真禅寺前 真禅寺参道
真禅寺駐車場 真禅寺参道
真禅寺山門碑 本堂前
真禅寺本堂 森長可首塚入口碑
森長可首塚入口碑 長可首塚
森長可墓 長可・墓
(真禅寺門前・森武蔵守長可「ながよし」説明・碑)①
(真禅寺門前・森武蔵守長可「ながよし」説明・碑 ②
*森武蔵守長可(ながよし)の首塚由来!
住所=可児市西帷子490-1
兼山城主・森武蔵守長可(ながよし)は、織田信長の死後、豊臣秀吉に味方して、
小牧・長久手の戦いに加わったものの、流弾が眉間に当たり、
天正12年(1584)4月9日に、27才で果てました。
家臣達は長可の遺体を居城の「兼山城」に運んで手厚く葬ろうと決意しました。
しかし、長久手から北え向かうには、敵の大将「徳川家康」の本陣のある小牧の、
下を通らねばななりません。この難関を突破するため、遺体の胴と首を分けてまず、
胴を埋め、首を大切に抱いて犬山から石原土田へ間道を抜けようとしました。
ところが土田城主「生駒氏(徳川方)」は、前年に自分の城を焼いた「森武蔵」の遺体が、
ここを通るに違いないので、それを横取りして「家康」に差し出そうと、待ち伏せし
ていました。遺体は木曽川手前の土田の刎(はね)橋の見える所までやってきました。
遥か東方に兼山城も見えます。その時見張りが飛んできて刎(はね)橋に敵の一が、
いる為に通れないことを知らせました。
*刎(はね)橋とは? *必要以外は綱で吊り上げて、通れぬように考えた橋です。
小牧山の難関は、胴を捨てて首だけにする事によって、通れましたが、
刎(はね)橋を落とされては、「兼山城」へ帰ることが不可能です。
そこで涙をのんで石原地区の「真禅寺」に戻り、主君「森武蔵守長可(ながよし)」
の首を真禅寺の裏山に丁寧に葬りました。
*森武蔵守長可(ながよし)の死後、森武蔵守長可(ながよし)が出陣前に書き残し
た「遺言状」が見つかり、それには「武士はいや、吾が跡目くれぐれもいやにて
候・・・」と書いてありました。
そこで森長可の妻は次の城主を末弟「忠政」(後の・津山城主)に譲り、
自らは二児を連れ、ここ「真禅寺」のある「石原地区(西帷子490-1)」に、
移り住んだと言うことです。(可児市教育委員会)説明板より。
(森家家系図)
「森武蔵守長可(ながよし)」鉄砲で撃たれ、
落馬した森武蔵守長可(ながよし)」
「小牧・長久手合戦・屏風図」より。