9月下旬、ペナントレース終盤となると優勝争い、CS出場権争いが白熱する中で、各チームのベテラン選手たちがユニフォームを脱ぐ決断をする時期でもある。今年も村田修一、杉内俊哉、山口鉄也ら多くの選手が引退を決断したが、ここでは矢野謙次を取り上げる。
矢野は日本ハムで引退したが、プロ16年で12年半は巨人に在籍しており、巨人・矢野のイメージが強い。
生まれは1980年9月。意外と知られていないが「松坂世代」の1人である。高校は国学院久我山だが甲子園出場はなし。大学は國學院大だが、主戦場は2部であったため、ドラフトは6巡目で、お世辞にも評価が高い選手ではなかった。
図角を表したのはプロ3年目の2005年から。この時は堀内監督の時代でファンの間では暗黒期と揶揄されるほどのチーム状態であったが、矢野の活躍は数少ない光明であった。2006・07年にはともに103試合に出場。中でも07年のソフトバンクとの交流戦で打った代打満塁ホームランは思い出深い。観戦に来ていた渡辺恒雄会長から「今日の矢野のホームランは1000万円以上の価値がある」と絶賛されたほど。私も矢野といえばこのホームランを思い出す。
だがレギュラーには定着しなかった。それは守備の安定感がなかったから。もともとスローイングに難があったことや、ライトには高橋由伸、レフトには清水隆行がいたため、空いているポジションはセンターだったのだが、広い守備範囲を要求されるこのポジションを務められるほどの能力がなかった。
08年はわずか3試合、09年は6試合の出場と存在感が薄れていくが、10年以降、出番が少ないながらもチームに貢献。2013年はシーズン代打安打を19という球団新記録をマークし、原監督から「神様」と言われた。
矢野が登場すると球場の雰囲気がガラリと変わった。
「矢野謙次、気合の戦士 矢野謙次、さあ立ち上がれ~」
という前奏からファンが矢野の応援歌を大熱唱。一種異様な空気を作りだした。私も12・13年頃はライトスタンドにいて、矢野の応援歌を歌うのが一番の楽しみだった。相手はやりにくかったのでは?
プロ通算のヒット数は374。シーズン100安打以上は1度も記録していない(最高は06年の90安打)。
それでもプロ野球人として16年も生き抜き、ファンに愛されたのは称賛すべきだろう。
ありがとう謙次。最高に楽しませてもらったよ。君は偉大な戦士だった。忘れないよ。
矢野は日本ハムで引退したが、プロ16年で12年半は巨人に在籍しており、巨人・矢野のイメージが強い。
生まれは1980年9月。意外と知られていないが「松坂世代」の1人である。高校は国学院久我山だが甲子園出場はなし。大学は國學院大だが、主戦場は2部であったため、ドラフトは6巡目で、お世辞にも評価が高い選手ではなかった。
図角を表したのはプロ3年目の2005年から。この時は堀内監督の時代でファンの間では暗黒期と揶揄されるほどのチーム状態であったが、矢野の活躍は数少ない光明であった。2006・07年にはともに103試合に出場。中でも07年のソフトバンクとの交流戦で打った代打満塁ホームランは思い出深い。観戦に来ていた渡辺恒雄会長から「今日の矢野のホームランは1000万円以上の価値がある」と絶賛されたほど。私も矢野といえばこのホームランを思い出す。
だがレギュラーには定着しなかった。それは守備の安定感がなかったから。もともとスローイングに難があったことや、ライトには高橋由伸、レフトには清水隆行がいたため、空いているポジションはセンターだったのだが、広い守備範囲を要求されるこのポジションを務められるほどの能力がなかった。
08年はわずか3試合、09年は6試合の出場と存在感が薄れていくが、10年以降、出番が少ないながらもチームに貢献。2013年はシーズン代打安打を19という球団新記録をマークし、原監督から「神様」と言われた。
矢野が登場すると球場の雰囲気がガラリと変わった。
「矢野謙次、気合の戦士 矢野謙次、さあ立ち上がれ~」
という前奏からファンが矢野の応援歌を大熱唱。一種異様な空気を作りだした。私も12・13年頃はライトスタンドにいて、矢野の応援歌を歌うのが一番の楽しみだった。相手はやりにくかったのでは?
プロ通算のヒット数は374。シーズン100安打以上は1度も記録していない(最高は06年の90安打)。
それでもプロ野球人として16年も生き抜き、ファンに愛されたのは称賛すべきだろう。
ありがとう謙次。最高に楽しませてもらったよ。君は偉大な戦士だった。忘れないよ。