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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

「幸せは冷蔵庫の残り物で作る料理にある」――秋元康が語るスター、ヒット、自分

2021年08月01日 19時18分10秒 | ネタ
運に導かれ、「浅く腰掛けただけの人生」

「自分は何者なのかが分からないし、何をしてるんだろうと時々思います。高校の時にアルバイトのつもりで放送作家を始めたところから、いつの間にか、それを生業(なりわい)としてしまった。何かこう、浅く腰掛けただけの人生のような感じがするんです」

肩書を書かなければならない時は「作詞家」と書いている。

「美空ひばりさんの詞を書いた時に、ひばりさんが『いい詞ね』とおっしゃってくださった。あれだけの方に褒められたのだから、作詞家って名乗っていいかなと。それまでは、自ら『作詞家』と名乗るのは恥ずかしかったですね。『何とかプロデューサー』というのも恥ずかしいので、肩書を聞かれると、『作詞家』と答えています」

これまでの道のりから、人生は運に翻弄されると実感している。

「タレントの浮き沈みや、スターが誕生するさまをずっと見てきたので、才能や努力だけではない不思議な力が働いていると感じることがあります。僕の人生は出会いの中で道が決まっていたようで、運でしかないなと思うんです」

「多くの天才が僕を思考停止にした」

最初に運を意識したのは、少年時代にさかのぼる。進学塾に通う同級生の影響で、一流中学、高校から東京大学に進み、将来は大蔵省の官僚になると思っていた。ところが、中学受験に失敗した。

「同じぐらいの学力で、受かる人、受からない人がいる。不条理を感じましたよね。最終的には東大に行って官僚になろうと思っていて、高2くらいから受験勉強しようとしていたんですけど、当時ラジオの深夜放送がブームで。募集があったわけでもハガキ職人だったわけでもないのに、コクヨの原稿用紙を買ってきて、なぜか書いたんです」

ニッポン放送『燃えよせんみつ足かけ二日大進撃』に「平家物語」のパロディーを送った。それが、放送作家の奥山てる伸(「てる」の字はにんべんに「光」)、後に同社の社長となる亀渕昭信らの目に留まる。たまたま書いた一通で、放送作家生活がスタートした。

「授業中に見よう見まねで、いろんな台本を書いていました。17歳の時、ニッポン放送のラジオで山口百恵さんの番組をやってたんです。学校に帰れば、みんなが『山口百恵、山口百恵』と騒いでいるなか、僕はスタジオで、彼女の前で一緒にハガキを選んだり、トークの内容を打ち合わせたりしていた。大人の世界に迷い込んだみたいで不思議な感じがしましたね」

受験勉強に勤しむ暇もなく、大学附属高校から中央大学に内部進学する。大学を中退するころ、サラリーマンの父親の年収を超えていた。

稼いだお金は「あぶく銭」で、仕事はいつまでも続かないと思った。

「専門的な何かを学んだとか、そういうことがないまま、自分の感覚だけで作ってきた。いつまでも通用するわけがないと思っていました。『戦争を知らない子供たち』を書いた作詞家の北山修さんが好きで。ミュージシャンとしても作詞家としてもあれだけ売れている時に、何の未練もなくやめて、大学に戻って、精神科医になられたという生き方に憧れました。父の影響だと思うんですけど、どこかで『ちゃんとした生活』をしないといけない、『ちゃんとした生活』とは何だろうと考えていました」

周りを見れば才能あふれる人がいて、「多くの天才が僕を思考停止にした」と語る。その一人がタモリだ。

「タモリさんの『オールナイトニッポン』で下っ端の構成作家をやってたんです。本来、放送作家の役目は、タモリさんに刺激を与える、ヒントになる企画を考えなきゃいけない。でも、タモリさんが雑談の中でワーッと言うことに全然かなわなかった。何にもお役に立てなくて、自分がいる意味がないと思いました」

コンサートの構成や演出もするようになり、そこで歌われる外国曲に訳詞をつけたことが、作詞業のスタートだった。音楽番組『ザ・ベストテン』などの構成を担当しながら、稲垣潤一の「ドラマティック・レイン」、長渕剛の「GOOD-BYE青春」を皮切りに、小泉今日子の「なんてったってアイドル」、本田美奈子の「1986年のマリリン」、おニャン子クラブの「セーラー服を脱がさないで」、とんねるずの「雨の西麻布」など、ヒット曲を生み出す。

30歳で結婚後、ニューヨークに渡る。イーストリバーを眺めて書いたのが、美空ひばりの「川の流れのように」である。

日本に戻ってからは『とんねるずのみなさんのおかげです』『おしゃれカンケイ』『うたばん』など、多くの番組で構成を担当。セガのゲーム機「ドリームキャスト」の宣伝戦略を担い、「湯川専務」のCMが話題を呼んで、社外取締役に就任したりもした。映画『着信アリ』の企画・原作を手掛け、産経新聞に小説『象の背中』を連載したほか、漫画、ドラマなどのメディアミックスを展開するなど、幅広く活動した。

そして2005年、秋葉原に「AKB 48劇場」をオープン。「会いに行けるアイドル」はやがて社会現象となった。拡大していくAKB 48グループ、坂道シリーズの総合プロデューサーという役割を務めつつ、ほぼ全ての作詞を手掛ける。

大ヒットが手に負えなくなる怖さ

ヒットを期待されるプレッシャーはないという。しかし、プロジェクトが大きくなり、怖さを感じることはある。

「何でも大きくなっていく時、当たった時は、すさまじいエネルギーを持つ。例えばAKB48でいえば、秋葉原のキャパシティー250人の劇場でやっている間は、自分の企画、プロデュースでできましたけど、国民的アイドルになったり姉妹グループができたりすると、自分だけでは手に負えない。だからスタッフがいるわけですけど、それによってもっと広がってくる。大きくなってゴロゴロ転がっていく時、その一面を見た世間の反応に、『いや、そうじゃないんです』と思うこともいっぱいある。でももう説明したり、言い訳したりする間もない。これはしようがないことですよね」

投げ出したい気持ちになることはないのだろうか。

「それはありますね。投げ出したいというよりも、バトンタッチしたい。ここまでやったから、あとは誰かに代わってほしいという気持ちはありますよね」

ビジネスは得意ではないと言い、さまざまな立場を担うことに思うところもある。

「自分自身のマネジメントの大切さは感じます。企画を立てるだけであったらよかったな、と思ったりもする。『画家』と『画商』の両方を兼ねなければいけないのは、クリエーティブを阻害することでもあったような気がします」

「自分は職業クリエーターなので、いろんなことを考える。まずは依頼してくださる人の思いを成立させなきゃいけない。クライアントやテレビ局の意向を考える。芸術家は自分の中に表現したいものがあふれていて、ただ表現するもの。個展を開くにはどの場所がいい、こういう作品を描こう、宣伝はこうしようと考えた時点で芸術家ではない。自分が芸術家じゃないなと思う理由は、そこにありますね」

昨日まで隣にいた人がスターになる
作詞総数を尋ねると、「8000か9000くらい」。職業作詞家で、自分が世に訴えたいことではなく、そのアーティストが今、何を歌うといいのかを考えて書くという。

「例えば欅坂46の『サイレントマジョリティー』で、『大人たちに支配されるな』と歌うのは変じゃないか、という声もあります。プロデューサーがいて、大人たちが作った環境の中で歌っているのだから、パラドックスになっていると。でも、そうじゃない。彼女たちを見ていて、笑顔が少ないというか、何か大人に訴えかけているものを感じた。今、彼女たちが歌うには何がいいだろうと考えた時、『そのままでいい。何も迎合しなくていいし、自分の道を歩いたほうがいい』というメッセージになった。彼女たちが僕にそれを作らせたんです」

10代の気持ちを書けるのはなぜなのか。

「僕たちが学生の時は、好きだということを伝えるためにラブレターを書いた。それがポケベルになったり、メールやLINEになったりする。ツールが変わっても、返事を待つ気持ちは変わらない。『ポケベルが鳴らなくて』という歌をあえて書いたのは、たぶんポケベルってなくなるだろうなと。この言葉を使うのは今の時代しかないと思った」

流行は自分の感覚でつかむ。「63歳のおっさんの耳に入ってくるくらいがちょうどいい」と考え、取材もマーケティングもしない。

「僕が女子高生たちに話を聞いて、はやっている言葉や考え方を知って詞を書いても、リアルなものにならないと思うんです。同じ立場で話を聞かないと理解できない。それよりも自然と耳に入ってきて面白いなと思うことが、皆さんに届けるちょうどいいタイミングかな、と」

「自分が釣りたいと思うところで釣り糸を垂らしているほうがいい。マーケティングをすると、みんなが同じ結論に至る。ここの海にどんな魚がいるかを調べて、それに合った餌で釣り始めたら、他の人がやっても同じになるじゃないですか。何本も釣り糸が垂らされて、競争率も高い」

人から聞いた話が材料になる。ものを作ることは「想像」だと考えている。

「ちょっとした1行から、何を想像するかが仕事のような気がするんです。昔読んだ新聞に、大みそかになると、上野駅のトイレのゴミ箱に履き古された靴が捨ててあるという記事があって。たぶん、出稼ぎに来た方がふるさとに帰る時、新しい靴に履き替えたんだと思う。それを詞にもできるだろうし、ドラマや映画、小説にもできる。その勝手な想像、妄想がクリエーティブだと思うんですよね」

大事にしているのはストーリーだ。オーディションでも同じである。

「ジャニー(喜多川)さんのように見抜く力はない。僕はその人が持っている何かを題材に、ストーリーを考える。0.1を1にすることがプロデュースだと思うんです。この人が持つ淡いブルーを明確にブルーにしたら魅力的だな、みたいに。まずは、0.1を見つける。例えば、オーディションの間、ずっと泣いてた女の子がいて。スタッフは『泣いてて何もできないんじゃ、話にならないので落としましょう』と言うんですけど、僕は逆に、そんな人は見たことがないので合格にしたいと思った。もう一度会いたくなる魅力っていうんですかね」

「スターというのは深読みをしたくなる人。普通なんですけど、どこかにダイヤモンドが入ってるんじゃないかと思わせる人が、いろんな人の手で磨かれて、ダイヤモンドになる気がします。僕はこの46年、昨日まで隣にいた人がスターになっていくのを見ている。だから、どんな人もスターになるという視点で見ています」

自分も大衆の一人であることを忘れていた
大衆というのは、理屈ではなく感覚で動くものだと考えている。目を引くきっかけを作らなければならない。

「古舘伊知郎さんに聞いた話ですが、昔の香具師(やし、露天商)は、往来を歩く人の足を止めるために『ヘビは飛ぶよ』って言うんですって。『これ、いいですよ。買ってください』と言っても誰も聞かないけど、『え、ヘビは飛ばないでしょ?』と振り向いてくれる。作品や番組に『ヘビは飛ぶよ』があるか、自問自答します。頭に引っかかる『あの』があるか。AKB48という名前を覚えていなくても、『ほら、あの秋葉原でやってる子たち』という『あの』。大衆という一団の無関心さに対し、どうやって足を止めてもらうかを考えています」

40歳くらいのころにふと、自分も大衆の一人であることを忘れていると気づいた。

「『視聴者はこういうのを求めてる』『この時間帯はこういうのが絶対いい』とか、自分はそんなものを見ないのに、勝手に思い込んでいる。そこにうぬぼれがあるわけですよ。自分が面白いと思わなきゃ、誰も面白いと思ってくれない」

「好奇心のドミノは、自分が倒さないと倒れていかない」と語る。

「最初は友達や家族の間で、その魅力に惹かれて身内のドミノが倒れる。今度はオーディションで審査員が倒れて、スタッフが倒れて、マネージャーが倒れて、演出家が倒れて……。最後にテレビや映画の向こう側にたどり着く。そういう熱量がないと、僕らの仕事は止まってしまう」

アイドルについて、100人いれば100通りのアイドル論があり、メンバーやファン、スタッフと同じ価値観で、同じ方向性を目指すのは難しいと言う。

「賛否は真摯に受け止めます。ファンの人たちやネット上の意見をスタッフが渡してくれて読むことは多いですね。そういう受け取られ方をしてしまうのかと残念に思う時もありますし、思いが足りなかったと反省する時もある。決していつも自分が正しいとは思わない」

反響は、「何百万枚売れた」という数字よりも言葉で感じとる。

「『幼稚園の卒園式で歌ったんです』とか。アイドルの場合、アイドル村の皆さんはすごく大事なんだけど、もう身内ですよね。AKB 48をよく知らない人が『恋するフォーチュンクッキー』を踊ってくれたとか、村の外の人たちが評価してくれることを目指さなくてはいけない」

46年間、締め切りがない日はない
半世紀近く、日本のエンターテインメント界を中心に活躍してきた。昨今は、韓国の音楽、映画やドラマが国際的に人気を集めている。違いをどう捉えているのだろうか。

「われわれはどうしても、明日、来週、来月、1年と、短いサイクルの中でものを作っていたと思うんですよね。10年、30年、100年単位で考えなければいけない。韓国はかなり前から世界のマーケットを意識して、映画学校をつくったり、語学やダンスに力を入れたりしてきた。意識を変えて、国策としてエンターテインメントを考えないといけないと思いますね」

近年は『あなたの番です』『共演NG』など、企画を手掛けたドラマが話題を呼んだ。自身も普段、夜中までさまざまな配信ドラマを見ているという。アルバイト感覚で始めた高校生のころから46年間、締め切りがない日はない。ここ30年ほど、日々の睡眠時間は約3時間。今も朝6時ごろに寝て9時ごろには起きる。

「挫折はないですね。自分は何が得意で、どんな理由でこの仕事をしているのか。そういう根拠がないまま、ずっとやってきている。根拠があったら、それが覆ると挫折になるけど、ないから何もない。失敗しても『もともとプロじゃないしな』と。落ち込むことはほとんどないですね。だから、才能のある人の作品に嫉妬はしないし、すぐ感心してしまいます」

今年、63歳を迎えた。老いは「愛おしい」と言う。好奇心が尽きたら引退しようと思っているが、今のところその兆しはない。

「どんなことも『面白そう』という言葉に変換すると、面白く思えてくる。どうしたら今日を楽しく生きられるかを考えてますね。幸せは、冷蔵庫の残り物で作る料理だと思うんですよ。作れないものを考えたら、きりがない。世界一大きな冷蔵庫に世界中の食材を集めても、作れない料理はある。残り物で『お好み焼きもどきは作れるね』とか、作れるものを考えたらすごく幸せだと思うんですよね」

「RED Chair」では椅子に揮毫(きごう)していただく。「『終わりましたよ』とチェックを入れました。毎日締め切りがあって、終わったらチェックしていく。だいたい、5つくらいはあって、そのうち3つできたらいいかなと。すると、残りの2つが次の日の締め切りと重なる。締め切りがない日は、46年間ないですね。全くない日があったら、次、どんな番組を作ったら面白いかなと考えるかもしれない」

秋元康(あきもと・やすし)
1958年、東京都生まれ。高校在学中から放送作家として活動。83年以降、作詞家として数々のヒット曲を生む。2008年、ジェロ「海雪」で日本作詩大賞受賞。12年、日本レコード大賞作詩賞、13年、アニー賞長編アニメ部門音楽賞を受賞。映画、ドラマ、CM、ゲーム、漫画など、多岐にわたり企画や原作などを手掛ける。「AKB48グループ」「坂道シリーズ」の総合プロデューサー。


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