*今川義元塚供養塔・碑!
*住所=清須市須ケ口332(正覚寺境内・碑)!
*正覚寺・碑!
正覚寺参道! 今川塚供養塔(境内)!
*今川塚供養碑!
*今川塚説明板!
*今川塚供養碑!
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで織田信長は、
今川義元を討ち取りました。「信長公記」によると、
清須城外の須ケ口に義元塚(今川塚)を築いて丁寧に弔ったとされています。
その後,寛文元年(1661)に正覚寺六代三誉上人と、
念仏講同行14名の名前が刻まれた生前供養のための、石碑を建立しました。
これが、今川塚供養碑と言い伝えられています。
美濃路沿いの須ケ口2334-3の山内伊之彦氏所有地内に、
建てられていたものを、平成19年(2007)現在の(正覚寺境内)に、移設しました。
「南無阿弥陀仏為 念仏講同行14人 正覚寺六代
三誉上人 逆修(十四名記名) 設敬」
「当寛文元暦 辛丑八月十五日 春日井郡 清須外町」
*清須市教育委員会! 説明版より!
*大雄山正覚寺(浄土宗)!
関ケ原の戦いの功で清洲城主となった松平忠吉(徳川家康四男)が、
亡母西郷局(後に宝台院という)の菩提寺として、
前任地の忍(埼玉県行田市)にあった大雄山正覚寺を慶長8年(1603)に、
ここ清須外町に移したのが当寺の始まり。満誉上人を開山とした。
忠吉は寺野村で百石の寺領を寄進するなど、保護に努めたが、
慶長12年(1607)27才の若さで跡継ぎもなく江戸にて逝去した。
家康の命により葬儀は増上寺で営まれた、位牌は当寺に安置された。
翌年の一周忌法要は、家康制礼のもと、21日間という長行が当寺行われた。
慶長15年(1610)に始まる清洲越で、当寺は忠吉の法名から、
大雄山性高院と改名して名古屋に移され、忠吉の菩提寺となった。
一方、その後すぐ清須の旧地にも、旧名のままで再建されたのが、
当寺で、宝台院の菩提、性高院の霊牌、忠吉に殉じた4名の家臣の、
位牌を護る由緒ある寺院としてこの地に続いてきた。
美濃路に面したこの寺では、忠吉ゆかりの宝物のほか、
忠吉母子の供養塔である宝篋印塔、佛足石桶狭間の戦いで、
倒れた今川義元に関わる「今川塚供養碑」平成19年(2007)移設、
須ケ口一里塚にあった道標など、多くの歴史に出会うことができる。
*美濃路まちづくり推進協議会!
*説明板より!