ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のためにその176-ジミー、野を駆ける伝説

2015年09月30日 | ヨーロッパ映画
最後まで闘った男。

現代、何でも叶う時代。
世の中には、物が溢れ、与える側、与えられる側、探すことなくお互いの欲求を享受できる。
インターネットは、一瞬で世界を駆け巡り、必用な情報を素早く手中にできる。
本当に、便利になりすぎた現代である。
しかし、或る意味可哀相な面も持っている。クリエイティビティの劣化である。
与えられる側は、何も考えず、ゲーム等に熱中しているが、与える側の意思に忠実でなければならない。
そこには与えられる側のクリエイティビティは、殆ど存在しない。
私の幼い頃や少年~青年期には、インターネットも無ければ、ゲーム機も無かった。
しかし、それなりに今まで遊んできた遊びに、手を加え新しい遊びを作ったものだ。
それに、カルチャーイノヴェーションと、若い時期に遭遇できたのも良い経験だった。
少年期に現れた、テレビゲームのテニス等は夢中になったものだ。
テニスと言っても、画面左右に上下に操作できる長いブロックがあり、小さなブロックをそれに当て、相手に返すと言う、とてもシンプルなテレビゲームである。
しかし、今まで「ピンボール」しか遊んだことの無い、少年期の私にとってそれは、一大革命であった。

前置きが長くなってしまった、今回は「ジミー、野を駆ける伝説」と言う映画を紹介する。
社会派監督、ケン・ローチの作品だ。
ストーリーを紹介しておこう。

1930年、10年間アメリカに滞在していた、アイルランドの活動家、ジミー・グラルトンが故郷に帰ってくる。
彼は10年前、朽ち果てた小屋をホールに改造し、周りの人々の助けを借りながら、絵や音楽、ダンス等を村人達に教えていた。
久しぶりに帰って来た彼に、村の人々は「ホールを再建し、また様々な文化を教えて欲しい」と懇願される。
母親との平凡な生活を過ごすため、彼は帰ってきたのだが、やがてまたホールを再建するとに情熱を燃やす。
信頼する周囲の人々と彼はホールを再建し、アメリカから持ち帰った蓄音機でジャズを鳴らし、ダンスを教える。
他の人々は、それぞれの得意分野のカルチャー教室を開き、彼の再建したホールは大いに賑わった。
しかし、そのことが村の保守層の逆鱗に触れる。
順調にホールを営んでいた、クラルトンだったが........

時は1930年代、場所はアイルランド。何も無い時代であり、何も無い場所である。
そこで、人々は娯楽として素朴な文化レクチャーに夢中になる。
今では考えられないほど、素朴なことでもだ。
クラルトンはやがて保守層から「共産主義者」「反キリスト派」呼ばわりされ、様々な妨害を受けることになる。
ラスト、クラルトンはアメリカ国籍を持っていると言う理由だけで、アメリカへ強制送還される。
トラックの荷台に、手錠をかけられ、搬送されていく彼の後を、ホールでの教え子達が自転車で追いかける。
なんとも切なくなる、ラストである。
前述したが、現代は何でも叶う時代である。それが悪いとは言わない、しかし、この映画のような時代があったこと、最後まで保守層と戦った男がいたということを忘れてはいけない。
ジミー・クラルトンは実在の人物である、この映画は彼のドキュメンタリーとも言えるものだ。
是非、万人に観ていただきたい、映画である。

2014年、イギリス・アイルランド・フランス製作、カラー109分、2015年日本公開、監督:ケン・ローチ

明日のためにその175-Запрещённые барабанщики

2015年09月28日 | ワールドミュージック
ロシアの変なおじさんバンド。

以前このブログでウクライナの「女装歌手」を紹介した。
その時も書いたように、ロシアの音楽は基本的に短調で、そこに様々なリズムが乗ってくる。
どこか物悲しげ、これがロシアのポピュラー音楽である。
しかし、旧ソビエト連邦は広かった、それを形成していた国には、様々な音楽がある。
今回紹介するバンドは、ロシア出身の「Запрещённые барабанщики」変なおじさんバンドである。
このバンドは、1999年に結成されたと言う。そして今も現役だ。
バンド名は、どのように読むのか分からない。日本語直訳だと「禁止ドラマー」となる。
全く持って変なバンド名である。
かなりマイナーな存在なようで、ネットで探しても彼らの具体的なプロフィールは、検索できなかった。
私はちょっとしたきっかけがあって、このバンドの存在を知った。
そして、CDも輸入して持っている。
ロシアのバンドなのに、演奏する曲は南米のラテンサウンドなも演奏する。勿論ロシアのポップスも演奏する。
私にとっては、未だに謎のバンドである。
下に彼らの演奏のリンクを貼った。
その不思議なサウンドを、ご堪能いただきたい。

mama zuzu babulia - Запрещенные Барабанщики - Мама Зузу

明日のためにその174-あきれたぼういず

2015年09月25日 | お笑い
コミックバンドの原点。

音楽を演奏し、お客から笑いを取る。
この行為ほど、難しいものはない。
私自身も、お笑いの要素の入った楽曲を演奏するバンドを組んでいたが、どのようにすればお客から笑いをとるか、かなり悩んだものである。
私の組んでいたバンドは、コミック・バンドと言うよりも、コミックソングを唄うバンドと称するのが相応しい。
理由があり、ライヴハウスのフランチャイズをもてなかった私のバンドは、長い時間のステージを行なえなかった。
毎年開催される、バンドコンテストが事実上のステージであり、そこで許されるのは「楽曲」の演奏のみだった。
よって「楽曲」の面白さが重要であり、ステージングは二の次であった。
一方コミック・バンドは、ステージングの面白さが中心である。
「楽曲」の面白さも必要だが、ステージングの面白さが無ければなりたたない。
「コミックソングを唄うグループ」と「コミック・バンド」とは違うのだ。
そのコミック・バンドの日本における原型は、昭和初期に結成された「あきれたぼういず」だろう。
彼らの略歴を紹介しよう。

「あきれたぼういず」は吉本興行に所属し、昭和12年、浅草花月でデビュー。
メンバーは、川田義雄(リーダー)、坊屋三郎、益田喜頓、芝利英。
昭和13年にはレコードデビューをはたしている。
昭和14年、古川緑波の正月公演に呼ばれ、一躍有名になる。
同年、吉本興業から川田を除くメンバーが、新興キネマに移籍。グループ自体は解散状態になり、僅か活動期間は一年にも満たなかった。
その後、吉本に残った川田は新しいグループを結成、他の三人は山茶花究を加え、新たな「あきれたぼういず」を結成する。
昭和18年、芝利英が戦死。戦後の昭和22年に、残された三人でグループを再結成する。
しかし、おりしも戦後のジャズコンサートブームに、その影も薄くなり、昭和28年グループ解散。メンバーはコメディアン、俳優等様々な道に進むことになる。

以上が「あきれたぼういず」の略歴である。
私自身、当然「あきれたぼういず」を体験してはいない。
しかし、幼いとき、ナショナル(今のパナソニック)のテレビCMで、外人を相手にやり取りをする、面白い初老の男性がいた。これが「あきれたぼういず」の坊屋三郎だとはあとから知ることになる。
余談だが、このテレビCMは傑作で、広告の賞も確か受賞していたと思う。CMの内容は、カラーテレビを挟み、坊屋が「クイントリックス」と言うと対峙した外人が「クリントリックス」と流暢な英語で返す、しかし坊屋は「違うよ、クイントリックス」と何度かやり取りがあり、最後に坊屋が「あんた外人だろ」と締める。とてもナンセンスで面白いCMだった。
坊屋は「あきれたぼーいず」解散後、表舞台での評判は聞いたことがない。その他のメンバーで、山茶花究はコメディや正統派の役者として活躍(以前このブログで紹介した「悪名」シリーズにも出演している)、益田喜頓はコメディアン的要素のある役者として活躍した。
現在「あきれたぼーいず」のメンバーは全て故人となっている。
しかし、彼らの作った「コミック・バンド」スタイルは第二次漫才ブームまで、脈々と受け継がれた。

下に前述の坊屋のCM映像と「あきれたぼういず」の楽曲を貼った。
是非コミック・バンドの原点をご堪能いただきたい。

松下電器産業 パナカラー クイントリックス


あきれたぼういず 空晴れて

明日のためにその173-バードマン

2015年09月23日 | アメリカ映画
落ち目役者の希望とカオス。

人間、一度栄光のスポットライトを浴びてしまうと、それはなかなか忘れられない。
いつまでも、自分がその時の現役でいると思ってしまう。
過去、このブログで紹介した喜劇人が、その典型であるともいえる。
舞台での拍手、雑誌でのレビュー、そのたもろもろが彼等たちに栄光のカオスを齎す。
私自身も、バンドで活動中の時は、ステージで多くの喝采をもらった。
それは今でも覚えているし、今の自分自身の糧になっている。
演ずる側と、それを観る側。その距離感等、通ずる空気とは恐ろしいものだ。
本日紹介する映画は「バードマン」まさに、栄光と言う幻を追った男の映画だ。
ストーリーを紹介しておこう。

トムソンは過って「バードマン」と言うヒーロー映画の主演を努めた男である。
「バードマン」時代は、大衆に広く受け入れられ、人気も絶頂であった。
それから20年、老いも深くなった彼は、以前の人気を取り戻したいと考えていた。
そこで彼は、かってのヒーロー像を覆し、正当な役者として復帰することを目指す。
その舞台に彼は、ブロードウエィを選択した。
正統派俳優として、復帰すると同時に、再び新たな名声を得るのだ。
しかし、リハーサル途中で脇役が怪我をし、その代役としてブロードウェイで活躍するマイクを代役として契約する。
プレビュー公演まで僅か、舞台は順風満帆に進むように見えたが..........

この映画は、今年のアカデミー賞に多部門でノミネートされ、その殆どを獲得した。
監督賞も、作品賞も受賞している。
しかし、このような作品が作品賞に選ばれるのは、稀有ではないだろうか。
アカデミー賞の作品賞は、基本的に「アメリカ万歳」的な要素を持った作品が選ばれることが多い。
その点私は未だ観ていないが、対抗馬とされた「6歳の僕が大人になるまで」の方が作品賞に相応しいと映画好きの人々は、異口同音に言っていたのを思い出す。

ストーリーに戻るが、トムソンは徐々に自分に冒されていく。かっての「バードマン」が自分の後からついてきて、彼に様々なことばを投げかける。
そしてトムソンは、空を飛び、指先に触れずして物を動かしたり、破壊したりする。
彼は「カオス」の真っ只中に投げ出されたのだ。
そのような中、彼は奇怪な行動を続け、自らが「カオス」と化してしまう。
そうなると、もう彼はそこから逃げ出せない。
なにしろ、時分自身が「カオス」なのだから、逃げることなど出来るわけが無い。
彼は、彼自身の「カオス」のスパイラルにどんどん飲み込まれていく。
ラスト、彼は飛ぶ。
バードマン、君が最期に目にしたものは何だったのだろう。

2014年アメリカ製作、2015年日本公開、カラー119分、監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ




明日のためにその172-ウイニー・シン

2015年09月21日 | ワールドミュージック
台湾の歌姫。

以前から、このブログで「歌姫」とは何かを取り上げてきた。
最近は、やたら声を張り、ロングトーンで歌う歌手を「歌姫」とJ-POPあたりでは、定義しているとおぼしい。
しかし、以前からこのブログでは、違う定義をしている。
本当に上手い歌手と言うものは、歌をさらりと歌いこなす歌手が「歌姫」に相応しいと。
かって、昭和の時代を彩った、日本の「歌姫」は数々存在した。
一方、アジア圏に目を向けてみると、非常に日本に近い存在の「歌姫」がいた。
それは、台湾出身の「テレサ・テン」である。
10代の頃から歌いだし、14歳でレコードデビュー、アジア圏で広く支持され、21歳の時日本でのデビューを飾る。
日本では、最初アイドル的な路線でデビューしたが、その後「ムード歌謡」路線に変更。
これが大いに支持を受け、日本でも彼女の人気は大いに盛り上がった。
しかし、1995年、42歳で夭折、日本ならずともアジア全体が「歌姫」を無くしたのだった。
その後彼女の意志は「フェイ・ウォン」に受け継がれる。
彼女も実に歌の上手い歌手である。
今、アジア圏の中ではトップの「歌姫」だ。
彼女のことは、知る人も多いだろう。有名なRPGゲームの主題歌を歌ったり、ウォン・カーゥアイ監督の「恋する惑星」でも主演をはたしている。
彼女は香港の歌手である。一方同じアジア圏で、香港に近い台湾はどうだろうか。
前述のとおり、台湾では「テレサ・テン」と言う偉大な「歌姫」を輩出した。
その流れは続いている。今も台湾には「歌姫」に相応しい歌手がいるのだ。
それは「ウイニー・シン」現在、台湾一とも言って良い「歌姫」だ。
彼女は、7年間声楽を学び、小学校1年生でバレエ、2年生でヴァイオリン、3年生でピアノを習ったと言う芸能の申し子だ。
その後、台湾の様々なコンテストで優勝を飾り、1986年にデビュー、以後安定した人気を誇る。
アジア圏(日本を除く)では、彼女の人気は不動のものだ。
しかし、何故か日本では彼女の人気をあまり聞かない。
原因は、パブリシティの少なさか、私は憶測するしかない。
今回彼女を紹介したのは、その素晴らしい歌唱のわりに、日本での人気がいまひとつ無いのが、非常に残念だったからだ。
下に「ウイニー・シン」の歌唱映像を貼った。
是非この機会に、その素晴らしい歌を聴いていただきたい。

ウイニー・シン 煙

明日のためにその171-榎本健一

2015年09月18日 | お笑い
昭和の喜劇王。

今現在、昭和の喜劇王と呼ばれるに相応しい人物は、誰であろうか。
私が思うに、戦後に限定して言えば「萩本欽一」がそれにあたる。
彼は浅草から丸の内を経て、メジャーデビューを果たした、お笑いのエリートでもあった。
昔彼が出演していたテレビ番組「ゲバゲバ90分」では、しばしばテレビデレクター等の前にいきなり現れ、自分が思いつたコントなのだけどちょっと見てほしい、と言って彼らを爆笑させていたという。
ここに「萩本欽一」の非凡な才能が見受けられる。
彼以後(正確には第三次漫才ブーム以後)彼に匹敵するタレントは、いないとおぼしい。
一方戦前に目を向けると、先週このブログで紹介した「古川緑波」などは文句なしに、喜劇王の称号が相応しい。
さらに、今週紹介する「エノケン」こと「榎本健一」も昭和の喜劇王の称号が相応しい一人である。
まわりをドタバタさせておいて、最後の一言で笑いを取る、動かずして場を爆笑に包んだ「ロッパ」に対して、自らスタントマンさながらのアクションで、笑いを取った「エノケン」二人は笑いの作り方において対象的だった。
本日はこの「榎本健一」を紹介しよう。

「エノケン」こと「榎本健一」は明治三十七年東京生まれ、子供のころから「エノケン」と友達から呼ばれていたと言う。
尾上松之助に憧れて、京都の撮影所をしばしば訪れたり、ヴァイオリンを習ったり、芸事に旺盛な食指を持っていた。
その後関東大震災の復興で、浅草にオペラを蘇らせたり、映画に出演したりと活躍の場を広げてゆく。
昭和四年、今や伝説となった「カジノ・フォーリー」を旗揚げする。
日本に本格的なヴォードヴィルを完成させる。
その後、様々な映画で主演をはたす。
戦後、人気にも翳りが見え始め、昭和四十五年逝去、六十五歳。

簡単に「榎本健一」を紹介すると、上記のようになる。
彼の笑いを形成していたのは「動き」であった。
動きで笑いを取る、彼自身もアメリカのマックセネット(スラップステック映画の立役者)映画の動きを真似ているとインタヴューで答えている。
マックセネットといえば「キーストンコップス」シリーズが定番で、私も観ているが、そのアクションの凄さ、面白さではコメディ映画の中で群を抜いている。
「榎本健一」の若い頃のエピソードでは、彼がタクシーに乗っていたとき、後部座席のドアから道路に出て、反対側のドアから、再度タクシーに乗車したという信じられないものなどある。
それほど彼は「自らが動くことによって作られる笑い」を大事にした。
それは、何歳になっても変わらなかったと言う。
彼は歌も得意にした、決して美声とは言えない、どちらかと言うと「ダミ声」である。
この点は先週紹介した「古川緑波」とは、正反対の歌唱である。
しかし、決して上手いと言える歌ではないが、それはそれで味があるものだ。
下に「エノケン」の歌唱を貼った。
その独特の歌声を、堪能していただきたい。

榎本健一/「エノケンのダイナ」~「月光価千金」~「私の青空」

明日のためにその170-土竜の唄 潜入捜査官REIJI

2015年09月16日 | 邦画
奇想天外、無知になって楽しめるコメディの佳作

日本人の作る喜劇(コメディ)はウエットだ。
昭和初期の、斉藤寅次郎時代から何か喜劇と言えどもウエットさを感じる。
しかし、アメリカの喜劇にそれは無い、とにかく映画初期のスラップステック時代から、実にあっけらかんとしている。
唯一路線が違っていたのは、チャップリンだろう。
彼はスラップステック以後、ヒューマニズムを中心とした喜劇を作り上げた。
その彼と対照的だったのが、バスター・キートンである。
彼は終始一貫して、スラップステック的喜劇を作り上げていた。
近年に近づく毎に、映画の尺は長くなってきている、そのような状態で、人を笑わせる映画を作ることは困難である。
スラップステックも十数分と言う、短い時間だから笑えるものの、これが1時間以上続くともう笑いはとれない。
そのなかでも、もう古い映画になるが、傑作コメディがあった、アメリカの「ポリスアカデミー」である。
私は封切りで観たが、その映画の面白さに心から笑えた。こんな映画が存在するのか、と不思議にも思った。
そんな「ポリスアカデミー」も続編が多く作られたが、最初の作品を撮った監督が死去し、監督が変わってからは徐々に面白さも消えていった。
未だあれを超える喜劇は製作されていないとおぼしい。
前書きが長くなってしまったが、本日紹介するのは、久々に面白いと言える日本の喜劇「土竜の唄 潜入捜査官REIJI」である。
ストーリーを紹介しておこう。

警察学校を至上最低の成績で卒業した、正義感だけは強い菊川怜二。
彼はある日署長から、潜入捜査官、通称「モグラ」に任命される。
或る暴力団の麻薬ルートを暴き、暴力団の会長を逮捕することが彼の任務だ。
上手く暴力団へ潜入した怜二は、本業の潜入捜査よりも、他の暴力団との抗争に巻き込まれてしまう。
その中で同じ組の日浦と言う幹部に、彼は大変気に入られ、義兄弟となる。
様々な困難を回避しながら、潜入捜査を行なう怜二だったが.........

原作は漫画であると言う、私はその漫画を見たことが無い。
監督は三池崇史、私はこの監督の映画を何本か観ているが、正直好きな監督ではない。
脚本は宮藤官九郎、あの朝の連ドラ「あまちゃん」の脚本家と言えば、お分かりの方も多いのではないだろうか。
私は宮藤も、正直好きでは無い。
「あまちゃん」は面白かったが、彼が監督した「少年メリケンサック」はつまらなかった。
しかし、この映画は二人の呼吸が大いに合ったようで、とてもナンセンスな喜劇に仕上がっている。
兎に角、理屈でこの作品を観てはいけない、目の前に繰り出されるギャク(最近ギャクとは面白い一言とか面白い所作に対して使うが、もともとは映画で言うシークエンスの面白さをギャクと言うのが定説である。)の数々を、無知になり笑うことだ。
そこに原因や理屈等存在しない、でもそれが良いのだ、それが喜劇なのだ。
特に足を撃たれた日浦が、復活してくるシークエンスは理屈抜きで面白い。
久しぶりに観た、ナンセンス喜劇の佳作である。
是非観ることをお勧めする。

2013年日本製作、2014年日本公開、カラー、130分、監督:三池崇史

明日のためにその169-カルメン・ミランダ

2015年09月14日 | ワールドミュージック
サンバの女王。

先週のブログで、ブラジルの「サンバ」ついて取り上げた。
その中で、男性歌手の代表として「シロモンテイロ」について紹介した。
今回も、ブラジルの「サンバ」歌手について、紹介したい。
通常なら「オルランド・シルヴァ」や「エルゼッチ・カルドーゾ」を紹介すべきだろうが、今回は違う歌手を紹介する。
それは先週のブログで、名前だけ紹介した「カルメン・ミランダ」である。
この歌手だけは、是非知っていただきたいので、今回のブログで取り上げることとした。
まずは彼女のプロフィールを紹介しよう。

「カルメン・ミランダ」は1909年ポルトガル生まれ、生まれてすぐに父親がブラジルへ移住したため、ポルトガルでの生活はごく短いものだった。
1929年にドイツにて初録音、1933年にレコード会社と専属契約を結ぶ。
以後1920~1930年代の、ブラジルでの「サンバ」黄金期にブラジルで人気を博す。
1939年アメリカでのデビュー、1950年代前半までハリウッド映画十数本に出演し、アメリカでの黄金期を迎える。
その後、人気に翳りが見え、1955年逝去、46歳。

「カルメン・ミランダ」を簡単に紹介すると上記のようになる。
私自身、アメリカに渡って、パブリックイメージを確立した彼女より、ブラジル時代の彼女の方が好きだ。
彼女の歌は、けれんみたっぷりで、スリリング、また、そよ風に乗る紙飛行機のような流麗な歌い方。その全てにおいて、1930年代の彼女と、対等に扱われる歌手はいないだろう。
私自身、彼女の歌を聴いて「世界の歌手の中には素晴らしい歌手がいるものだ」とつくづく感心させられた。
主に映画や、ブロードウエイで活躍していた時代を、私は知らない。
しかし、大体の場合、実力がある歌手でも役者でも、大舞台を踏み始めると、初心を忘れてしまい、その才能を無駄にしてしまう。
彼女がそうだったのか、それを見ていない私には評価できないが。
しかし、彼女の人気がアメリカでピークを迎えたとき、お金の話しかしなかったという噂が、ブラジルではまことしやかに流れたと言う。
そのようなことを、側聞すると、やはりブラジルでの黄金期の彼女の才能は、アメリカで100%活かされていたとは言えないだろう。
下に黄金期の「カルメン・ミランダ」の歌唱のリンクを貼った。
前述した、その素晴らしい歌唱を是非ご堪能いただきたい。

カルメン・ミランダ サンバの帝王

明日のためにその168-古川緑波

2015年09月11日 | お笑い
不世出の喜劇役者。

今まで、様々な「お笑い」について、喜劇人等をこのブログで紹介してきた。
最近の「お笑い」(あえて喜劇人とは言わない)については、このブログで取り上げていない。
理由は明確で、最近の(と言っても、もう十数年以上)「お笑い」を演ずる者は、極めて面白くない者ばかりである。
漫才をしない、漫才師。コントが本業なのにそれをしない、芸人。
彼らははちょっと名が売れると、テレビ番組のヴァラエティで「パネラー」と言われる位置に座り、くだらない発言ばかりしている。
まさに日本の「お笑い」ここに尽きる感がある。
日本の「お笑い」の最期は「第三次漫才ブーム」だったのであろう、あれ以来後世に名を残す喜劇人は出ていない。
よって、本ブログで取り上げる「お笑い」についても、古い時代がメインになってしまうのだ。
さて、日本の「お笑い」「喜劇人」を語る上で、どうしても触れておかなければいけない人物が二人いる。
「ロッパ」こと古川緑波と「エノケン」こと榎本健一だ、今回は前者について紹介する。

古川緑波は、明治36年に生を受ける。
彼は父親の方針で古川家に養子にだされる。
十六歳のころから、日本で最古の歴史を誇る映画雑誌「キネマ旬報」に映画評を投稿し、十八歳で同誌の編集者となる。
昭和8年、菊田一夫らと「笑いの王国」を結成、前述した「エノケン」のライバルとして世間に認知されることとなる。
でっぷりとした体、ゆえに彼はドタバタを演じなかったと言う。
周りの芸人にドタバタをさせ、最後に彼の一言で、劇中の最大の笑いを取り、緞帳を下ろしていたと言う。
「エノケン」とはお互い認めたライバルで、不仲だったそうだが、後年「新馬鹿時代」(余談だが、この「新馬鹿時代」の映画のオープンセットは優秀だったので、後に黒澤明の「酔いどれ天使」でこのオープンセットがそのまま使われている)と言う映画で共演している。
戦後は、映画やラジオが主な活躍舞台となっていたが、徐々に人気にも陰りが見え、晩年は糖尿病になってしまう。
昭和36年逝去、57歳。

「ロッパ」を紹介すると上記のようになる。
「ロッパ」の活躍した時代、またその後の時代、喜劇界は群雄割拠だった。
様々な才能を持った喜劇人が、自分の名をあげようと、必死だったのだ。
よって「ロッパ」の芸も戦後飽きられ、その名は急速に忘れられてしまった。
一説には彼が「わがままな暴君」であったから、そのためとも言われている。
彼が残した芸で、今でも残っているものがある。
それは「ものまね」である。
「ロッパ」はものまねが上手く、それを自ら「声帯模写」と言う造語を作り、世間に流行らせた。
芸人「桜井長一郎(故人)」はこの「声帯模写」を自分の芸とし、人気を博した。、
最近聞かなくなったが「声帯模写」とは「ロッパ」が作り、完成させた芸なのだ。
彼はまた歌が上手かった。
やはり才能のある芸人は、一味も二味も違う。
下に「ロッパ」の歌唱のリンクを貼った。
その流麗な歌声を、ご堪能いただきたい。

東京オリムピック 古川ロッパ

明日のためにその167-悪名

2015年09月09日 | 邦画
傑作娯楽活劇。

アクション映画はスカっとする。
私はアクション映画も好きでよく観る。
派手な銃撃戦や緊張感のあるカーチェイス、己の肉体を使った格闘シーン、どれも観ていて気持ちが爽快になるのだ。
勿論、正義が悪に勝つのが前提で、そのプロセスを、楽しませてくれるものに限るが。
アクション映画と言えばやはりアメリカ映画がその王国と言えよう。
枚挙にいとまがないほど、アメリカ製アクション映画は多くて、多彩だ。
しかし、昔日本にも、本場アメリカに負けないぐらいの活劇映画(あえてこう言うが)があった。
勝新太郎、田宮次郎コンビの「悪名」がそれだ。
原作は今東光、彼の友人で、この原作のイメージにぴったりの男性を元に描かれた本だ。
製作会社は、今は無き「大映」で、監督は田中徳三か森一生が作品によってメガホンを握った。
カメラマンは日本の名カメラマン宮川一夫が一貫して撮影した。
第一作の「悪名」から「悪名一番勝負」まで全16作品が製作、公開された。
ただし、第16作の「悪名一番勝負」は「悪名」の外伝的作品で、それまでの「悪名」とのつながりは無い、よって私自身はこの作品を「悪名シリーズ」からは除外している。
第一作の公開は1961年、今から半世紀以上も前である。
勝新太郎扮する、腕はたち、まがったことは大嫌いな男「八尾の朝吉(村上朝吉)」とその子分(朝吉は子分と言う言葉が嫌いでそうは思っていないが)モートルの貞(彼は第二作目で暗殺されてしまう)、モートルの貞亡き後は、その弟の清次、彼らがコンビを組み、旅先などで悪党をバッタバッタとなぎ倒す。
「悪名」とはそういう映画である。
どの作品もお勧めだが、今回はその中でも自身一番面白かった「悪名一番(1963年、森一生監督)」を紹介しよう。

亡きモートルの貞の妻お照から朝吉は相談を持ちかけられる。
彼女の友人が、金融会社にお金を預けたのだが、そのお金の引き出しを要求したところ断られたという。
朝吉になんとかして欲しいと、お照は頼み込む。
やがて朝吉は、その金融会社の支店長と話をするが、彼が言うには「東京の本社で社員が金を持ち逃げしてしまい、皆さんから預かったお金は返せない」と言われる。
事情を知った朝吉と清次は、無償でお金を取り返すべくヒッチハイクをしながら東京を目指すが.......

この作品には二つのポイントがある。
一つは前作まで、時代背景が曖昧で、いつの時代を背景に映画が製作されているかわからなかった、しかしこの作品で東京に行くことにより、その東京の風景を見ることができた、それはまさに1960年代の高度成長期の背景であった、これにより、より映画の時代背景が分かることになった。
もう一つのポイントは、朝吉がどこへ行っても田舎者扱いされ、そのことに徹底的に耐えるところだ、やはり器の大きい男は多少のことで堪忍袋は切れない、朝吉の性格をよく描写している。
しかし、最後はお決まりの悪党どもとの大乱闘、朝吉は決して刃物やピストルは使わない、清次も同じだ。
拳ひとつで勝負する、まさに大人の大喧嘩だ。
ラスト見事金融会社の陰謀を暴露し、喧嘩に勝った朝吉と清次はお照頼みどおりに、金融会社からお金を引き出させることに成功する。

今から遡ること半世紀以上も前に、このような痛快娯楽活劇が日本にはあった。
正義が悪を懲らしめる、勧善懲悪の映画だ、このような作品を嫌う方もいらっしゃるだろうが、あえて私は「悪名」の素晴らしさを称えたい。
是非、何作目の作品でも良いので、ご覧になる事をお勧めする。