最後まで闘った男。
現代、何でも叶う時代。
世の中には、物が溢れ、与える側、与えられる側、探すことなくお互いの欲求を享受できる。
インターネットは、一瞬で世界を駆け巡り、必用な情報を素早く手中にできる。
本当に、便利になりすぎた現代である。
しかし、或る意味可哀相な面も持っている。クリエイティビティの劣化である。
与えられる側は、何も考えず、ゲーム等に熱中しているが、与える側の意思に忠実でなければならない。
そこには与えられる側のクリエイティビティは、殆ど存在しない。
私の幼い頃や少年~青年期には、インターネットも無ければ、ゲーム機も無かった。
しかし、それなりに今まで遊んできた遊びに、手を加え新しい遊びを作ったものだ。
それに、カルチャーイノヴェーションと、若い時期に遭遇できたのも良い経験だった。
少年期に現れた、テレビゲームのテニス等は夢中になったものだ。
テニスと言っても、画面左右に上下に操作できる長いブロックがあり、小さなブロックをそれに当て、相手に返すと言う、とてもシンプルなテレビゲームである。
しかし、今まで「ピンボール」しか遊んだことの無い、少年期の私にとってそれは、一大革命であった。
前置きが長くなってしまった、今回は「ジミー、野を駆ける伝説」と言う映画を紹介する。
社会派監督、ケン・ローチの作品だ。
ストーリーを紹介しておこう。
1930年、10年間アメリカに滞在していた、アイルランドの活動家、ジミー・グラルトンが故郷に帰ってくる。
彼は10年前、朽ち果てた小屋をホールに改造し、周りの人々の助けを借りながら、絵や音楽、ダンス等を村人達に教えていた。
久しぶりに帰って来た彼に、村の人々は「ホールを再建し、また様々な文化を教えて欲しい」と懇願される。
母親との平凡な生活を過ごすため、彼は帰ってきたのだが、やがてまたホールを再建するとに情熱を燃やす。
信頼する周囲の人々と彼はホールを再建し、アメリカから持ち帰った蓄音機でジャズを鳴らし、ダンスを教える。
他の人々は、それぞれの得意分野のカルチャー教室を開き、彼の再建したホールは大いに賑わった。
しかし、そのことが村の保守層の逆鱗に触れる。
順調にホールを営んでいた、クラルトンだったが........
時は1930年代、場所はアイルランド。何も無い時代であり、何も無い場所である。
そこで、人々は娯楽として素朴な文化レクチャーに夢中になる。
今では考えられないほど、素朴なことでもだ。
クラルトンはやがて保守層から「共産主義者」「反キリスト派」呼ばわりされ、様々な妨害を受けることになる。
ラスト、クラルトンはアメリカ国籍を持っていると言う理由だけで、アメリカへ強制送還される。
トラックの荷台に、手錠をかけられ、搬送されていく彼の後を、ホールでの教え子達が自転車で追いかける。
なんとも切なくなる、ラストである。
前述したが、現代は何でも叶う時代である。それが悪いとは言わない、しかし、この映画のような時代があったこと、最後まで保守層と戦った男がいたということを忘れてはいけない。
ジミー・クラルトンは実在の人物である、この映画は彼のドキュメンタリーとも言えるものだ。
是非、万人に観ていただきたい、映画である。
2014年、イギリス・アイルランド・フランス製作、カラー109分、2015年日本公開、監督:ケン・ローチ
現代、何でも叶う時代。
世の中には、物が溢れ、与える側、与えられる側、探すことなくお互いの欲求を享受できる。
インターネットは、一瞬で世界を駆け巡り、必用な情報を素早く手中にできる。
本当に、便利になりすぎた現代である。
しかし、或る意味可哀相な面も持っている。クリエイティビティの劣化である。
与えられる側は、何も考えず、ゲーム等に熱中しているが、与える側の意思に忠実でなければならない。
そこには与えられる側のクリエイティビティは、殆ど存在しない。
私の幼い頃や少年~青年期には、インターネットも無ければ、ゲーム機も無かった。
しかし、それなりに今まで遊んできた遊びに、手を加え新しい遊びを作ったものだ。
それに、カルチャーイノヴェーションと、若い時期に遭遇できたのも良い経験だった。
少年期に現れた、テレビゲームのテニス等は夢中になったものだ。
テニスと言っても、画面左右に上下に操作できる長いブロックがあり、小さなブロックをそれに当て、相手に返すと言う、とてもシンプルなテレビゲームである。
しかし、今まで「ピンボール」しか遊んだことの無い、少年期の私にとってそれは、一大革命であった。
前置きが長くなってしまった、今回は「ジミー、野を駆ける伝説」と言う映画を紹介する。
社会派監督、ケン・ローチの作品だ。
ストーリーを紹介しておこう。
1930年、10年間アメリカに滞在していた、アイルランドの活動家、ジミー・グラルトンが故郷に帰ってくる。
彼は10年前、朽ち果てた小屋をホールに改造し、周りの人々の助けを借りながら、絵や音楽、ダンス等を村人達に教えていた。
久しぶりに帰って来た彼に、村の人々は「ホールを再建し、また様々な文化を教えて欲しい」と懇願される。
母親との平凡な生活を過ごすため、彼は帰ってきたのだが、やがてまたホールを再建するとに情熱を燃やす。
信頼する周囲の人々と彼はホールを再建し、アメリカから持ち帰った蓄音機でジャズを鳴らし、ダンスを教える。
他の人々は、それぞれの得意分野のカルチャー教室を開き、彼の再建したホールは大いに賑わった。
しかし、そのことが村の保守層の逆鱗に触れる。
順調にホールを営んでいた、クラルトンだったが........
時は1930年代、場所はアイルランド。何も無い時代であり、何も無い場所である。
そこで、人々は娯楽として素朴な文化レクチャーに夢中になる。
今では考えられないほど、素朴なことでもだ。
クラルトンはやがて保守層から「共産主義者」「反キリスト派」呼ばわりされ、様々な妨害を受けることになる。
ラスト、クラルトンはアメリカ国籍を持っていると言う理由だけで、アメリカへ強制送還される。
トラックの荷台に、手錠をかけられ、搬送されていく彼の後を、ホールでの教え子達が自転車で追いかける。
なんとも切なくなる、ラストである。
前述したが、現代は何でも叶う時代である。それが悪いとは言わない、しかし、この映画のような時代があったこと、最後まで保守層と戦った男がいたということを忘れてはいけない。
ジミー・クラルトンは実在の人物である、この映画は彼のドキュメンタリーとも言えるものだ。
是非、万人に観ていただきたい、映画である。
2014年、イギリス・アイルランド・フランス製作、カラー109分、2015年日本公開、監督:ケン・ローチ