*村ちゃんの古城跡散策!

村ちゃんの城跡写真の紹介!

*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *可児・土田城!     *岐阜県可児市編!

2018-02-15 | Weblog

    

土田城碑        説明板

 

    

 土田城碑     説明板碑

 

     

説明板碑       麓五輪塔

 

   

本丸東御嶽山    本丸東

 

    

山頂本丸跡       本丸跡

 

   

 本丸跡      本丸跡

*(土田城址・説明板)!

*美濃可児・土田城!  

住所=岐阜県可児市土田4778-1

 土田城跡は文明年間(1469~1487)頃に、土田氏によって築かれたと伝え

られています。弘治二年(1556)土田源太夫が「明智城」において討死したのち

は、丹羽郡小折城(愛知県江南市)の生駒氏に養子となっていた「親重・親正」が

城主となり、親正は「織田信長」に仕え、天正二年(1574)には土田城を去っ

たとされています。後には「豊臣秀吉」に仕え各地を転戦し、天正十五年(158

7)には、「讃岐・丸亀城主となりました。 

城は、約十メートル四方の小規模な曲輪が南北にそれぞれ二面配されています。

土田氏や生駒氏は、山麓の居館に居住し、合戦の際には、土田城に立て籠つてた、

と考えられます。 又、「織田信長」の生母である「土田御前」が生まれたとも言わ

れています。

*江戸時代の記録に見る「土田城」!

尾張藩士の松平君山(秀雲)が宝暦六年(1756)にまとめた「濃陽志略」に、

「生駒甚助(親正)が、天正年間に居城したと記されている。 

又同じく「尾張藩士」の「岡田敬」が天保期以降まとめた、「新撰美濃志」には、

「生駒氏城址」を天正期に「生駒道寿(親重)」同「甚助」が住み、

俗に「土田の城山」と呼ばれ、地元の人は「生駒三吉の城山」と言っていたと、

記されています。   

可児市・説明板より。  

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *刎(はね)橋・「森武蔵守長可(ながよし)」 !     *岐阜県可児市編!

2018-02-15 | Weblog

      

はね橋跡・至可児兼山城へ 現はね橋

 

  

中央山頂土田城    可児川渓谷

 

        

はね橋跡        現はね橋

 

  

はね橋より土田城  はね橋跡   

*森武蔵守長可(ながよし)の首・通行不可! 「刎(はね)橋」!      

*岐阜県可児市土田4683-2

小牧・長久手の戦いで敵方の流れ弾が「鬼武蔵長可(ながよし)」の眉間に当たり討死。

家臣達は、遺体を居城の兼山(美濃)に運んで、手厚く葬ろうと決定。

しかし長久手から北え向かうには、家康の本陣がある小牧の下を通らねばならなかった。

この難関を突破するため、遺体の胴と首を分けて、まず胴を埋め首を大切に抱えて、

犬山から石原土田へ間道を抜けようとした。処が、土田城主「生駒氏・(徳川方)」が、

ここを通るに違いないので、それを横取りして、徳川家康に差し出そうと待ち伏せていました。  

遺体は木曽川手前の土田の、刎橋(はね)の見える所までやってきたとき、見張りが

飛んできて「刎橋」(はね)に、敵の一団がいるために通れない事を知らせた。

*「刎橋(はね)」とは? 

*(必要なとき以外は、綱で吊り上げて通れぬように考えた橋!)

小牧山の難関は胴を捨てて、首だけにする事によって通れたが、刎橋(はね)を、

落とされては兼山へ帰ることが不可能。そこで涙をのんで「石原の真禅寺」に戻り、

首を浦山に丁寧に葬った。この後「森忠政(長可(ながよし)弟(後・備中・津山

城主・森忠政公)が跡を継ぐと、長可(ながよし)の妻は、自ら二児を連れて、

「真禅寺」のある「石原地区」に、移りすんだと言われている。       

(可児市教育委員会)説明板より。