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神田川病院に赴任した女医の黒田摩周湖は、二人の末期癌の女性患者をみている。先輩のルミ子に促され、中庭で拾った聴診器を使うと患者の“心の声”が聞こえてきた。児童養護施設で育った桜子は、大人を信じていない。代議士の妻の貴子は、過去に子供を捨てたことがあるらしい。摩周湖の勧めで治験を受けた二人は快方に向かい、生き直すチャンスを得る。“従順な妻”として我慢を強いられてきた貴子は、驚きの行動に出て…!?孤独と生きづらさを抱えてきた二人はどのような道を歩むのか。共感の嵐を呼んだヒューマン・ドラマ『後悔病棟』に続く感動の長編。
「先生、『黒田マシューコ』というお名前ですが、まさか、北海道の弟子屈(てしかが)町にある湖と同じ漢字じゃないですよね?」
「同じ字です。それにしても、町名までよくご存知ですね」
摩周湖が感心したように言ったが、こちらは呆れていた。
そんな変な名前をつける親って、どんな人間なのだろう。
「治験をしたところで必ず治癒するとは言っておりませんし、そんなお約束はできません」
「えっ?」
「これはあくまで治験ですので、場合によっては死期を早める可能性もないわけではないです」
「先生、それはいくらなんでも・・・」
「何でしょうか?」
こいつはこいつで、違う意味で鈍感らしい。なんだか面白くなってきた。
ーー普段は無口なくせに、たまに口を開けば、患者や家族の気持ちを逆撫ですることばかり言う。人の気持ちがわからない医者だ。
それが自分に貼られたレッテルだった。
「死期を早める可能性もあるなんて、よくも高校生の前で言えますね。
桜子ちゃんが可哀想だと思わないんですかっ」
夫と結婚したことでキャバクラを辞めることができ、高級住宅街の主婦になれた。
だが、それを引き換えに自分というものを失った。
最近は、どす黒いほどの意地悪な気持ちになることが多くなった。
夫とは一回り以上も歳が離れているから、結婚当初からなんとなく夫が先に死ぬものと思っていた。夫が死んだら財産を全部受け継いで、あとは好きに生きてやる。それまでの辛抱だと自分に言い聞かせて我慢してきたのだった。それなのに自分が先に死ぬことになろうとは、神も仏もないというのはこういうことをいうのか。
夫は、私が勤めていたキャバクラの常連客だった。
自信に満ち溢れた鷹揚な態度を包容力だと勘違いしたのは、今思えば若気の至りだった。
「口述筆記もダメです。今は治験に備えて身体を休めることが大事ですから」
「今のうちとはどういう意味ですか?死ぬ前に書いておけということですか?」
そこにいた全員が驚いて摩周湖を見た。もちろん私も。
「またやっかいな女医が来たよ。名前までふざけてやがる」
「摩周湖のことでしょう?日本で一番透明度が高い湖らしいよ。聞いた話によると、透き通るような美しい心を持つようにって父親が命名したんだってさ。バカみたい」
だけど、私に原因がないことは私自身がよく知っている。
だって赤ん坊を産んで捨てたことがあるのだから。
何やってんだろう、私。
いい歳して何言ってんだろ、私。
「はいっ」
大きな声で返事したら、背骨に響いて痛かった。
癌の野郎、あちこちに転移してやがる。
地獄で対面する場面をあれこれ想像すると、妙に心が穏やかになった。
「最近の研究で、スイッチがオフになっている人が多くいることがわかったんです。
遺伝子を折り畳んだ張本人はDNAメチル化酵素です。磁石のように周りの物質を次々に引き寄せていって、機能しなくなるんです。ですが、そのDNAに直接作用する薬が開発されたんです」
私はここで生活するしか道はない。
学歴もなく、職歴といえばキャバ嬢だけだ。
離婚してこの家を出たら、二度とまともな暮らしは送れないだろう。
キャバクラに勤めれば、すぐにナンバーワンになってしまったことで女性の同僚にも嫌われた。
ーーー酌はお前の得意技だろ。
キャバ嬢だったことを、いまだに夫はからかって馬鹿にする。
ーーーだからお前と結婚したんだ。お前の取り柄は美人で色気があることだ。
宴会で身体を触られてもニコニコしていろと夫は言った。
何なんだよ、こいつも相当変わっている。
入院してからというもの、摩周湖を始めとして、次々に変人との接触回数が増えた気がする。
怖がらせないよう、とっておきの笑顔を添えた。
それは、キャバクラ勤めの頃に身につけた、男心を容易につかむ聖母のような表情でもあった。
そのとき、再び桜子のスマホに着信音が響いた。今度は長文だった。
ーーー風俗で働くときのコツについて。
▲客に写真を撮られないこと。
▲身元を知られないこと
▲経営者に舐められないこと。弱みを見せたらつけ込まれる。
■常に冷静で、気をしっかり持っていること。そのためには、酒は一滴も飲まず、
疲れすぎておらず、気分が落ち込んでいないこと。
■常習性のある物は生活からすべて排除すること。
例として、酒、たばこ。できればコーヒーも。(覚せい剤や麻薬はもちろんのこと)
■客と恋愛をしないこと。
10代の女の子には男を見る目はないと、肝に銘じること。
■周りに流されず、人がどうであろうと自分だけは徹底的に節約し、短期間で大金を貯め、目標額に達したらスパッと足を洗うこと。
考えてみれば、時給数百円のアルバイトだけで食べていけるのは、心身ともに健康で、そのうえ家電製品が未来永劫壊れない場合だけだ。
「違うわよ。工場も清掃会社も年金や健康保険を負担したくないのよ。だから年に106万円を超えないように働いてくれって、両方の会社から言われているの」
「その桜子とかいう子が進学することには私は反対だけど、もしどうしても進学したいっていうんなら、つべこべ言わずに風俗で働いた方がいいと思う」
「あのね、奨学金という言葉に騙されないでよね。まるで返す必要のない支援や給付を想像させて聞こえはいいけどね。要は低所得者世帯をターゲットにした貧困ビジネスだよ」
「だって高い利子を取って利益を上げているんだから。
奨学金は地獄への入り口って言う人もいるくらいだよ」
だが、普通預金や当座預金は公開しなくても良いとする摩訶不思議な規則があるため、国会議員は定期預金をしないのだった。株も購入せず、賃貸マンションに住み続けて持ち家のない議員も多い。財産を少なく見せることで、庶民的で質素な生活をしていると有権者にアピールするのだ。
「高等教育の就学支援新制度」
犠牲になるときには犠牲になる。
死は人も時も選ばない。因果応報なんてないのだ。
それなのに、いざ自分が当事者になるまで、私たちは無意識にこう思っている。
「私の人生に命に関わるアクシデントなどあるはずがない。
普通にしていれば、普通に死んでいくはずだ」