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*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *真禅寺(森武蔵守長可・ながよし)首塚!

2018-02-12 | Weblog

    

真禅寺前       真禅寺参道

 

   

真禅寺駐車場    真禅寺参道

 

    

真禅寺山門碑      本堂前

 

   

 真禅寺本堂    森長可首塚入口碑

 

    

森長可首塚入口碑    長可首塚

 

   

森長可墓     長可・墓

 

(真禅寺門前・森武蔵守長可「ながよし」説明・碑)①

 

(真禅寺門前・森武蔵守長可「ながよし」説明・碑 ②

*森武蔵守長可(ながよし)の首塚由来!  

住所=可児市西帷子490-1  

兼山城主・森武蔵守長可(ながよし)は、織田信長の死後、豊臣秀吉に味方して、

小牧・長久手の戦いに加わったものの、流弾が眉間に当たり、

天正12年(1584)4月9日に、27才で果てました。

家臣達は長可の遺体を居城の「兼山城」に運んで手厚く葬ろうと決意しました。

しかし、長久手から北え向かうには、敵の大将「徳川家康」の本陣のある小牧の、

下を通らねばななりません。この難関を突破するため、遺体の胴と首を分けてまず、

胴を埋め、首を大切に抱いて犬山から石原土田へ間道を抜けようとしました。

ところが土田城主「生駒氏(徳川方)」は、前年に自分の城を焼いた「森武蔵」の遺体が、

ここを通るに違いないので、それを横取りして「家康」に差し出そうと、待ち伏せし

ていました。遺体は木曽川手前の土田の刎(はね)橋の見える所までやってきました。

遥か東方に兼山城も見えます。その時見張りが飛んできて刎(はね)橋に敵の一が、

いる為に通れないことを知らせました。

*刎(はね)橋とは? *必要以外は綱で吊り上げて、通れぬように考えた橋です。 

小牧山の難関は、胴を捨てて首だけにする事によって、通れましたが、

刎(はね)橋を落とされては、「兼山城」へ帰ることが不可能です。

そこで涙をのんで石原地区の「真禅寺」に戻り、主君「森武蔵守長可(ながよし)」

の首を真禅寺の裏山に丁寧に葬りました。 

*森武蔵守長可(ながよし)の死後、森武蔵守長可(ながよし)が出陣前に書き残し

た「遺言状」が見つかり、それには「武士はいや、吾が跡目くれぐれもいやにて

候・・・」と書いてありました。

そこで森長可の妻は次の城主を末弟「忠政」(後の・津山城主)に譲り、

自らは二児を連れ、ここ「真禅寺」のある「石原地区(西帷子490-1)」に、

移り住んだと言うことです。(可児市教育委員会)説明板より。

 

 (森家家系図)

 

 「森武蔵守長可(ながよし)」鉄砲で撃たれ、

 落馬した森武蔵守長可(ながよし)」

「小牧・長久手合戦・屏風図」より。

 

  

 


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