歴史学者はとんでもないことをいいだすものだというのが、
いくつかある。
今になると、いろいろとくつがえってきているけど、
そして、記紀まっさおな矛盾を侵す。
ねずさんのひとりごとーより
実は、大陸から渡来されたとされる稲作ですが、この稲作に関する遺跡が日本では、岡山県の彦崎遺跡や朝寝鼻遺跡で、8000年前のものとされる水田跡や大量の籾(もみ)の化石が見つかっています。
稲というのは、そもそも熱帯性植物です。
その熱帯性植物を温帯地方の日本で育てるのです。
水田は、田植えの頃には田に水をひき、稲の生育に合わせて田から水を抜いて乾田にするけれど、これは熱帯地方の雨季と乾季を人工的に現出させるためのものです。
田に水を入れたり抜いたりするには、水の「水位を変える」という灌漑(かんがい)技術が必要です。
これはすごい技術です。いまどきの言葉で言ったらイノベーションです。革命的技術革新と言っていい。
そして古来、こういう工夫は、日本人のお家芸です。
一般に稲作が始まったとされる弥生時代は、いまから約3000年前から2000年前頃までの時代です。
ところが8000年前には、日本で既に稲作が行われていた。
そうすると、弥生時代に「大陸から稲作が伝来した」という教科書の記述は、どうやらかなりあやしいということになります。
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だが、単純に高橋がいった。
縄文土器というのは、「縄」で文様をつけたのだろう?
縄というのは、稲の茎からつくるものだ。
ここからして、縄文時代に稲作がなかったなどおかしかろう?
と。
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文様をみて、縄だと思い、縄文と名付けながら
稲作は弥生時代からだ、という考え方になる。
他の植物で模様をつけたというのなら
編文時代とか・・
(と、いっても、編むというよりこよっていた感じに近い気もする)
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こんな矛盾が歴史伝承・考察の中にないか?
生活の中で、
あたりまえになっている事柄のなかに、
古代の人の感情とおなじものはないだろうか?
そんな思いが渦巻いていた。
先の記事にあげたが、
九州の日向から流れ着いた場所に同じ名前を付ける。
あるいは、上津人が一言漏らした言葉をうけとめてしまう。
「ここは、日向のようだ」
ふるさとをなくした心をいやすかのように
村人が自主的にそこを、日向とよぶようにしたかもしれない。
そんのなに似た事例はいくらでもある。
北海道開拓にあたり、開拓した場所に
新広島とか、新十津川とかつける。
アメリカもそうだろう。
ニューヨーク・ニュージャージー・ニューハンプシャー
故郷を思うのか
新天地をふるさとにするんだというおもいからなのか、
そこは、わからないが、
歴然と、「故郷」を意識しているのは間違いない。
そんな風に、歴史の中にうずもれた「感情」にもスポットを
あてないと、いけないと思う。
思うが、何らかの感情や観念がはいっているのが、
判らなくなっている。
例えば、千木
ルーツをさぐると、インド・タイあたりの部族に行き当たる。
部族の長の住まいの屋根の上に「千木」がある。
その発祥は、聖なる牛の頭を屋根に飾ったところから始まる。
と、いう。
魔除け・護符・結界の意味合いでもあったろう。
だが、それが日本に渡ったと考えるのは妙なところがある。
日本の千木には、天千木・地千木がある。
むしろ、日本の千木がタイなどに渡ったのではないかと思う。
と、いうのも、
特に天千木。
天を支えます。天を受けます。というもので、
牛の頭で自分や自分の部族を護ってもらおうという他力本願な考えではない。
天意に沿う。
天が載る生きざまといっていいか、
この実際の姿は天皇であろう。
日本人の意識には、いつも天があった。
それは、神頼み的な物でなく
天に恥じぬ生き方とか、
天意に沿った生き方だろうかとか
いつも、天を戴いていた。と思う。
そんな思いを考えると
断じて、牛の頭による守護や結界でもない。
逆に地千木も同じ。
自分を守るのでなく、周り、横を護るものである。
こういう底にある感情・観念をみると、
タイ・インドから伝わってきたとは考えにくい。
が、さらにより良いものにするのが、日本人であることを考えると
断定はできない。
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同じものにみえて、
土台になる意識の違いから、
例えば、記紀のなかで語られていない、
あるいは、説明されないために
漠然ととらえていたことが、
土台の観念やら感情などをしることができれば、
もしかすると、
そうなのかもしれない。
と、納得が出来てくる場合もあろう。
それは、また、
司馬遼太郎からの恩恵である。
と、いえるような、
解明ができるといいな・・・・
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