ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のためにその215-Sapna Mukherjee

2016年02月24日 | ワールドミュージック
幻の音源入手。

私は気に入った音楽があると、必ずと言って良いほど、CDを購入する。
今流行のMP3は、殆どダウンロード購入はしない。
以前このブログに投稿したとおり、MP3は音が悪い。しっかりしたオーディオシステムで聴くと、その音の薄さに閉口する。
よって、どうしても気に入った楽曲を聴くと、その楽曲が収録されたCDを購入する。
私の現在一番気に入って聴いている音楽ジャンルは「ワールドミュージック」である。特にアジア圏の音楽を好んで聴いている。
ここに問題がある。
私の聴いている音楽ジャンルのCDは、一般の流通ルートに乗りにくい物ばかりなのだ。
なので、以前このブログに投稿したように、輸入代行を探して、CDを購入しなければならなくなる。
アジア音楽には「暗黙の了解」があるようで、発売直後のCDも、あっというまにMP3の違法アップロードとして取り扱われる。
基本的に、MP3違法アップロードファイルは、ダウンロードも無料なので、皆そちらのファイルを入手し、音楽を聴いているものと思われる。
そうなると、売り手側の方も、国内向けにはCDの販売をするが、国外に向けてはCDの販売をしないようになる。
海外に行ってCDを買う。このようなバカバカしいことは出来るはずもない。
このことが目下、私の悩みでもある。
今まで気に入った楽曲の収録されたCDは、殆ど入手した。
しかし、どうしても入手できなかったCDがあった。
今回紹介する、インドの「Sapna Mukherjee」の「Hai Mera Dil」と言うCDだ。
このタイトル曲は、十年以上前にあるきっかけで聴き、とても気に入り、気になっていた。
しかし、その時にCDを購入しなかった。何故購入をしなかったのかは、自分でも定かでない。
昨年あたりから、このことが気になり、CDを探してみた。
しかし、MP3のダウンロード販売はあるものの、CDは販売されていなかった。
また、CDの発売時期もあやふやである。
明らかに、十年以上前の発売にもかかわらず、MP3のダウンロード販売の記載には2013年発売となっている。
初版発売後、リイシューされたのか、理由のほどは判らない。
散々、検索を繰り返したが、CDの販売は確認できなかった。
しかし、あるサイトにCD音源と同様の「WAV」音源があることを見つけた。
理由があり、そのサイトを紹介できないのは、お許し願いたい。
私はそのWAV音源を、金銭を支払い、購入した。
後はCD-Rに音源を書き込めば、CDは完成する。
幸いなことに、私は「ヤマハ」が昔PC用に販売した「オーディオマスター」機能搭載のCD-Rを所有している。
「オーディオマスター」とはPCでCDを作成する場合、音源重視でCD-Rにデータを書き込む機能である。通常のCD-Rより優秀な、CDをPCで作成することができる。
CDの作成は未だ行なっていないが、これで主だった購入希望のCDは入手できた。
「CDが販売されていなければ、自分で作る」マニアックな自分をまた晒してしまった。

下にタイトル曲を貼った。
今となっては、古い手法のMVだが、当時流行の手法を取り入れた秀作である。
是非、お聴きになって欲しい。

SAPNA MUKHERJEE HAI MERA DIL official full song video

明日のためにその200-psy

2016年01月21日 | ワールドミュージック
韓国の変なおじさん。

以前から韓流ブームと言われ、韓国のカルチャーがもてはやされている。
一説には業界の仕掛け人がおり、針小棒大にパブリシティーを展開しているとも言われている。
音楽の世界で言えば「K-POP」のジャンルは定着化しており、少女時代をはじめとするガールズグループなど人気が高い。
以前このブログでもK-POPが定着化する前の「あだ花」的な存在として「aida」を紹介した。その時も「彼女達が売れなかったことが、K-POPへの警鐘になっている」と書いた。
私的意見ではあるが、K-POPは欧米をターゲットにした楽曲作りになっていて、私自身何の面白みも感じていない。
今まで紹介したワールドミュージックの楽曲の様に、地域臭さが無いのが最大の欠点である。
韓国が近代化したのは最近である。日本の歌謡曲等、日本文化の韓国での開放は最近の出来事だ。
よって、韓国のポピュラー音楽の形成に至る歴史の浅さが、K-POPの基盤の弱さになっているのはしかたがない。
しがし、欧米を意識した音楽作りには感心できない。
だが、最近韓国の面白いアーティストを発見した。
デビューは一昔以上前なので、既に知っておられる方も多いかもしれない。
それは「psy」である。
略歴を紹介しよう。

psyことパク・ジェサンは1977年産まれの38歳。
韓国のソウル特別市江南区に生を受ける。
地元の小学校~高校で教育を受け、大学はアメリカのボストン大学に学ぶ。その後バークリー音楽学院へ編入したらしいが、確かな形跡はないという。
2001年音楽界デビュー。その後大麻事件を起こしたり、徴兵を免れるためにソフト会社に勤務する。
その後発表したCD「PSY6甲」がヒットし、世界的に有名になる。
2013年、楽曲「ジェントルマン」を発表、これもヒットし、現在に至る。

以上が彼の略歴である。何かと問題の多い人物像が浮かんでくるが、確かに一癖ありそうな輩だ。
私は最近だが、あるきっかけで彼を知り、ヒット曲「江南スタイル」を聴いてみた。
面白い、キャラクターにも一癖あるが、楽曲にも一癖ある。
独特のグルーヴ感があり、結構私自身の好みである。
やはり音楽は「音」を楽しまなければいけない、私は彼の楽曲にそれを感じた。
つまらないと思っていた「K-POP」界に、面白い男が出てきた。
今後の彼の活躍に興味がそそられる。
下に「江南スタイル」の動画を貼った、一癖あるその世界を堪能いただきたい。

江南スタイル

明日のためにその182-ヌスラト・ファテー・アリー・ハーン

2015年10月14日 | ワールドミュージック
ヌスラト・ファテー・アリー・ハーン、魂のカッワーリ。

昨日、グーグルのトップ画面を見て驚いた。
なんと、トップ画面のイラストが、パキスタンの名歌手「ヌスラト・ファテー・アリー・ハーン」(以下ヌスラト)になっていたのだ。
昨日は、ヌスラトの生誕67周年と言うことだ。日本でもある手度メジャーな彼であったが、まさかグーグルのトップを飾るとは思ってもみなかった。
ヌスラトの略歴は次のとおりである。

ヌスラトは1948年パキスタン生まれ。父親は有名なカッワーリの演奏者だった。
幼くして、才能を発揮したヌスラトは、父親からカゥワーリの訓練を受けることとなる。
しかし、ヌスラトが16歳の時、父親が死去、ヌスラトの訓練は叔父に引継がれることとなった。
1965年、ヌスラトがリーダーを務めるグループを結成、同年ラジオにてそのグループはデビューを果たす。
その後アルバムを発表、彼は西洋での公演を積極的に行い、名声を博す。
1992年、日本公演が実現、彼の名は日本でも知られるようになる。(ちょうど日本における、ワールドミュージックブームの渦中であった)
1997年肝臓移植を受けるための移動途中で死去、48歳という若さであった。

以上がヌスラトの略歴である。
彼の歌うカッワーリは「魂のカッワーリ」と呼ばれ、聴衆を魅了した。
声を震わせながら発する、高音に特徴があり、これが聴くものの魂をも動かした。
ちなみに「カッワーリ」とは宗教歌謡のことである。
しかし、グーグルのトップ画面に、その姿を現すほど、彼の知名度が高かったのかは、若干疑問が残る。
個人的には、とても嬉しい出来事であったことに間違いはないが。

下にヌスラトの歌唱を貼った。
彼の歌声を、ご堪能いただきたい。

Haq Ali Ali Mula Ali Ali Manqabat by Nusrat Fateh Ali Khan

明日のためにその181-続新しい音楽が産まれる時の煌き

2015年10月12日 | ワールドミュージック
続、新しい音楽が産まれる時の煌き。

先週のブログで、新しいポピュラー音楽が誕生するときの「煌き」について取り上げた。
探せばあるもので、今回も1980年代初頭と思われる音楽を探しあてた。
先週はパキスタンの音楽だったが、今週はインドの音楽である。
インドと言えば「ボリウッド」が有名で、集団の男女が踊る華やかな映画が、観客を魅了している。
最近の「ボリウッド」音楽は、ヨーロッパ(特に英国)のクラブシーンに融合している。これを「クラブボリウッド」と呼んでいるらしい。
しかし、クラブシーンに飲み込まれた「ボリウッド」音楽は、洗練されてはいるものの、独自の個性がなくなり、私にとってはとても退屈な音楽になってしまった。
当のインド人達は、概ねこの変化を歓迎しているようだ。当人達が歓迎しているものに、文句のつけようは無い。しかし、ワールドミュージックとして聴くには、物足りない。
やはり、新しいポピュラー音楽は、その国主体で行なわれるのが最も良い。
前述のとおり、今の「クラブボリウッド」はヨーロッパ音楽に飲み込まれている、そこが良くない。
下に冒頭に書いた1980年代初頭と思われるインドの「ディスコ」音楽を貼った。
このような融合の方法が、一番正しいと思うのは私だけだろうか。

Disco Dancer - I Am A Disco Dancer Zindagi Mera Gaana - Vijay Benedict


Hum Kisise Kum Naheen - "Bachana aye Hasino"

明日のためにその175-Запрещённые барабанщики

2015年09月28日 | ワールドミュージック
ロシアの変なおじさんバンド。

以前このブログでウクライナの「女装歌手」を紹介した。
その時も書いたように、ロシアの音楽は基本的に短調で、そこに様々なリズムが乗ってくる。
どこか物悲しげ、これがロシアのポピュラー音楽である。
しかし、旧ソビエト連邦は広かった、それを形成していた国には、様々な音楽がある。
今回紹介するバンドは、ロシア出身の「Запрещённые барабанщики」変なおじさんバンドである。
このバンドは、1999年に結成されたと言う。そして今も現役だ。
バンド名は、どのように読むのか分からない。日本語直訳だと「禁止ドラマー」となる。
全く持って変なバンド名である。
かなりマイナーな存在なようで、ネットで探しても彼らの具体的なプロフィールは、検索できなかった。
私はちょっとしたきっかけがあって、このバンドの存在を知った。
そして、CDも輸入して持っている。
ロシアのバンドなのに、演奏する曲は南米のラテンサウンドなも演奏する。勿論ロシアのポップスも演奏する。
私にとっては、未だに謎のバンドである。
下に彼らの演奏のリンクを貼った。
その不思議なサウンドを、ご堪能いただきたい。

mama zuzu babulia - Запрещенные Барабанщики - Мама Зузу

明日のためにその172-ウイニー・シン

2015年09月21日 | ワールドミュージック
台湾の歌姫。

以前から、このブログで「歌姫」とは何かを取り上げてきた。
最近は、やたら声を張り、ロングトーンで歌う歌手を「歌姫」とJ-POPあたりでは、定義しているとおぼしい。
しかし、以前からこのブログでは、違う定義をしている。
本当に上手い歌手と言うものは、歌をさらりと歌いこなす歌手が「歌姫」に相応しいと。
かって、昭和の時代を彩った、日本の「歌姫」は数々存在した。
一方、アジア圏に目を向けてみると、非常に日本に近い存在の「歌姫」がいた。
それは、台湾出身の「テレサ・テン」である。
10代の頃から歌いだし、14歳でレコードデビュー、アジア圏で広く支持され、21歳の時日本でのデビューを飾る。
日本では、最初アイドル的な路線でデビューしたが、その後「ムード歌謡」路線に変更。
これが大いに支持を受け、日本でも彼女の人気は大いに盛り上がった。
しかし、1995年、42歳で夭折、日本ならずともアジア全体が「歌姫」を無くしたのだった。
その後彼女の意志は「フェイ・ウォン」に受け継がれる。
彼女も実に歌の上手い歌手である。
今、アジア圏の中ではトップの「歌姫」だ。
彼女のことは、知る人も多いだろう。有名なRPGゲームの主題歌を歌ったり、ウォン・カーゥアイ監督の「恋する惑星」でも主演をはたしている。
彼女は香港の歌手である。一方同じアジア圏で、香港に近い台湾はどうだろうか。
前述のとおり、台湾では「テレサ・テン」と言う偉大な「歌姫」を輩出した。
その流れは続いている。今も台湾には「歌姫」に相応しい歌手がいるのだ。
それは「ウイニー・シン」現在、台湾一とも言って良い「歌姫」だ。
彼女は、7年間声楽を学び、小学校1年生でバレエ、2年生でヴァイオリン、3年生でピアノを習ったと言う芸能の申し子だ。
その後、台湾の様々なコンテストで優勝を飾り、1986年にデビュー、以後安定した人気を誇る。
アジア圏(日本を除く)では、彼女の人気は不動のものだ。
しかし、何故か日本では彼女の人気をあまり聞かない。
原因は、パブリシティの少なさか、私は憶測するしかない。
今回彼女を紹介したのは、その素晴らしい歌唱のわりに、日本での人気がいまひとつ無いのが、非常に残念だったからだ。
下に「ウイニー・シン」の歌唱映像を貼った。
是非この機会に、その素晴らしい歌を聴いていただきたい。

ウイニー・シン 煙

明日のためにその169-カルメン・ミランダ

2015年09月14日 | ワールドミュージック
サンバの女王。

先週のブログで、ブラジルの「サンバ」ついて取り上げた。
その中で、男性歌手の代表として「シロモンテイロ」について紹介した。
今回も、ブラジルの「サンバ」歌手について、紹介したい。
通常なら「オルランド・シルヴァ」や「エルゼッチ・カルドーゾ」を紹介すべきだろうが、今回は違う歌手を紹介する。
それは先週のブログで、名前だけ紹介した「カルメン・ミランダ」である。
この歌手だけは、是非知っていただきたいので、今回のブログで取り上げることとした。
まずは彼女のプロフィールを紹介しよう。

「カルメン・ミランダ」は1909年ポルトガル生まれ、生まれてすぐに父親がブラジルへ移住したため、ポルトガルでの生活はごく短いものだった。
1929年にドイツにて初録音、1933年にレコード会社と専属契約を結ぶ。
以後1920~1930年代の、ブラジルでの「サンバ」黄金期にブラジルで人気を博す。
1939年アメリカでのデビュー、1950年代前半までハリウッド映画十数本に出演し、アメリカでの黄金期を迎える。
その後、人気に翳りが見え、1955年逝去、46歳。

「カルメン・ミランダ」を簡単に紹介すると上記のようになる。
私自身、アメリカに渡って、パブリックイメージを確立した彼女より、ブラジル時代の彼女の方が好きだ。
彼女の歌は、けれんみたっぷりで、スリリング、また、そよ風に乗る紙飛行機のような流麗な歌い方。その全てにおいて、1930年代の彼女と、対等に扱われる歌手はいないだろう。
私自身、彼女の歌を聴いて「世界の歌手の中には素晴らしい歌手がいるものだ」とつくづく感心させられた。
主に映画や、ブロードウエイで活躍していた時代を、私は知らない。
しかし、大体の場合、実力がある歌手でも役者でも、大舞台を踏み始めると、初心を忘れてしまい、その才能を無駄にしてしまう。
彼女がそうだったのか、それを見ていない私には評価できないが。
しかし、彼女の人気がアメリカでピークを迎えたとき、お金の話しかしなかったという噂が、ブラジルではまことしやかに流れたと言う。
そのようなことを、側聞すると、やはりブラジルでの黄金期の彼女の才能は、アメリカで100%活かされていたとは言えないだろう。
下に黄金期の「カルメン・ミランダ」の歌唱のリンクを貼った。
前述した、その素晴らしい歌唱を是非ご堪能いただきたい。

カルメン・ミランダ サンバの帝王

明日のためにその166-シロモンテイロ

2015年09月07日 | ワールドミュージック
サンバ界の名歌手。

熱いリズム、はじけるダンス、毎年行なわれるブラジルの「リオのカーニバル」は強烈だ。
この祭りの、下支えとなっている音楽は「サンバ」情熱的なリズムだ。
ブラジルの音楽も多彩だ。
「ショーロ」に「ボサノバ」そして「サンバ」代表的な音楽を挙げると、このようになる。
19世紀半ばには、演奏されていたという「ショーロ」1920年代から活発になった「サンバ」そしてこの中では最も歴史の浅い「ボサノバ」ブラジルは、様々な音楽を発信し続けた。
私は最初「ボサノバ」を主に聴いていた、王道であるが「アストラッド・ジルベルト」が好きで、彼女の声に癒されたものだ。
「サンバ」にも興味はあった、しかし、聴く機会が無くそのままになっていた。
「サンバ」は1920~1930年代に大きく発展した音楽で、その元になっていたのが、アマチュアのソングライターによる優秀な楽曲が殆どであった。
「サンバ」のソングライターで、忘れてはいけない人物がいる「ノエール・ローザ」である。
1910年生まれ、早くから楽器を弾き、ソングライターとして、頭角を現す。
しかし、破天荒な生き方が災いし、1937年26歳の若さで夭折してしまう。
私が「サンバ」を聴くきっかけとなったのは、この「ノエル・ローザー」を知ったおかげである。
また、「サンバ」と言えば二人の偉大な歌手達が思い浮かぶ。
一人は女性の「カルメン・ミランダ」もう一人は男性の「シロモンテイロ」今回はこの後者について紹介する。

シロモンテイロは1913年リオデジャネイロ生まれ、主に1940年代を中心に活躍した。
その風貌とは似つかぬ、ソフトで甘い声は広く民衆に受け入れられた。
彼は「エリゼッチ・カルドーゾ」や「イズマエール・シルヴァ」等に比べて、若干評価が低いのか、彼に関する資料は、残念ながら殆ど無い。
私も、本やネットで調べてみたが、彼の生涯を紹介するような記事は、見つからなかった。
しかし、彼が偉大な歌手であったことは間違えがない。
私は様々な音楽を聴いているが「シロモンテイロ」は記憶に残る名歌手であると言える。
下に彼の代表曲でもある楽曲を貼った。
是非、その歌声の素晴らしさを、堪能していただきたい。

シロモンテイロ おい、オスカル君

明日のためにその160-ヴェールカ・セルヂューチュカ

2015年08月24日 | ワールドミュージック
女装の麗人。

私は、ロシアの音楽もよく聴く。
ロシアの音楽は、短調を基本とし、寂しげなメロディーにアップテンポのリズムをつけたり、スローリズムをつけたり、様々なパターンがある。
他のポピュラー音楽にはない、独自の世界がそこにはある。
本日紹介するのは、ロシアと言っても、旧ソビエト連邦構成国「ウクライナ」のポピュラー音楽である。
その代表的かつ異色の存在として「Верка Сердючка(ヴェールカ・セルヂューチュカ)」を挙げるべきだろう。
彼は1973年にウクライナに生をうける。
彼の活動は幅広く、お笑いから歌手までこなすという。
2007年には「ユーロビジョン(EU加盟国で行なわれる歌謡コンテスト)で2位になったこともある。
彼は歌うとき、何故か女装をして歌う。
声も男性とも女性ともつかぬ、中世的な声だ。
何故彼が女装して歌うのか、私は知らない。
そこには、先日紹介した日本の「トニー谷」的な、異端芸が垣間見える。
彼のレパートリーは広く、アップテンポのリズムから、スローテンポのリズムまで歌いこなす。
一度知ったら、忘れられない存在になることうけあいである。
旧ソビエト連邦は東西に長い。
今後紹介する機会もあると思うが、旧ソビエト連邦構成国のポピュラー音楽は、万華鏡のごとく、様々な音楽が存在する。
皆様も、もし旧ソビエト連邦構成国の音楽を聴く機会があったら、色々な国の音楽を聴いていただきたい。
今は面白くなくなってしまった、日本や西洋圏のポピュラー音楽との違いを実感できるだろう。
下に「ヴェールカ・セルヂューチュカ」の、音楽のリンクしを貼っておいた。
是非お聴きいただきたい。

Verka Serduchka - Dancing Lasha Tumbai (Ukraine) 2007 Eurovision Song Contest


明日のためにその157-ダンドゥイット

2015年08月17日 | ワールドミュージック
インドネシア音楽が熱い。

以前にもこのブログに書いたが、世界初のポピュラー音楽は、インドネシアで生まれた「クロンチョン」と言われている。
16世紀、大航海時代にヨーロッパの列強国が、アジアの国を植民地化した。
そこで様々な文化が交流し、新しい物を生んでいった。
音楽もその一つで、当時ポルトガル支配下だったインドネシアで、ポルトガル船に乗っていた人々が、各国の音楽をインドネシアに伝え、さらにそれらが混合されて「クロンチョン」は生み出された。
日本でも、太平洋戦争後、松田トシが「ブンガワンソロ」と言う「クロンチョン」をリリースし、ヒットしたことは知られている。
その後、インドネシアにおける大きな音楽のムーヴメントはおこらなかったが、1970年代、音楽の一大革命が起こる。
「ダンドゥイット(dangdut)」の誕生である。
この「ダンドゥイット」は「ロマ・イラマ」と言う男性歌手が創作したものとされ、曲中に使用される打楽器「クンダン」のリズムを擬音化して命名された。
「ロマ・イラマ」に続き「エルフィ・スカエシ」と言う女性歌手がそれに追随し「ダンドゥイット」は広くインドネシア中に知られることとなる。
当初はアナーキイズムを持った歌詞が問題視されたが、徐々に「ダンドゥイット」は市民権を得た。
その後、一時期ブームは下火となり、以後の「ダンドゥイット」はどうなるのかと心配していたが、ここ数年ほど前から再ブームが到来、以後安定したジャンルとして音楽を提供している。
私が「ダンドゥイット」を知ったのは、25年ほど前になる。
当時インドネシアでは、レコードを製作しておらず、音楽媒体は全てカセットテープだった。
しかし日本のマイナーレーベル「スープレコード」が日本で独自にレコードを製作、私はそれを購入し「ダンドゥイット」を聴いていた。
そして、あるきっかけがあり、最近また「ダンドゥイット」を聴き始めた。
今や「ダンドゥイット」も多様化し「ダンドゥイットレゲエ」「ダンドゥイットディスコ」など新たなジャンルが生まれている。
しかしに問題がある。
日本でなかなかCDが入手できないのだ。
私はあることから、「ダンドゥイット」などを扱っている、ネット専用ショップサイトを発見し、そこでめぼしいものを購入している。
しかしそのサイトも万能ではなく、最近リリースされたCDについて問い合わせたが、扱いは無いと言う。
一説にはインドネシア盤よりマレーシア盤の方が入手しやすいらしい。
マレーシアは多くのインドネシア人が出稼ぎにいくという、そういう事情もありマレーシアでのCDリリースの方が本家のインドネシアより多いらしい。
私は今後も「ダンドゥイット」との付き合いを続けて行くつもりだ。

下に「ダンドゥイット」リンクを貼った。
今や大御所の雰囲気漂うベテラン歌手「イヌル・ダラティスタ」と若手歌手の「アユ・ティンティン」である。
熱いビートをご堪能いただきたい。

CEMBURU - INUL DARATISTA


Ayu Ting Ting - Single Happy