話がだいぶん前後していますが、この、気仙大工左官伝承館に行く途中、マスカットサイダーの工場、みました!
マスカットらしき植物が育っているのも、バスの窓から見ました。
で、伝承館で飲んでみました。初めてです。
ちょっと強めの炭酸でおいしいです。
キラりんサイダーももちろん売ってます。
語り部の方のお話をきいて、行政の重要さ、任務の重さを強く感じました。
陸前高田市は、何度も津波の被害に遭ってきた地域なのだそうです。
チリ沖で発生した地震による津波を想定した防災と、その前の地震による津波を想定した防災とで、
街づくりに対する考えがかわって、防波堤ができたことで、海の間際に街ができあがっていったこと。
みんなの声を行政にいかしたことで、高齢者や足の不自由な人が集まりやすい海辺の公民館が避難所になっていたこと。
学校そのものに台所などの調理場がないのに、避難所になっていて、お湯をわかすこともできなかったこと。
学校のマニュアルでは、保護者に連絡をとって、迎えが来るのを待つという対策ができていて、その為親子で被害に遭った例が多発したこと。
校庭に集められたまま被害にあった学校もありました。
また、学校によっては、校長先生の判断で、高台に避難したところ、海洋関係の仕事経験がある方に、「この高さだと子どもたちに波しぶきがかかるかもしれない」と言われ、更に高いところに避難しなおしたことで無事だったこと(津波の二度逃げと言うそうです)
子ども達を山に避難させるとき、高学年から先に行かせて、山道を整備し、低学年を迎え無事だった例。(※この話はバスの中で岩手県交通の方から聞いた話だったと思います。)
それとは別に、子ども達が、山で怪我をするかもしれない、大地震のあと、土砂が崩れるかもしれないと、川沿いに海の方の避難所に向かって被害に遭ったこと。
海の真横の高台に逃げた方が無事であったのに、波から遠くに行こうとして波にのまれる方が多かったこと。
それまでの消防団の規則に「撤退せよ」という文字がなかったため、職務遂行のため、水門をしめに行きほとんどの方が犠牲になったこと。
まだみつかっていない200人という数字ひとりひとりが、知り合いで辛いという言葉。
先日沖縄の人がきて、科学の進歩というけれど、毎年来る台風の進路すら変えられないのだ(同じように津波を止められることもできないから、うまく付き合うしかない?)と言われたという話。
この日はとても晴れていて、蝶々は蜂がごきげんでした。
綺麗に掃き清められている庭園には、阪神大震災を経験した神戸からの灯が、灯篭の中で揺れています。
つづく
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