ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のためにその183-銀嶺の果て

2015年10月16日 | 邦画
初期の黒澤の要素がつまった作品。

映画において、もっとも重要なのは監督である。
監督の良し悪しで、映画の殆どは決まる。
しかし、それと同様に重要なのは、脚本であろう。事実、脚本に救われている映画も数多くある。
監督として有名な、黒澤明は、脚本家としてもいくつかの作品を残している。
今回紹介する映画は「銀嶺の果て」黒澤が脚本家として名を連ねている映画だ。
ストーリーを紹介しておこう。

或る銀行が、強盗に3人組みに襲われる。
その3人は北アルプスの雪深い山を逃走する。その途中で、仲間の1人は雪崩に飲み込まれ行方不明になる。
2人となった彼らは、更に逃走をし、その結果雪山のロッジにたどり着く。
身分を隠したまま、そのロッジに泊まることになった2人だったが......

この映画の見所は、迫力ある雪山のシーンだろう。
ほぼ全編ロケである、セットとして雪山が現れるシーンはないと記憶している。
かなり危険な雪山のシーンもあり、多分そこはスタントマンが俳優の代役をしているとおぼしい。
そして、この映画のもう一つの見所としては、黒澤明の要素がつまった脚本だろう。
カット方法、人物描写、音楽と映像のコントラスト、ヒューマニズム等、後の黒澤作品に必須の要素が随所にみられる。
ちなみに、三船敏郎はこの映画で銀幕デビューをしている。
この後、黒澤がメガホンを取る「酔いどれ天使」や「野良犬」での三船の演技も、ほぼこの映画で完成されている。
この映画自体も、ダイナミックな描写を上手く使った、完成度の高い作品となっている。
黒澤映画がお好きな方には、是非観ることをお勧めする。

1947年日本製作、1947年日本公開、モノクロ、88分、監督:谷口千吉

明日のためにその182-ヌスラト・ファテー・アリー・ハーン

2015年10月14日 | ワールドミュージック
ヌスラト・ファテー・アリー・ハーン、魂のカッワーリ。

昨日、グーグルのトップ画面を見て驚いた。
なんと、トップ画面のイラストが、パキスタンの名歌手「ヌスラト・ファテー・アリー・ハーン」(以下ヌスラト)になっていたのだ。
昨日は、ヌスラトの生誕67周年と言うことだ。日本でもある手度メジャーな彼であったが、まさかグーグルのトップを飾るとは思ってもみなかった。
ヌスラトの略歴は次のとおりである。

ヌスラトは1948年パキスタン生まれ。父親は有名なカッワーリの演奏者だった。
幼くして、才能を発揮したヌスラトは、父親からカゥワーリの訓練を受けることとなる。
しかし、ヌスラトが16歳の時、父親が死去、ヌスラトの訓練は叔父に引継がれることとなった。
1965年、ヌスラトがリーダーを務めるグループを結成、同年ラジオにてそのグループはデビューを果たす。
その後アルバムを発表、彼は西洋での公演を積極的に行い、名声を博す。
1992年、日本公演が実現、彼の名は日本でも知られるようになる。(ちょうど日本における、ワールドミュージックブームの渦中であった)
1997年肝臓移植を受けるための移動途中で死去、48歳という若さであった。

以上がヌスラトの略歴である。
彼の歌うカッワーリは「魂のカッワーリ」と呼ばれ、聴衆を魅了した。
声を震わせながら発する、高音に特徴があり、これが聴くものの魂をも動かした。
ちなみに「カッワーリ」とは宗教歌謡のことである。
しかし、グーグルのトップ画面に、その姿を現すほど、彼の知名度が高かったのかは、若干疑問が残る。
個人的には、とても嬉しい出来事であったことに間違いはないが。

下にヌスラトの歌唱を貼った。
彼の歌声を、ご堪能いただきたい。

Haq Ali Ali Mula Ali Ali Manqabat by Nusrat Fateh Ali Khan

明日のためにその181-続新しい音楽が産まれる時の煌き

2015年10月12日 | ワールドミュージック
続、新しい音楽が産まれる時の煌き。

先週のブログで、新しいポピュラー音楽が誕生するときの「煌き」について取り上げた。
探せばあるもので、今回も1980年代初頭と思われる音楽を探しあてた。
先週はパキスタンの音楽だったが、今週はインドの音楽である。
インドと言えば「ボリウッド」が有名で、集団の男女が踊る華やかな映画が、観客を魅了している。
最近の「ボリウッド」音楽は、ヨーロッパ(特に英国)のクラブシーンに融合している。これを「クラブボリウッド」と呼んでいるらしい。
しかし、クラブシーンに飲み込まれた「ボリウッド」音楽は、洗練されてはいるものの、独自の個性がなくなり、私にとってはとても退屈な音楽になってしまった。
当のインド人達は、概ねこの変化を歓迎しているようだ。当人達が歓迎しているものに、文句のつけようは無い。しかし、ワールドミュージックとして聴くには、物足りない。
やはり、新しいポピュラー音楽は、その国主体で行なわれるのが最も良い。
前述のとおり、今の「クラブボリウッド」はヨーロッパ音楽に飲み込まれている、そこが良くない。
下に冒頭に書いた1980年代初頭と思われるインドの「ディスコ」音楽を貼った。
このような融合の方法が、一番正しいと思うのは私だけだろうか。

Disco Dancer - I Am A Disco Dancer Zindagi Mera Gaana - Vijay Benedict


Hum Kisise Kum Naheen - "Bachana aye Hasino"

明日のためにその180-まりちゃんズ

2015年10月09日 | お笑い
異端のコミックソングバンド。

あれは1970年代中期頃だったろうか。
そのころ、私はラジオが好きで、深夜番組をよく聞いていた。
その私の耳に、驚くような楽曲が入ってきた。
今まで聴いたこと無いような、歌詞が異常に面白い楽曲だった。
軽快なテンポの曲調に、それに似合わない異端的な歌詞。それが「まりちゃんズ」の「尾崎家の祖母」と知ったのは、かなり後になってのことだった。
今回はこの「まりちゃんズ」について紹介する。
彼らの略歴について、紹介する。

メンバーは、藤岡孝章、尾崎純也、藤巻直哉。
当時の天地真理(以前このブログでも紹介した女性アイドル)人気に便乗し、グループ名を「まりちゃんズ」とする。
1974年に「ブスにはブスの生き方がある」でレコードデビュー。曲名からして、危ないこの曲はすぐに放送禁止になる。
そしてセカンドシングル「ひがみブルース」をリリース。このシングル盤のB面が「尾崎家の祖母」であった。
彼らはメジャーなステージに上がることなく、2枚のLPと3枚のシングルをリリースして解散。
その後、それそれ音楽バンドを結成したり、音楽プロデューサーになったりと、音楽関係の道を進む。

以上が彼らの略歴である。
私は後追いになるが、中古店で彼らのLPを購入したり、CD化された音源も買ったりしている。
とにかく、どの楽曲も面白い。
社会風刺があるわけでもない、本当の意味で「コミック」な楽曲なのだ。
1990年代初期に、あるFMラジオ番組で彼らの「尾崎家の祖母」を取り上げたところ、リスナーからの反響があまりにも多く、そのまま「尾崎家の祖母パートⅢ」をシングルCDでリリースした。
よって「尾崎家の祖母」は、パートⅠからパートⅢまで存在する。曲は全て同じで、歌詞だけ違うと言う、これも珍しい楽曲のリリースである。
下に「尾崎家の祖母」「尾崎家の祖母パートⅡ」の連続された構成のリンクを貼った。
特に「パートⅡ」歌詞内容に問題があり、放送できないものなので、聴くことができるのは、大変貴重である。
是非、彼らの異端的世界を堪能していただきたい。
ちなみに「尾崎家の祖母」は「おざきけのそぼ」とは読まず「おざきんちのババア」と読む。

尾崎家の祖母、尾崎家の祖母PART II

明日のためにその179-google music

2015年10月07日 | 音楽サービス
google musicについて

以前このブログでも取り上げたが、ソニーのストリーミング音楽サービス「ミュージック・アンリミテッド」がサービスを終了して久しい。
しかし、最近幾つかの、新しいストリミング音楽サービスが開始されている。
それが「アップルミュージック」と「グーグルミュージック」だ。前者は私のPC環境では、利用できない、その事は以前もこのブログで取り上げたが、Win7以降のOSが必須条件になっているからだ。
そこで今回、3500万曲以上を保有すると言う「グーグルミュージック」を利用してみた。
以前利用していた「ミュージック・アンリミテッド」が1500万曲以上を保有していたので、その倍以上の楽曲を「グーグルミュージック」は保有していることとなる。
私は過大なる期待をして「グーグルミュージック」を利用した。また「ミュージック・アンリミテッド」の事を思い出しながら、それと比較しながら利用してみた。
結果から言うと、まずまずの感がある。
3500万曲と謳っているが、多分利用する国によって、楽曲の制約があるものと思われる。全ての曲が日本でストリーミングできるとは限らないのだ。
私は「ワールドミュージック」を基本的に好んで聴く、よって、それを「グーグルミュージック」で検索し、聴いてみた。
検索には少し手間がかかる。外国のアーティストを検索する場合、英語のスペルで検索する必要がある。
世界的に有名なアーティストであれば、日本語の入力でも検索できるが、私のように、マイナーなアーティストを検索するには、英語での検索が必須である。
検索の結果を見てみると、ある程度満足する結果が得られた。ただ「ミュージック・アンリミテッド」に比べると、満足度は少し足りないか。
便利な機能も持っている。
一度聴いたアーティストや、ライブラリーに登録したアーティストについては、自動的に似たアーティストのプレイリストを作成してくれる。
ただ、前述の楽曲放送制約の関係か、楽曲が登録されていても、再生できないことがある。
また、日本の楽曲については、J-POPは聴かないので分からないが、昔の歌謡曲については、やはり楽曲のストックが物足りない。
利用金額は税込で月780円。全体の使用感、楽曲の保有数からすれば、コストパフォーマンスは良いのではないだろうか。
私は有料会員として、しばらくこのサービスを利用するつもりである。楽曲保有数の増加に期待しながら。

明日のためにその178-新しい音楽が産まれる時の煌き

2015年10月05日 | 音楽
新しい音楽が産まれる時の煌き。

以前このブログでも書いたが、ポピュラー音楽とは、異文化の交流によって誕生する。
簡単に言うと、民族音楽と民族音楽のコンフュージョンがポピュラー音楽の元になる。
その世界最初のポピュラー音楽は、インドネシアの「クロンチョン」と言われている。
一方、ポピュラー音楽が、異文化ポピュラー音楽とコンフュージョンすると、どうなるだろうか。
これには、とても興味深いことが起こる。受け入れるポピュラー音楽の解釈の誤りが起こす一大カオスである。
日本に例えて言えば、1950年代から1960年代の「カバーポップス」流行時には、それは起こらなかった。
それは当たり前で、音楽そのものは、アメリカから輸入した旋律にアレンジを少し変え、日本語の詞を乗せただけのものだったからだ。
しかし、ビートルズが隆盛を極めた1960年代後半から、一大カオスが日本でも巻き起こる。
その代表例が「B級グループサウンズ」だ。
彼らはメジャーな「タイガース」や「スパイダース」とは違い、楽曲にひどい「勘違い」が盛り込まれ、その結果、とても珍しい「グループサンド」を生み出した。
同じことは、僅かではあるが、1960年代のカバーポップス隆盛期にもあった。
いつか紹介するつもりであるが、その代表例が、日本版「ツイスト」として発表されたジェリー藤尾の「インデアンツイスト」だろう。
だが、そのカオス的楽曲も、徐々に日本人的な解釈を深め、慣れてくるとクオリティの高い楽曲も作られるようになる。
そして、1970年代、世界の特にロック界が不確定な状況の中、日本のロックもようやく世界に追いついてくる。
しかし、やはり一番面白いのは、異文化ポピュラー音楽の初期の「誤った解釈」から産まれる「カオス的音楽の煌き」なのだ。
作った本人達は、全く持って真面目に楽曲を作っていると思っているが、後日それを聴いてみると、その本人達でも、赤面するのではないかと思うほど「大いなる勘違い」が、それを形成している。
やはり音楽は面白い。五線譜に音符を載せれば、それは全て音楽と解釈される。詞もその旋律に合わせたものを作れば、それはポピュラー音楽と呼べる。
しかし、解釈しだいで、今まで聴いたことのない、まさに「迷曲」が誕生する。
このことは、日本だけではない。世界各国で同じ現象は起こる。

今回は下に、パキスタンの1970年代から1980年代に作られた「誤った解釈」が産んだポピュラー音楽を貼った。
本人達は真面目だが、その「誤った解釈」の音楽を堪能していただきたい。

M. Ashraf Feat Ahmed Rushdi -[1]- Dama Dam Mast Qalandar (The Sound Of Wonder)

明日のためにその177-いそがしバンド

2015年10月02日 | お笑い
昭和期最後のコミック・バンド

時は1970年代末期、カルチャーが一気に変化した時期である。
喫茶店では「インヴェーダーゲーム」に興じる人々が増え、ゲームセンターもこの頃からしだいに開店する。
若者のファッションも、ネクタイは1960年代のような細いものが流行り、ツートーンと言った白黒柄のシャツなども流行っていた。
お笑い界は「第三次漫才ブーム」が訪れ「ツービート」や「B&B」など今までの漫才とは、形式もスピード感も違うものが流行りだす。
この頃である、私を感動させたコミック・バンドが出現する。
それが今回紹介する「いそがしバンド(ビジー・フォー)」である。
私の記憶では、テレビ番組の「みごろたべごろ笑い頃」で彼らを見たのが初めてである。
そのときの感動は、今でも忘れない。この時代に「定番」とも言える、お笑いを持った、コミック・バンドが存在していたとは夢にも思わなかった。
彼らの略歴を紹介しよう。

バンドの結成は1976年。
メンバーはグッチ裕三(ヴォーカル)、モト冬樹(ギター)、いたっけ島田(ベース)、ウガンダ・トラ(ドラムス)の4人。各メンバーは「ビジー・フォー」結成前に、コミック色の無い実力派バンドに在籍していた。
そして、上記のとおり1976年それぞれのメンバーが出会い、バンドを結成。当初は「ビジー・フォー」ではなく「いそがしバンド」と名乗っていた。
そして事務所に属さないまま、東京のクラブで演奏を続けた。
やがて口コミで彼らの噂は広がる。その玄人好みの演奏、ステージングにより、業界人が彼らのライヴへ殺到する。
その後、彼らは「ナベプロ」こと「渡辺プロダクション」と契約を結び、テレビへと進出する。
その頃からバンド名を「ビジー・フォー」と改名する。
テレビでも、人気を博した彼等だったが、同時にストレスも溜まっていたらしい。
そして1984年バンドは解散、各自それぞれの道を歩むこととなる。

以上が「ビジー・フォー」の略歴である。
バンドのその後について、一番知名度があったのは「グッチ裕三」と「モト冬樹」だろう。
彼らはよくコンビを組み、ものまね番組に出演して人気を博した。
しかし、私にとってそれは「ビジー・フォー」にとって代われるような、良質なお笑いではなかった。
テレビ番組で見た「ビジー・フォー」の素晴らしさは、筆舌に尽くしがたい。
あれほど、定番の「コミック・バンド」のシークエンスを踏襲し、なおかつ古さを感じないネタ。本人達は、かなり悩んで考えていたのだろう。
彼等以後、日本の定番コミック・バンドは未だかって登場していない。
表舞台に出てからの、活動期間が短かったゆえ、今でも、もっと彼らを見たいと言う衝動にかられる。
今後も、彼等のようなバンドが出現することは望むべくもないが。
下に、彼らのテレビ出演時の映像を貼った。
是非、その面白さを堪能していただきたい。

ビジーフォー SOUL MUSIC MEDLAY 初期1981