知る・人知る・己知る

(場合によっては己知るは省かれるーそれほど自分にはわからないということだろう)

天は見抜き、見通しだと言われる。

なにか、こっそり良からぬ思いをもっても、思っただけのことでさえ、天は見抜く。

天に裁かれたら、隠しようがないので、どんな罰をうけるかわからない。

いくら隠してもばれてしまうということわざでは

障子に目あり、壁に耳あり

とか

悪事千里を走るとかいわれる。

まあちょっと前のいいかたでいうと

日本人はいつも「お白砂」にいるようなそんな精神構造だったろうから

天に見られて恥ずかしくない生きざまを心掛けていただろう。

 

だが、逆に良いことをしているのも天がみているわけで

それを、

「私、こういう良いことをしました」

と、いうのは、自慢げというより

それを見ていてくれる天を認めていない。

おかげ欲しさで良いことをしたといいつのるのとおなじことになり

そんな欲得づくの気持ちも天はみすかしてしまうので

善行を口にするのは、物欲しげ・見返りを求めるようで

かえって恥ずかしい行動だと考える。

おまけを言えば

手相。

陰徳線というのがある。

(陰で)どれだけ善いことをしたか、手に刻まれるという。

大々的に孤児・孤児院に寄付をした。

でも、陰徳線には刻まれない。

それが、例えば税金のがれだったりしたら、

思いが「徳」な思いではないから。

ところが、道端にゴミが落ちていた。

それを拾い、ごみ箱にすてた。

陰徳線が出てくる。

きれいにしよう。他の人がみたらいやだろうなあ。

その思いが「徳」だから。

これが、文句ぶつぶつで、

ーなんで、ちゃんとすてられないの?

今の若い人は・・ぶつぶつぶつー

文句が出て、人をののしっている自分になっているのが

徳な思いのわけがない。

 

そんな風に、手相でさえ

天から見られた思いを吟味してしまう。

 

それが日本の精神なのだということを判ったうえで

1 相手に謝る必要はない。
2 相手に経済的制裁を加えよ
3 経済制裁で困った相手が攻めてきたら、まえもって準備万端整えておいて完膚なきまでにやっつけよ
4 相手が詫びを入れてきたら、赦してあげよ。

と、いうことをやらなきゃいけないだろうと思う。

つまり、

きれいにしよう。他の人がみたらいやだろうなあ。

とか、

誰かを思いやった思いを底にしいてなきゃいけない。

あなた、そのままじゃだめだよと

それが判っていて、言わないのは相手への思いが薄いともいえる。

また、反対に

日本国民の尊厳にかかわることを黙っているのもおかしい。

そして、

4 相手が詫びを入れてきたら、赦してあげよ。

時代は記紀のほうが古いけど

これは、昔ばなしでも、時代劇(特に水戸黄門)でも取り上げられている。

勧善懲悪。

かちかち山の狸の話など特にそう思いますね。

狸は自分がくわれそうになって、

おばあさんをだまして、逆におばあさんを鍋にいれて

ゆでてしまう。

そして、そのおばあさんにばけて、

帰ってきたおじいさんに狸汁ですよといって

おばあさんをくわせてしまう。

ここまでやられてしまって、おじいさんは

ショック状態だったのだろう、おばあさんの死をなげきかなしんでいたわけです。

そこにウサギが出てきて、わけをきくと

狸を懲らしめるわけです。

いろいろ、やっていますが、カチカチ山という名のもとになった話をひとつだけ。

薪をひろってかえった狸とウサギ。

途中でウサギは火打石をカチカチとならして狸の薪に火をつけます。

と、まあ、こういうことをいくどかやって

最後に泥(土)の舟に狸をのせて、ウサギは木の舟にのります。

泥舟ですから、水にとけてしまい狸がおぼれたころに助けて

「お前はおばあさんをころしてしまったな」

と、畳みかけて、やっと狸が詫びる・・・

この話を今考えると

おじいさんにおばあさんをくわせてしまったなどという

そのことで、狸は8回くらいころしてやるべきだとおもいますねwwww

狸も自分が殺されたくなくておばあさんを鍋につっこんだのは

まあ、100歩ゆずって、しかたがなかったととるとしても

それを・・おじいさんにたべさせてしまうなど

人間の・・いや、狸だが・・することじゃない。

と、納得できないむかしばなしでありながら、

それでも、改心したら赦す(許すじゃないところがねずさんのわかっているところ)

この考え方はすごいわけです。

外国の童話はオオカミがよくあつかわれますが、

あかずきんちゃんにしろ、7匹の子ヤギにしろ、

ちゃんと自分はたすかっているのに

オオカミをころしてしまいます。

殺してしまうだけであきたらず

殺した殺した、オオカミいなくなったと喜んで踊るのですよ。

悪はほろぼさなきゃいけない。

悪は悪で最後まで悪。

悪は改心などしないものなのです。

赦すも許すもない。

これは、他民族に襲われるという陸続きゆえの恐怖や防御の考え方が元になっている処はあるとおもう。

けれど、オオカミをころして、喜び踊るなどという感情は日本にはない。

あるのは、

命を取り上げてしまったことを詫びるという思いだろう。

そして、オオカミにだまされた自分のうかつさを思うと同時に

助かってよかったと自分の命を喜ぶ。

自分にも非がある、とかんがえるとそうなってくるだろう。

自分に非はないか。

その考え方も天を意識していると思える。

オオカミ殺しは「正しい行為」といいきれるか?

天にそう言えるか?

こういう意識がついつい、

相手にものをはっきりいわないというところになってしまうのではないかと思える。

 



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