学校教育を考える

混迷する教育現場で,
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教育のグローバル化を考える

2014-10-04 | 教育
これからの社会では,グローバルに活躍できる人材の育成が必要であり,国際的な相互交流もますます重要になるということで,教育のグローバル化(いまのところその実態は実質的には英語に過度な比重をかけるやり方に限定されている)が急速に進んでいる。このような教育の動きをみるにつけ,教育は一体何のために行っているのかという疑問が頭をもたげてくる。他国の植民地であったがために自国の文化に壊滅的打撃を受け,もはや自国の言語では文化の進展を望めない状態でもなく,つい最近まで鎖国していて外来文化の取り込みを急務とする状態でもない現在の我が国において,小学生に英語を必修化し,高校の英語授業はすべて英語で行うなどという不思議な政策をとる背景が前述の疑問と重なり合うのである。あるひとりの子どもが一生のうち,外国人と英語を用いて生活を共にする状況はどの程度の確率で起こりうるのか,そのことを冷静に考えてみればよい。そのような状況の起こる蓋然性が高いからこそ,すべての子供に対する英語教育重視政策に出ているのであろう。そうすれば,文部科学省あるいは政府の思い描いている将来像というのは,我が国を英語を共通言語とする多民族国家にしていく予定であるか,あるいは我が国を捨てて子供たちを世界に離散させる予定であるかのどちらかの状況しか思い浮かばない。経済状態がどうあれ,我が国が我が国としてまがりなりにもいまとあまり変わらない形で独立を保ち続けるとすれば,大多数の国民は,海外旅行などの場合以外は,英語とは無縁の一生を過ごすはずである。さらに,公教育は優れた人材育成のためにだけあるのではない。優れていようといなかろうとあらゆる能力の子どもたちが,その能力に応じて国民という国家の担い手となれるようにとの願いで行われているのである。優秀な人材が我が国を支えているのではない。勤勉で親切で努力を惜しまない名もなき人々が我が国を支えているのである。公教育とくに義務教育の使命は,そのような無名の人々を育てることにこそある。そのことを文部科学省は忘れてしまったようである。

優秀な留学生をわが国に呼びよせるために大学での英語授業を推進などということも考えているようだが,不可能である。優秀な留学生であれば,言語的障壁があっても,それを問題にはしない。それよりも,我が国に学ぶべきものがあるから留学してくるのである。日本語は海外の優秀な留学生にとって学ぶべき魅力的な対象である。にもかかわらず,我が国においても英語でしか学べないのであれば,わざわざ日本に来る必要はなく,英米に行けばよいだけのことである。その結果,優秀な留学生は日本に来ないということになる。

また,教育のグローバル化を推進するにあたって,我が国の伝統文化の尊重がセットになっているが,これも無理である。グローバリゼーションというのは,国境を曖昧化する結果を生むので,伝統文化の尊重というような国民国家の残滓ともいうべきものは,早晩捨て去られる運命にあるのである。わが国の伝統的な価値観を身に付けた人間が,グローバルな尊敬を勝ち得るというような牧歌的な図式は,19世紀的なものであり,西欧がまだ東洋のエキゾチシズムへの憧憬を抱いていてくれた時代の産物に過ぎない。グローバリゼーションの時代にあっては,コスモポリタンな倫理が創出されるか,もしくは大国の論理に飲み込まれるのである。いや,もう飲み込まれている。自国の言語をもち,その言語が十分高度な文化的要請に耐えられるにもかかわらず,グローバル化の名のもとで英語の教育にこのように狂奔する姿をみていれば,我が国はもうアメリカになりたいのだと思えてくる。しかし,アメリカの方がそれはお断りというかもしれない。