*源平墨俣川合戦場跡!
*小熊山一乗寺!(臨済宗妙心寺派)
住所=羽島市小熊町西小熊4292
*小熊山 一乗寺碑!
*一乗寺参道!
*一乗寺境内!
*一乗寺・本堂!
*弘仁10年(819)空海の開基で真言宗の寺院として、境内18町余歩の、
広い区域に七堂伽藍を建立し、大師自ら橋杭で延命地蔵菩薩を彫られ、
七間四方の堂に安置し *「朽残る真砂の下の橋はしら又道かえて人わたすなり」と、
歌を読まれた。当時は寺中に12坊があり、尊信の中心となっていた。
*時を経て源頼朝は、この菩提の寄瑞を厚く信仰し、文治3年(1187)、
武運の祈願をしたところ勝利を得たため、本堂を再建したが後に兵火にあい、
寺院建物が全部消失した。このことを霊夢で知った頼朝は、再び伽藍を建築し、
後の世の手当てとして千両目の団金に, *「朝日さす夕日かがやく木のもとに
こがね千両後の世のたから」と、一首の和歌を添えて付与したという。
*一乗寺由来・説明板!(羽島市観光協会説明板より)
又、治承・寿永の乱(源平の合戦)における養和元年(1181)の、
墨俣川(現長良川)の戦いでは、墨俣から西小熊(一乗寺付近)が主戦場となり、
多くの戦死者がでた。この時の戦死者を供養するため、誓浄寺と本養寺の二つの
寺が建立され、多くの五輪墓石が作られたが、天正14年(1586)の、
大洪水でこの二つの寺が流され五輪墓石も散逸してしまった。
*境川河川改修工事の際に、川底から多くの五輪暮石が出土したため、
その一部が当寺に無縁暮石として安置され、墨俣川の戦いの激しさを今に伝えている。
*織田信長が岐阜在住の時、この菩薩の霊威のあるを知り、
永禄11年(1568)菩薩を岐阜に移したが、天正2年(1574)3月の、
初めのある夜、この菩薩が枕頭に立たれ、元の地に帰りたいと告げられた。
帰す事を惜しんだ信長は、尊像を留めてその地名を小熊と改め今にその地名を残している。
その後一乗寺は一時衰退したが、万治元年(1658)に臨済宗妙心寺派の寺として、
江西長老により開山された。当寺に現在安置してある地蔵菩薩は慈覚大師の彫刻で、
開山した江西長老が尾張国田嶋村から請い受けて空堂に安置したものである。
さらに、貞享2年(1685)冬の頃、当山第3世月空紹長老に、
「汝我を信ずる事久し其心何ぞ空しからんや、先の尊像は彼地に在りといえども
神此処に在す弥供養を怠る事なかれ」という霊夢があった。
よって不二冥合の尊像と崇め、諸堂ことごとく再建した。
時に元禄10年(1697)でこの寺の中興の開山と称している。
*羽島市観光協会! *説明板より!