*長宗我部盛親陣跡・山頂部(関ケ原合戦)!
*住所=岐阜県不破郡垂井町栗原
*竹中半兵衛・閑居の地!(頂上)
*栗原連理の木!(頂上)
*九十九坊!(途中)
*清水寺公園!(麓陣跡)入口!
*清水寺公園入口!(長宗我部陣跡・麓陣跡)*説明板あり!
*長宗我部陣跡入口!(頂上陣跡)
*竹中半兵衛閑居地入口!(頂上)
*栗原連理のサカキ入口!(頂上)
*九十九坊入口!(頂上途中)
*長宗我部陣跡!(左・頂上部)・ (右・清水寺公園・麓陣跡)
*長宗我部陣跡!案内板!(頂上部)
*栗原九十九坊!(途中)
*栗原連理の榊!(頂上)
*栗原九十九坊!
*長宗我部盛親陣跡!(頂上部)
長宗我部陣跡!(頂上部)
*四国の覇者として名高い「長宗我部元親」は、関ケ原の戦い前年に没し、
子・盛親が土佐一国(高知県)を継いでいた。
当初は東軍に与しようとしたが、近江国水口(滋賀県甲賀市)で、
東下の進路を阻まれ、やむなく西軍に属する。
その後は西軍主力にの一翼を担い、伊勢方面の攻略で活躍した。
決戦当日は毛利秀元ら諸隊とともに南宮山に布陣したが、
東軍への内通した吉川広家に阻まれ参戦できず、西軍の敗色を見て、
戦わずして帰国した。戦後、領地は没収され、浪人として京都に潜伏する。
その後大坂の陣では、豊臣方として活躍したが、敗北後に捕らえられ、
斬首された。 *説明板より!
*栗原連理の榊!
*このサカキは、推定樹齢四百年の古木で、幹が根元で二つに分かれおり、
一方の幹から出た枝が他方の幹にゆ着して、連理の状態なっている部分が、
数多く見られる。このことから、古来「縁結びの榊」と、
言い伝えられている。垂井町教育委員会! 説明板より!
*竹中半兵衛! 閑居地・祠!
*竹中半兵衛! *説明板!
栗原山
竹中半兵衛
重治公閑居地
*推定記念樹 *説明版より!
*竹中半兵衛が斎藤家を去り、浅井長政の世話になった後に、
戻って、ここに隠棲した地と言われています。
連理のサカキは樹齢四百年なので大体合いますが、
半兵衛を家臣にする為に、信長の命で秀吉が誘いに行きます。
三度目にして信長ではなく「秀吉」ならと了承します。