はね橋跡・至可児兼山城へ 現はね橋
中央山頂土田城 可児川渓谷
はね橋跡 現はね橋
はね橋より土田城 はね橋跡
*森武蔵守長可(ながよし)の首・通行不可! 「刎(はね)橋」!
*岐阜県可児市土田4683-2
小牧・長久手の戦いで敵方の流れ弾が「鬼武蔵長可(ながよし)」の眉間に当たり討死。
家臣達は、遺体を居城の兼山(美濃)に運んで、手厚く葬ろうと決定。
しかし長久手から北え向かうには、家康の本陣がある小牧の下を通らねばならなかった。
この難関を突破するため、遺体の胴と首を分けて、まず胴を埋め首を大切に抱えて、
犬山から石原土田へ間道を抜けようとした。処が、土田城主「生駒氏・(徳川方)」が、
ここを通るに違いないので、それを横取りして、徳川家康に差し出そうと待ち伏せていました。
遺体は木曽川手前の土田の、刎橋(はね)の見える所までやってきたとき、見張りが
飛んできて「刎橋」(はね)に、敵の一団がいるために通れない事を知らせた。
*「刎橋(はね)」とは?
*(必要なとき以外は、綱で吊り上げて通れぬように考えた橋!)
小牧山の難関は胴を捨てて、首だけにする事によって通れたが、刎橋(はね)を、
落とされては兼山へ帰ることが不可能。そこで涙をのんで「石原の真禅寺」に戻り、
首を浦山に丁寧に葬った。この後「森忠政(長可(ながよし)弟(後・備中・津山
城主・森忠政公)が跡を継ぐと、長可(ながよし)の妻は、自ら二児を連れて、
「真禅寺」のある「石原地区」に、移りすんだと言われている。
(可児市教育委員会)説明板より。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます