飛騨王朝からスサノオがおいだされたか、どうか?
以前に、
飛騨王朝があったか、どうかさえ、定かでない。
巨石群やピラミッド、両面宿祢も、
八もしくは、崇神の田(十字架、祭祀)を思わすものばかりで、
見事に消しているというか?
ただ、気になるのは、
前述の転載記事の中の
只の洪水・・・
位山の中で見たのだったら、
土砂崩れ・・だろう?
洪水痕があるというのは、どういう意味になるのか?
それとも・・川近く?沼からあふれた水・・で、洪水??
ところが、ブログはここで、終わっている。
的確な言葉が出てこなかっただけなのか
判らない。
1783 天明3 千曲川洪水 * 浅間山噴火降灰(7/2~7/8) 冷夏 天明の飢饉(天明7 年まで).
このあたりと関わるのか?(同じことが以前にあったという意味で)
ただの洪水・・
土地勘がないので、判らないままになってしまう。
飛騨王朝が消失する何か・・
それが、判っても、まだ、確証
古代天体観測装置―金山巨石群― (mysteryspot.org)
岩屋岩陰遺跡巨石群の60メートル離れた場所に大きな岩がある(北緯35度45分17.06秒、東経137度09分35.60秒)。この岩面の角度を天空へ伸ばすと北極星を指す。つまりこの軸を中心にして星は回ることになる。古代人は、このことを良く知っていたようである。
岩屋岩陰遺跡巨石群の岩に数箇所の穴が彫られているが、これを結ぶと大きな北斗七星となる(穴は9個見つかっている)。北極星を意識していたなら、その方向の岩肌に北斗七星を彫っていても不思議ではない。しかし、なぜか逆向きに彫られている。このような裏向いた北斗七星は、世界各地で見つかっているそうである。このことを発見したのは、ドイツ人考古学者のDr.Stefan Maeder氏である。Maeder氏は、巨石の他のくぼみとの関係から北極星は、りゅう座のトゥバーンを指標にしていたのではないかと推測している。
我々の時代の北極星は、こぐま座の星ポラリスだか、北極星は地球の歳差運動によって、時代と共に変わっていく。トゥバーンが北極星であったとしたら、この岩屋岩陰遺跡巨石群が造られた年代は紀元前2800年頃の縄文時代中期となる。
奈良の山添村には天球を地上に模したイワクラが残っているが、この発見者である柳原輝明氏は、山添村の北斗岩(北極星)はトゥバーンであると言っている。また、エジプトのクフ王のピラミッドのシャフト(通気孔)の1つがトゥバーンを指していることは有名である。
これらの一致は、紀元前3000年頃から世界中で高度な文明が興ることから当然のように思える。日本に高度文明が栄えたとしたら、やはりその時代であろう。
一方、樋口元康氏は、金山巨石群の北斗七星の形から紀元前5500年前まで遡るのではないかと推測されている。
また、金山巨石群の成立については、古地磁気調査についても、触れなければならない。イワクラ学会では、お馴染みの調査であるが、古地磁気調査とは、岩から採取した試料の残留磁化の方向を測定する事で、岩が生成時に持つ磁化方向を明らかにするものである。この調査により、岩が火山活動で生成したときから動いたかどうかがわかる。
金山巨石群の岩についてもこの古地磁気調査が行われ、ほとんど全ての岩が移動及び回転を行っていることが判明した。これが直ぐに人が岩を動かしたことを意味するものではない。どこかから岩が転がり落ちてきて偶然に積み重なった可能性があるからである。しかし、少なくとも、自然節理による割れと風化で取り残された残存地形ではないと断言できる。
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代理は昔からww
ピラミッド・稲作は、日本からと、思っている。
だから、当然
暦 太陽暦も太陰暦も
稲作が盛んになったころから
太陽暦よりも、太陰暦のほうが、主になったと思う。
まず、太陽では、何日たったか、判り難い。
計測道具(ピラミッドのようなもの)が必要になる。
月をみれば、新月、満月、15夜・16夜など判る。
時間がずれるので、夜に見えるとは限らない。
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おまけに潮の満ち引きと関係しているから、
縄文人(わかめなどよく食べてた)
ーなので、藻をナ(神)というのかも(神社などで)ー
当然、潮の満ち引き・月の満ち欠け
よく把握していたと思う。(海側にいた縄文人)
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なので、ピラミッドがすたれていく
(暦ができたら、あまり、関係なくなる)
一部、王族のためのものであろうと思うが、
日本のピラミッドは、墓とは思えない。
(別途、古墳を作った?)
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と、すると、
エジプトピラミッドの上にもあったといわれる太陽石。
こっちが、問題なきがする。
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いずれにしろ、エジプト経由のユダヤ人
シュメール人などの発想に思える。
元は倭人であったとしても
それを祭祀するのは、渡来人?
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つい、読みふけってしまい・・
まず、目次を張り付けたが
このページの下の関連記事?から読み進めて
他・・
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籠神社の謎
丹後一宮である籠神社には数多くの伝承が伝わっている。その多くが謎に満ちている。まずその伝承を検討してみようと思う。
① 彦火明命が丹後の地に降臨され、眞名井神社に元初の神、豊受大神をお祀りされた。天ノヨサヅラ(ひょうたん)に天の眞名井の御神水を入れてお供えされたので、この宮を吉佐(ヨサ)宮という。
② 豊受大神 亦名 天御中主神・国常立尊、その御顕現の神を倉稲魂命(稲荷大神)と申す。
③ 神代に彦火火出見命(彦火明命の別名とも伝えられる)が籠船にて龍宮(海神の宮)へ行かれたとの伝承によって籠宮と云う。
④ 彦火明命 亦名 天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日尊、又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。
⑤ 彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜り、大和国及び河内・丹波(丹後)地方にお降りになって、これらの地方を開発せられた、丹波国造の祖神であらせられる。又、別の古伝に依れば、十種神宝を将来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊であるといい、また、彦火火出見命の御弟火明命といい、更に又大汝命の御子であるという。
⑥ 豊受大神は御饌津神とも申され、・・・(中略)・・御饌津神は天照大神が崇祭された大神である。
⑦ 2面の伝世鏡、息津鏡(後漢鏡AD30年頃)・辺津鏡(前漢鏡BC70年頃)が存在している。
⑧ 当宮の東方海上20㎞余に彦火明命がお后の市杵島姫命と最初に天降ったと伝えられる冠島がある。
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天香語山命は饒速日尊と天道姫の間の子であり、天村雲命は孫である。天道姫命がその孫と行動を共にしているということは、少なくともAD50年頃までは天道姫は丹後国にいたことになる。
ここで考えられるのが、この市杵島姫は素戔嗚尊の娘の市杵島姫とは別人で飛騨国の天知迦流美豆比売と推定される
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例えば、↑のように、飛騨国の話と突き合せていることが多くある。
まだ、頭に入っていないことが多いので、
もう少し、読み直していきたい。
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饒速日尊が天知迦流美豆比売と結婚した理由
饒速日尊は丹波国統一し、丹後地方にいるときに再び飛騨国を訪問し、この時に天知迦流美豆比売と結婚し、彼女を伴って丹後国に戻ってきたと考えられる。
饒速日尊が東日本地域を統一し、ヒノモトを建国し、その後に倭国と合併し、その統一王朝を飛騨国が認めるためには、その王に飛騨国王の血が入っていなければならない。順調にいけば饒速日尊がヒノモト国王になるわけであるから、その子にも飛騨王の血を入れる必要がある。そのためには、饒速日尊自身が飛騨王と近い血筋の娘を妻にする必要があった。ここまでの二人の妻は飛騨王家の血筋ではあったが、直系ではなかった。そのために飛騨王直系の娘を妻にすることを飛騨国が要求してきたものと考える。
丹後にいた饒速日尊は飛騨国からの要請を受け、飛騨国を訪問し、飛騨王天照大神の娘天知迦流美豆比売(ウガヤ王朝では矢野姫=市杵島姫)と結婚し、その妻を連れて丹後に戻ってきたのである。この時の伝承が冠島の伝承であろう。
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第五の妻三穂津姫は出雲国譲り事件の後なので、AD47年頃(饒速日尊57歳程)と推定される。子は伝えられていない。
出雲国譲りの後、高皇産霊尊が大物主神(饒速日尊)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔した。とされている。
饒速日尊はこの時まで妻とした人物はすべて縄文人である。倭国の高皇産霊神としては、饒速日尊が日本列島統一に本当に前向きなのかに疑問を持っていたと思われる。饒速日尊がヒノモトの創始者になっているわけであるから、倭国との合併に前向きでなければ日本列島を二分した状態が固定化し、将来にわたって戦争の危機が続くことになるのである。高皇産霊神はこの点を危惧していたと考えられる。饒速日尊はこの疑念を払しょくするためにも三穂津姫と結婚する必要があったのである。
三穂津姫とは何者であろうか。弥生系の人物と思われるが、高皇産霊神は飛騨国の大山祇命の別名と推定しているので、高皇産霊神の娘である三穂津姫は縄文系となってしまう。徐福系の高皇産霊尊の娘かとも思ったが、そうであるなら、饒速日尊とほぼ同年齢になってしまう。その可能性も0ではないが、政略結婚の要素が強いので、結婚当時三穂津姫は出産可能年齢だったのではないかと思う。国譲り事件のころ倭国を主体的に動かしていたのは、高皇産霊神(大山祇命)及びその妻日向津姫である。そうすると、この二人の娘である可能性が高いといえる。つまり日向三代瓊々杵尊・日子穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊と兄弟関係にある人物と考えれらる。高皇産霊神と日向津姫との間には日向三代の皇子のみが伝えられているが、三穂津姫もこの二人の子供であると考えれば、最も自然である。そうなれば、AD30年ごろの生誕としても饒速日尊との結婚当時17歳前後となる。
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つまり?
美穂埼神社の美穂津姫を「奴奈川姫」に比定したことが
間違い?
天火明命=火進(ほすすみ)=御ほすすみ=美穂須々美=饒速日
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徹底して、饒速日を消し去っているのだから、
美穂須々美がだれか、判らなくなる。
おまけに?
天千木ー地千木 2種の横並びの美穂神社
天千木は、饒速日?
出雲大社は、もしかして、天千木だったかもしれない。
これを天千木から地千木にさし替える?必要に迫られた?
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ので、
大国主命から、「立ててくれ」と言ったことにしたか?
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天千木のもうひとつの解釈は
王朝の天皇?王?・・という意味合いもあるだろうか?
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日本列島を平和統一を目指している高皇産霊神は、最大の障害と予想される飛騨国を大和降臨前に訪問することを指示していたのではあるまいか。饒速日尊は統一した丹波国→日本海→越国経由で飛騨国に入ったと推定している。
飛騨国で式内社に祭られている神は饒速日尊系か高皇産霊神系である。饒速日尊が高皇産霊神の縁者を引き連れて、この飛騨国にやってきたのであろう。この飛騨国にはすでに飛騨王国が存在し、それを統一するのは容易でないことは饒速日尊にはわかっていた。このような場合戦争して相手をたたきつぶして統一するというのが世界の常識であろうが、戦争した痕跡もなく、縄文文化と饒速日尊が平和裏に一体化している。日本古代ではあくまでも平和統一だったのである。それぞれが交換条件を出し合って、併合していったものと考えている。
飛騨国側としては、できれば独立を維持したい思いはあったろうが、いつまでも弥生人と対立しているといずれ飛騨王家は滅ぼされるという危惧もあったと思われる。飛騨国が将来にわたっていつまでも独立を保つのは不可能であろうし、無駄な血を流したくないというのもあったであろう。また、飛騨王家の血筋は守りたいという思いもあったと思われる。そういった事情の中で、飛騨国王と饒速日尊との間に会議が開かれたと思うがそれぞれの主張を推定してみよう。
飛騨国側要求
① 饒速日尊は倭国とは別の国を作ること。その国名に「太陽」の意味を持たせること。
② 飛騨国の太陽祭祀の伝統は引き継ぐこと。
③ 歴代国王は我々の聖地である位山のイチイの木を使って即位の儀式をすること。
④ 統一国王の系統に飛騨王家の血筋を入れること。
などであったと推定する。
日本国側(饒速日尊)要求
① 飛騨国はヒノモトに所属すること。
② 祭祀に絡むこと以外は統一王国の方針に従うこと。
③ 統一王国の役人を受け入れること
④ 飛騨王位は統一王国の国王(神武天皇)に譲位のこと
統一国王の系統に飛騨王家の血筋を入れること。
ウガヤフキアエズ王朝のヒダカサヌー神武天皇
ヒダカサヌー飛騨重ぬ
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第73代・ヒダカサヌ
記紀では「神武天皇」と呼ばれるが、ウエツフミにはこの呼称は存在しない。
ただし、その記述内容は記紀よりもはるかに詳しい
実在した可能盛大。
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ウガヤフキアエズ王朝のヒダカサヌー神武天皇
から
欠史8代
急に出てきた崇神天皇
これを倭王朝ととっていたが、
神武王朝(飛騨出雲ウガヤフキアエズ王朝)
そして、
(崇神王朝)過渡期~崇神天皇
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饒速日は、縄文人のように比定されている。
飛騨王朝?も縄文人
ウガヤフキアエズ王朝が・・混血(結)しはじめた?
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欠史8代の間になにがあったか、判らないが
崇神が急に田田(原初キリスト教を祀るー大田田根子)となったのは、
弥生人?が、政権を握った。と、考えられる。
欠史8代の中に実際の天皇もいただろうし、
あとから、つじつまを合わせた存在もいただろう。
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崇神が大物主を祀ったのはどういう意味合いになるか?
欠史8代中に
弥生人が原初キリスト教を祀る(ヤハウェ)?
崇神が急に田田(原初キリスト教を祀るー大田田根子)
田田は、逆か?
十字架を閉じ込めた・・・??
そして、大物主(饒速日?)を封じ込める?
本当は、なにを祀ったか?
原初キリスト教と一口に書いているが
その中身は違う?
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