南京大虐殺記念館より
ユネスコに慰安婦と併せて南京大虐殺を申請した中国ですが、2014 年から毎年12 月 13 日を、南京大虐殺の犠牲者の国家記念日と設定しました。(每年12月13日南京大屠杀死难者国家公祭日)
12月13日の式典で、習近平主席は「虐殺の事実を否定することは許されない」「南京大虐殺の否定は歴史が許さない。30万人の犠牲者の亡霊が許さない」「歴史を忘れることは裏切りを意味し、罪を否定することは再び罪を犯すことを意味する」と訴えました。約1万人が参加した江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」の式典で習主席は、安倍政権をも強く牽制した様子です。「一部の軍国主義者が侵略戦争を起こしても、その民族を恨んではいけない」と述べ、煽られた若者に広まった日本への偏狭な反日感情への牽制もしたようです。
台湾も12月13日、旧日本軍による「南京事件」に関する声明を発表、「第2次大戦の歴史の傷に向き合い、過ちを認める勇気を示してほしい」などと日本に呼び掛けています。「日本の一部に南京事件を軽視したり否定したりする人がいるのは遺憾だ。歴史の誤りは許せるが歴史の教訓は忘れてはならないと考えている」と馬総統は述べました。
香港でも12月13日、旧日本軍による南京事件の犠牲者らを悼む式典が開かれ、梁振英行政長官や林鄭月娥政務官ら政府幹部、立法会(議会)議員らが出席しました。
1937年に盧溝橋事件(七七事変)を契機として始まった日中戦争において、上海では日本軍の猛攻が続き、当初攻勢的だった国民党軍は20万人以上の死傷者を出してほぼ壊滅。日本軍は11月9日上海市を制覇します。当時上海にいたイギリス「マンチェスター・ガーディアン」のオーストラリア人記者のティンバリーが南京城内の安全区委員会のアメリカ人ベイツらからの通報で「長江(揚子江)デルタで市民30万人以上が虐殺された。」という情報を、本社に電報しようとして、日本の検閲官に差し止められました。それは、日本の外務省により広田弘毅外相名でワシントンの日本大使館に転送されました。これをアメリカが傍受解読し、日本が30万人虐殺を認定したかのような誤解が生じたとも言われています。しかし、裏を返せば30万人の虐殺情報を最初に広めてしまったのは、日本自身です。しかも当時の日本政府は国内報道は隠蔽する一方で対外的には否定もしませんでした。戦前の大虐殺大国はナチスドイツが有名ですが、因みに国連を脱退しそのナチスと同盟を結んだ歴史の立役者でもある松岡外相は現安倍首相の親族にあたります。
翌年ティンバリーは「戦争とは何か中国における日本軍の暴虐」を出版し上海から南京に至る被害者を30万人と記載もしました。翌年1月10日にベイツが南京から書いた記事には、「一万人以上の非武装の人間が無残にも殺されました。」「一般市民も、別に兵士であったという理由がなくても、かまわずに銃殺されたり、銃剣で刺殺されましたが、そのうちには少なからず婦女子が含まれた。」とありました。アメリカのライフ誌は1938年1月と5月に日本軍の南京の虐殺について反戦の観点から特集記事を組みました。
「南京大虐殺」の本質は、日本軍がそれまでも、ごく普通に行った、一般市民への略奪や蛮行に伴なう虐殺ではありません。(実際に、一般市民への蛮行は、それまでも日本軍の日常でした。1933年5月31日、河北省塘沽において日中の停戦協定が結ばれるまで満州での無抵抗な中国軍との戦闘行為は続きました。その満州事変での日本軍の戦闘の残虐さについて、日本国内ではあまり報道されませんでしたが、わずか5ヶ月の間に満州全土を占領した関東軍の強引な軍事拡大行動には、無数の民間人への無差別虐殺行為が含まれていました。例えば、日本では東北部のゲリラ掃討事件としてしか報道されませんでしたが、同年1932年9月16日、連寧省の瀋陽市の隣の撫順市にある撫順炭鉱の近郊、平頂山村において、関東軍は村のほとんどの住民・約3000人を一ヵ所に理由も告げずに集合させ、いきなり機関銃掃射と刀により、住民の殆どを虐殺しました。虐殺死体は、その場で焼き埋めました。その結果、平頂山村が壊滅する事件がありました。)
南京では欧米の宣教師らが南京安全区国際委員会を作って南京市民の保護に当たっていました。日本の外交官に手紙や要望書を出されていたため、宣教師らが管理した安全区を日本軍は攻撃せず、日本はむしろ国際批難を意識して、それまで、戦地食料調達の戦略で略奪を繰り返してきた、日本軍は、南京入城を平和に演出したのです。実際、当初は平和的に振舞っていました。
しかし、日本軍の予想に反して陥落時に大量に発生した投降兵捕虜への処断行為や安全区に逃げ込んだ「便衣兵」への処断行為が、戦時国際法に照らして、はたして適正なものであったか・・・日本軍がそれまでも、ごく普通に行った、一般市民への略奪や蛮行に伴なう虐殺とは桁違いである点・・それが大量虐殺か処断かという史実こそが「南京大虐殺」問題の核心です。人数が本質ではなかったとはいえ、量が質を変えるものです。しかし、12月からの虐殺30万が正確でないにしても、1937年8月に日本軍による南京の空爆が開始され、それは3カ月間も続きました。南京空爆の開始前には101万都市だったのです。疎開や爆死も含め実際に、50万人近くの人口が減りました。無差別空爆も一種の虐殺行為です。
そして、12月入城後は、事実として「抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井大将の命令」があり、日本軍の一旅団で千や万単位での捕虜の大量処断がありました。(南京に日本軍の部隊は十個の旅団が参加しています。)
処断の対象は捕虜と言う人間の処分であり、その意味では虐殺は何度もありました。しかし、当時の日本は日中戦争を支那事変と称して「戦争」と認めなかったため、国際法の適用も一切意識をしなかったのです。日露戦争でも太平洋戦争でも、日本軍は捕虜収容所を各地につくりましたが、日中戦争では、捕虜をつくってはならない事変であったため中国人捕虜収容所はなく、日本軍は大量捕虜を「処断(虐殺)」するしかなかったとも言われます。
(日本軍は、太平洋戦争では、米国、英国、カナダ、オーストラリア、オランダ、フランスなど6カ国の欧米人捕虜をジュネーブ条約に基づいて収容・保護しました。太平洋戦争の緒戦において、日本軍は当初予想外の大勝利を収め、東南アジアや西太平洋の占領地域で多数の欧米の連合軍兵士を捕虜とし、その数は最終的に約35万人に及んだため、国内外に欧米人の捕虜収容所が作られました。しかし、日中戦争では、圧倒的に大量に発生した中国人捕虜の収容場は継続して作られなかったのです。捕虜を解放したわけでもありません。そもそも、日中戦争では、皆殺し(捕虜を取らない)か、捕虜は処断(虐殺処分)したのです。その人数を実質虐殺だと言えば、実は途方もない人数になります。南京では、安全区に逃げた敗残兵まで虐殺しました。シンガポールでは、住民から華人を選別して虐殺しました。そして、実は中国人捕虜だけではありません。「生きて虜囚の辱めをうけず」という戦陣訓により、一般の日本兵に対しても戦果の悪化の下で自主の名の下で実質的な虐殺(玉砕・自決)が決行されました。)
日中戦争を事変と称したのは、中国との「戦争」資源をアメリカからの輸入に依存していたからと言われています。当時のアメリカは、中立法を制定しており戦争国には戦略物資を輸出できなくなるから、日本は、戦争ではなく事変と称したのでした。
国共合作に至った蒋介石・国民党のアメリカを対日参戦させるための宣伝工作の捏造と言うのも俗説に過ぎません。南京を追われた国民党は、1937年11月に中央宣伝部に国際宣伝部署を設置しましたが、1937年12月1日から1938年10月24日までの間に、その国際宣伝部署は漢口において約300回の記者会見を外国記者に行っていますが、その記者会見においても、欧米社会で日本軍の蛮行への批難の高まった南京虐殺については、触れていないのです。それは、国民党自身も虐殺や蛮行を行ったからだとも言う人もいます。日本軍の蛮行を告発したのは、国民党ではなく欧米の宣教師や学者やジャーナリスト達でした。国民党の宣伝工作の捏造などではありません。
戦争に中立を保った当時のアメリカは1937年5月改正の米中立法では戦略物資については交戦国による「現金・自国船」条項を設け(現金で支払い、自国船で輸送する国には販売を認める)ましたが、ルーズヴェルトは日本が日中戦争を支那事変と称して「戦争」と認めなかったため、中立法の適用をまだ拒否続けていました。事実として、蒋介石を支持したアメリカですが一方で親日国・日本にも日中戦争のための戦略物資をまだ提供していた時代でもありました。1939年に日本の中国侵略を認定したアメリカは日本に抗議して日米通商航海条約は破棄通告となります。アメリカの捏造などではありません。
これを戦後の1946年から1948年の東京裁判で、日本に対する原爆投下をはじめとする都市の無差別爆撃という残虐行為の罪を免罪させるため日本軍の「南京大虐殺」がアメリカによって捏造されたと言う近年の日本の一部の論者は、歴史事実だけでなくその時間軸さえも偽るものではないでしょうか。南京裁判でも東京裁判でも当時の日本は、戦争責任は無かったと主張した者でさえ、反論もせずに、南京大虐殺の事実認定は受け入れていました。それが捏造だったと言う主張は、実際、戦後体制や東京裁判を受け入れた、当時の日本の昭和天皇・吉田茂も、その捏造の共犯者であると主張しているようなものです。ある種の論理破綻さえきたしています。
一部の慰安婦に係る誤報を朝日新聞の捏造批難キャンペーンにしたてた歴史偽造の絡みで、かつての朝日新聞記者の本多勝一氏の南京大虐殺に関連する記事での「百人斬り競争」の紹介をフィクションだとしたイザヤ・ベンダサン・山本七平氏の論考などを再度主張する最近の日本マスコミの歴史偽造の論調も同様です。戦前の東京日日新聞記事や人数が戦意高揚のための創作記事であったとしても、問題の核心は、それが当時の日本国内の正式報道であり、その背景は日本軍の捕虜の試し切りの虐殺行為が当時の日本社会では周知の常識であったことの反映にすぎないことでした・・。(確かに、戦前に誇張報道された一部の将校らが見せしめ的に戦犯処理の犠牲になった悲劇の一方で、殆どの捕虜の試し切りの虐殺行為は、戦犯を免れたと言う矛盾の敗戦処理でしたが・・・)日本人は一時の過ちの歴史に卑屈になる必要もなく逆に戦後の平和の歴史を誇ればいいのですが・・。戦前も過ちを犯さなかったと偽る一部の人々行為が新たな怒りの火種にも、反日の口実ともなってしまいました。
(「百人斬り競争」については、戦前に報道された旧日本陸軍大尉自身が故郷鹿児島県において地元の小学校や中学校で100人斬りの捕虜殺害を自ら公言し吹聴さえもしていた事実や、将校らが戦前の東京日日新聞に協力して記事が作成された事実がある一方で、戦後も名誉を重んずる将校らの遺族3人が、戦前の東京日日新聞記事を引用して報道した本多勝一氏が、事実無根の報道をしたとして、朝日新聞社等と共に謝罪や損害賠償を求める訴訟(2006年最高裁は上告棄却)まで起こすと言うバッシングもありました)。
「日本兵が現れて、若い女性を見つけ次第連行していった。彼女たちはすべて強姦されたが、反抗して殺された者もかなりあったという・・川岸は水面が死体でおおわれ、長江の巨大な濁流さえも血で赤く染まった・・強姦のあと腹を切り開いた写真。やはりそのあと局部に棒を突立てた写真・・日本軍は機関銃、小銃、手榴弾などを乱射した。・・水ぎわに死体がぎっしり漂着しているので、水をくむにはそれを踏みこえて行かねばならなかった。・・逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた。・・赤ん坊を抱いた母をみつけると、ひきずり出して、その場で強姦しようとした。母は末子を抱きしめて抵抗した。怒った日本兵は、赤ん坊を母親の手からむしりとると、その面前で地面に力いっぱいたたきつけた。末子は声も出ずに即死した。・・永利亜化学工場では、日本軍の強制連行に反対した労働者が、その場で腹をたち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。・・」1971年の本多勝一氏著の「中国の旅」には、確かに、1997年発刊のアイリスチャンのザ・レイプ・オブ・ナンキンに負けないほどの猟奇的蛮行の市民証言もありました。写真にも誤りがありましたが、市民証言の内容自体は一部の旧本兵の証言にも一致する事実です。(1971年と言えば、キッシンジャーも非公式に訪中しています。当時の中国は国民党が台湾に追いやられて20年以上も経過していましたが、中国と日本・アメリカとの正式外交がまだない時期で、前年の1970年には、第25回国連総会でアルバニアが提出した中国の常任理事国入りの決議案が「賛成51・反対49・棄権25」とようやく賛成票が反対票を超えた時代でした。1970年代に国務院の陳副総理が日中戦争のとき「漢奸」(日本軍協力の裏切り者)だったと告白した際、毛沢東は「日本人はわが救命恩人だ。」と述べて漢奸さえも容認したと言われてます。その後の日中国交正常化では、日本への賠償請求権さえも放棄しました。(一方で日本は韓国、フィリピン、ベトナム、ビルマ、インドネシアに対しては戦後賠償をしています。)当時の中国の支配層の意思は、戦争の傷がまだ残る市民感情とは真逆であったようです。今日は、逆に侵華日軍南京大遇難同胞紀念館、平頂山殉難同胞記念館、七三一細菌部隊犯罪証拠陳列館などで党が進める愛国心・宣伝に戦前を知らない一般市民の感情が逆に感化され極端に煽られているようです。)日本の関東軍の戦争犯罪に関する今日の中国側の主張の根拠は1950年に吉林省の工事現場で発見され、吉林省公文書館に保存された1931年から1945年までの関東軍の内部資料などが大きな証拠になっている様子です。
(現代版の虐殺と言えば、堕胎中絶もそうではないでしょうか?。カソリックは中絶にも罪の意識があります。中国での過去40年間に行われた胎児の中絶は3億3600万件とも報道がかつてされていました。中国衛生部のデータだそうです。 中国は1979年から一人っ子政策を開始して、主に女の子の中絶の氾濫で、男性が女性より約3400万人も多くなり、未婚男性が大量発生するだろうという深刻な社会問題が起きていますが、1982~92年の間の中絶のピーク期で、毎年約1000万の妊婦が中絶したと言われ。1983年と1991年ではその数字がさらに1400万にまで跳ね上がり、一人っ子政策の緩和となった1990年代後半以降も、毎年約700万件の中絶が行われていると言われますが、これは誰も語らない文革時の隠蔽された虐殺以上のある種虐殺なのかもしれません。(誰もかたらないと言えば、近年も1991年には無抵抗の市民デモにインドネシア軍が無差別発砲し400人近くの一般市民が虐殺されたサンタクルス事件や1989年の中国天安門事件なども、あまり報道されないように情報統制がされているようです。)一方、スペイン高裁は、自国籍のチベットからの亡命者の訴えを受け江沢民元主席や李鵬元首相ら5人を「1980~90年のチベットでの大量虐殺、拷問、人道に対する犯罪に関与した容疑」で国際手配しています。また、習近平主席も、2009年7月5日にウイグル自治区ウルムチ市で発生した「騒乱事件:ウルムチ虐殺事件」の責任者とされてウイグル族から批判もされています。)
実際のところ、戦前では、ナチスのユダヤ人虐殺とアメリカによる広島・長崎への原爆の虐殺と並んで、南京大虐殺(Nanking Atrocities)は世界でも有名な史実です。(関東大震災時の日本市民の手による朝鮮人・中国人や左翼主義者への虐殺はあまり知られていません。)過去は、どのように評価しようとも変えることはできません。過去の歴史を振り返り、今日の姿勢を反省してこそ、未来への教訓とできるものだと思います。
戦後の近年の東アジアにおける大虐殺と言えば、朝鮮戦争時代や李承晩の保導連盟事件(赤狩り・共産主義者を虐殺)、ベトナム戦争でのアメリカ・韓国軍によるベトナム人民の虐殺、ロシアのチェチェン紛争やカンボジア内戦の大量虐殺、インドネシアの赤狩り(共産主義者を虐殺)等が大量虐殺として有名です。
そして世界では、中東紛争やルワンダや数々の民族対立の大虐殺事件も絶えませんが、日本と韓国に係わる最も身近な大虐殺と言えば、アフガン・イラク戦争でしょうか?。
2011年に米国研究者グループが推定したアフガン・イラク戦争の死者は22万4000人で、このうちイラク、アフガン、パキスタンの一般市民の死者は17万2000人とも発表していましたが、かつてアメリカCIAが育成したアルカイダの9.11テロへの報復との濡れ衣で、大儀もなく、一方的に仕掛けられた戦争であり、その一般市民も含めた犠牲者は、明らかに、近年における、もっともひどい大虐殺ですが、日本・韓国をはじめ、南京大虐殺を認める欧米諸国でも、アメリカの「正義」に加担した国々では、それを決して大虐殺とは言わないようです・・。(しかし、アメリカの育てたテロリスト達は、未だもって、テロを繰り返し、その憎しみの連鎖は終止符を打っていません。暴力を暴力で押さえ込むことは原爆でも、国を滅ぼす戦争を持ってしても不可能なのに、玉砕を志向した戦前の日本やベトナムの経験から未だにアメリカは学んでいない結果ということなのでしょうか・・。9.11テロを口実に、アメリカは「愛国法」をもとに、国内では疑わしい容疑者の尋問、拘束、電話の盗聴などを実施し、かつての自由の国は、情報統制国家に変質しただけでなく、海外では9.11テロへの百倍返し以上の、虚構のロジックに基づく復讐戦争を、アフガンとイラクに対して起こし、旧政権の国家を葬り、かつての正義の国は、卑劣な国へと変質しました。しかし、その結果、今日も更なる憎しみの連鎖と卑劣行為の逆襲のテロを産み出し続けています。もう、世界の4人に一人(16億人)を占めるイスラム圏の平和を求める人々との連帯なくして世界はジハード(復讐聖戦)口実の卑劣なテロの追放もできません。)
(アメリカCIAと言えば、上院報告で、ブッシュ政権時代にCIAがテロ容疑者に残虐な拷問を行った事実が公表され、12月11日にブレナンCIA長官は「過去の尋問を巡る論争より、目の前の安全保障に集中すべき」「(拷問で)有益な情報が得られたと開きなおった様子です。2004年の内部告発でも、イラクのアブグレイブ刑務所でアメリカ軍は捕虜に対して、組織的に虐待や拷問をしていたことが報じられていましたが、今回の報告書でCIA自らも拷問を実施していたことが明らかになりました。)
秦淮景
秦淮景は、2011年に中国で大ヒットした張芸謀(チャン・イーモウ)監督の映画The Flowers of War 金陵十三钗の挿入歌です。他の南京事件の映画と同様に、この映画も日本での配給ができていません。
1937年の南京へ侵攻してきた日本軍から迫害を受けて教会に逃げ込んだ中国人女子学生と娼婦らを教会の納棺師ジョンが救います。長谷川は女学生たちを保護する約束をし、女子学生等が日本軍のパーティーに参加を要求、女子学生たちを助けるために、一緒に避難していた12人の娼婦と1人の少年が女子学生に扮装し身代わりとして日本軍の南京陥落パーティーに赴き、女子学生たちは南京から脱出・・。芸術的に高い評価の反面、ストーリーはフィクションと分っていても、日本軍によるリアルな性的虐待や南京侵攻の戦闘シーンなどが、反日感情を肥大化させたとの批判もあるようです。
(背景には中国戦線で日本軍が慰安婦を現地の一般の中国婦女子から調達した事実がありました。中国住民は地域安全を守るために、日本軍の供出に協力もさせられ、いわば純真な婦女子が人身御供のように日本軍の被害者にもなりましたが、戦後も悲劇が続きました。新生中国の裁判所では、その犠牲者を日本軍の協力者として長期の強制労働刑にし、文化大革命の際は反革命主義者として投獄もされ犠牲になり、生き残った人々も殆どいなくなったったといいます。)
秦淮景
我有一段情呀
唱给诸公听呀
诸公各位静呀心静静心呀
让我来唱一支秦淮景呀
细细呀 道来
唱给诸公听呀
秦淮缓缓流呀
盘古到如今
江南锦绣
金陵风雅情呀
瞻园里 堂阔宇深呀
白鹭洲 水涟涟
世外桃源呀